最初から最後まで、訳出作業がとにかくひたすら楽しい作品でした。おそろしい物語なのに、こんなにウキウキ訳していて大丈夫なのだろうか、と自分の精神状態が、病み具合が、ふと心配になるほどでした。
辻早苗 sanae TSUJI
グロテスクで美しい世界へようこそ!!
本書『蝶のいた庭』(The Butterfly Garden)は、被害者とも犯人側の人間とも判断のつかない女性の語る物語になっています。舞台は取調室。事情聴取を行なっているのは、FBI特別捜査官のハノヴェリアンとエディソン。
ある事件で十数人の若い女性が救出され、保護されるのですが、だれもなにも話そうとはせず、指示を仰ぐようになかのひとりに目をやっていたため、ハノヴェリアンらはリーダー格らしきその女性から話を聞いて事件の全貌を明らかにしようとします。
ところが、取調室の女性は名前も年齢も不詳で、被害者にしてはありえないほど落ち着き払っていて、質問をのらりくらりとかわすため、短気で熱血漢のエディソンは翻弄(ほんろう)され、彼女が共犯者であるかもしれないという疑念を捨てきれません。犯人側の人間でないとしても、隠しごとをしているのは明らかです。果たして彼女はほんとうに被害者のひとりなのか、隠していることとはなんなのか?
彼女の話は寄り道をしながら、時系列を無視しながら進むため、聴取に手こずるものの、独身のエディソンとはちがって、三人の娘を持つハノヴェリアンはそこにパターンを見出し、辛抱強く女性のペースで話をさせていきます。そして、じわじわと明かされていくその内容に、百戦錬磨の彼らですらが度肝を抜かれ、戦慄することになります。
若い女性たちは拉致され、〈蝶の庭(バタフライ・ガーデン)〉と呼ばれる場所で〈庭師〉とあだ名された男に軟禁されていたのでした。そこは崖や滝や小川や池まであり、花々の咲く美しい温室で、ある程度の自由を認められてはいたものの、逃げ出すことはかないませんでした。彼女たちは〈ガーデン〉での名前をあたえられ、その背中には〈庭師〉の所有の証が刻まれていて……。
〈ガーデン〉名がマヤと判明する取調室の女性は、質問に答えるように見せかけて、あるいは最初は質問に答えはじめるものの、結局はまったくちがう話に着地させて、ハノヴェリアンらを煙に巻きます。それがあまりにみごとなので、読んでいるこちらも気づけばすっかりのめりこんでいるという寸法。
グロテスクでおぞましい本書ですが、残虐な場面の直接的な描写はないので、そういうのが苦手という方にも安心して(?)読んでいただけると思います。本書のほんとうのおそろしさは、それとはちがうところにあるのです。
最初にこの原書を読んだときは、こんな切り口があったのか! と、あまりの衝撃にのけぞりました。崖やら池やらがあり、そのほかの設備もある〈バタフライ・ガーデン〉という現実離れした設定に、〈庭師〉のやつ、どこまで桁外(けたはず)れな金持ちなんだ、と少々引き気味でしたが、ハノヴェリアンやエディソンと同様に状況を把握できないまま読み進めていくうち、いつしかすっかりマヤの語りに引きこまれてしまいました。この、なにもわからないところから物語がはじまり、読者もFBI特別捜査官たちとともに事件の詳細を知っていく、という絶妙な構造のゆえに、すでに救出されているのだから助かったのはわかっているにもかかわらず、マヤたち〈蝶〉に気持ちを寄り添わせ、彼女たちのために怒り、悲しみ、絶望し、自分も〈蝶〉のひとりになった気分を味わい、なんとかしてやりたいと思わせられるのですね。
冷静沈着なハノヴェリアンと熱血漢のエディソンというコンビがいい味を出していて最高で、悲惨な物語なのに、このふたりとマヤのやりとりには、ときにくすりと笑わせられてしまいます。
本書がここまですばらしいものになったのは、やはりマヤという存在を中心に置いたからだと思います。食えない女性、ひと筋縄ではいかない女性なのです。〈ガーデン〉以前のマヤの人生も語られるのですが、けっして幸せではなかったというか、つらい経験ばかりだったことがわかります。年齢の割におとなびていてタフでしたたかに感じられるのも、そういう経験をしてきたからなのでしょう。
最初から最後まで、訳出作業がとにかくひたすら楽しい作品でした。おそろしい物語なのに、こんなにウキウキ訳していて大丈夫なのだろうか、と自分の精神状態が、病み具合が、ふと心配になるほどでした。いえ、こんなすごい作品(語彙が貧弱ですみません)を訳せたのですから、病んでいようとへっちゃらなのですが。
とんでもなく常軌(じょうき)を逸(いつ)したこの物語を書いたのは、ドット・ハチソン。二〇一三年に『ハムレット』を題材にしたYAパラノーマルのA Wounded Name でデビューしました。二〇一六年刊行の本書『蝶のいた庭』は、二作めにあたります。そうです、二作めにしてこんな並外れた作品を発表してくれたのです! 多くの読者に衝撃をあたえ、刊行直後から怒涛(どとう)の勢いでレビューがつき、いまもその数を伸ばしています。
そうなると、今後の作品が楽しみになってくるわけですが、本国ではThe Roses of May が二〇一七年五月にすでに刊行されており、次の作品がThe Summer Children のタイトルで二〇一八年五月に刊行の予定になっているようです。
本書訳出の際は、多数出てくる蝶の和名調べで各種図鑑やインターネットのサイトを参考にしました。和名のついていないものがあったり、参考資料によって和名の異なるものがあったりして、頭を抱えましたが、運よく〈ぷてろんワールド〉というサイトにめぐり合え、その管理人さんにご助力いただくことができました。この場をお借りしてお礼申し上げます。
おぞましくてグロテスクで美しい……訳者がぞっこん惚れこんだそんな稀有(けう)なサスペンスを楽しんでいただき、気に入っていただければ、これにまさる幸せはありません。
■ 辻 早苗(つじ・さなえ)
翻訳者。大阪外国語大学英語科卒。ウルマン『血の探求』、マクリーン『堕ちた天使への祝福』『不埒な侯爵と甘い旅路を』、バーン『禁断の夜に溺れて』など訳書多数。
(2017年12月15日)
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