女子寄宿学校に死体はいらない!
校長とその弟が殺された!? 7人の少女が謎に立ち向かう!
大矢博子 hiroko Oya
とびきりキュートで、底抜けにコミカルで、とてつもなくスリリングで、そして意外とスパイシー──それが本書『聖エセルドレダ女学院の殺人』である。
舞台はヴィクトリア朝終盤の1890年、イングランドのケンブリッジシャー州イーリーにある小規模な女子寄宿学校、聖エセルドレダ女学院だ。生徒は十代の少女が7人。少女たちと共に校内で暮らす女校長と、通いのメイドがいる。
え、たったそれだけで学校? と思われた方もいるだろうが、それについては後述するのでしばしお待ちを。
同校では、日曜日にプラケット女校長が弟のゴッディングをもてなすのが習わし。女生徒のひとりがふたりのために仔牛肉を料理した。ところがその日、ディナーの最中にプラケット校長とゴッディングが相次いで倒れ、死んでしまった! 科学の得意なルイーズが、ふたりは毒殺されたと断言する。本来なら警察か、でなければ大人を呼ばなければならないところだが、そうなると学院は閉鎖され少女たちは家に帰されてしまう。
それぞれ家に帰りたくない事情を抱える少女たちは一致団結、ふたつの死体を庭に埋め、ふたりがさも生きているかのように振る舞うことにした。相次ぐ来客を気転やお芝居で乗り切る7人。この企てはうまくいくのか? そしてふたりを毒殺したのはいったい誰なのか? もしかして7人の中に犯人がいるのでは……。
というのが物語の導入部である。
ページをめくると初っ端からワクワクさせられる。女学院に在籍する7人の名前に続いて、「この物語には登場しない、少女たちの親戚及び知人たち」という記述があるのだ。登場しないのかよ! とツッコみたくなるが、これが実は少女たちの的確な紹介になっているあたり、実に小粋。こういう洒落っ気は少年少女向け海外文学につきもので、それだけで本書に対する「きっと楽しいぞ」という期待がいや増すというものだ。
しかも本編が始まったと思ったら、たった2ページでふたつの死体が転がるというテンポの良さ。即座に十代の女の子たちによる怒濤の大騒ぎが始まり、あとはラストまで一気呵成だ。 さて、この魅力たっぷりの作品をどう解説するかと考えたのだが、冒頭に挙げた4つのキーワードで読み解くのがいいだろう。
つまり、キュート、コミカル、スリリング、そしてスパイシーである。
まずは〈キュート〉から行こう。
なんといっても7人の少女の魅力に尽きるが、7人それぞれが異なる個性を持っていることに留意。著者があらかじめニックネームをつけてくれているので、それぞれのキャラクターがわかりやすくなっている。
決断力と行動力に富むリーダー格の〈気転のキティ〉、恋愛ハンターの〈奔放すぎるメリー・ジェーン〉、優しくて親切で、同情心に溢れた〈愛すべきロバータ〉、気が弱くて騙されやすいが、時に周囲をびっくりさせるような衝動的行動に出る〈ぼんやりマーサ〉、体型が似ているからとプラケット校長の影武者を押し付けられるも、驚くべき演技力を見せる〈たくましいアリス〉、7人の中で探偵役を担うことになる、科学知識豊かな〈あばたのルイーズ〉、死や死体に魅せられるというオカルティックなところがある一方で、アリスをプラケット校長に似せるためのメーキャップに意外な腕を発揮する〈陰気なエリナ〉。
まるで戦隊ヒーローものだ。それぞれの得意技を遺憾なく発揮するくだりは楽しくて仕方ない。キティが方針を立てて全体を統括し、それに従ってそれぞれが持ち場につく。若い警官の訪問時にはメリー・ジェーンがその手管で煙に巻き、科学者のルイーズと死に対して冷静なエリナが状況を分析し(随所に挟まれるエリナのクールな一言がどれだけ物語を面白くしているか!)、アリスは存分にその演技力を見せつけ……。
だが、そうは言っても十代の少女たちである。事件のあった翌日から学校の周辺に時折現れる若い男性が気になるキティ。憧れの男性と会うのを楽しみにしていたパーティに、プラケット校長の扮装で出ることになったアリスの嘆き。隠蔽工作のための買い物ついでに、子犬をもらってきてしまうルイーズ。彼女たちの特技が生かされる場面と、素顔が覗く場面のバランスが絶妙で、愛おしさに身悶えしてしまうほどだ。
彼女たちは決して冷徹な犯罪者ではなく、ごく普通の少女たちである。ただ、家に帰りたくない、7人で姉妹のように暮らしたいだけなのだ。そのために場当たり的にごまかしを続けていく。それが2つ目の魅力〈コミカル〉につながる。
本書は、舞台劇を想像して読まれることをお勧めする。ドアの前で来客を押しとどめるキティ、壁を隔てたとなりの部屋では他の6人が右往左往。アリスを除く6人が庭で死体を埋めているとき、プラケット校長の寝室では来客が校長の扮装をしたアリスに話しかけたりもする。そのドタバタを俯瞰で見ている楽しさと言ったら!
アリスがプラケット校長になりすます場面では「ムリがあるだろ!」と突っ込まずにはいられないし、それが上手くいったらいったで「出来ちゃうのかよ!」とのけぞった。だがこの時代、照明はランプが主で、夜は今のように明るくはない。夜更けの室内なら、体格と声が似ていればごまかせるというのは決して荒唐無稽な話ではないと気づいて膝を打った。また、来客が奥に行くのを止めるため、〈ぼんやりマーサ〉がとっさに突進して杖をはたき落とす場面など声を出して笑ってしまう。よりによってマーサが!
実に秀逸なコメディである。同時に、このコミカルな味わいを生んでいるのは、本書の設定が〈スリリング〉だからに他ならない。
十代の少女たちがふたつの死体を隠して大人と渡り合うなんて、土台ムリな話なのだ。けれど彼女たちは、その場しのぎではあるものの、なんとか場を取り繕う。相次ぐ来客をあの手この手で押し返し、使えそうな情報を盛り込んで嘘をつき、その嘘に乗っかって全員でお芝居。いつバレるか、読者もヒヤヒヤだ。事態はどんどん動いて、最初は暗い室内でプラケット校長のふりをしていたアリスが公共の場に出ていくハメになったときには「どうすんの!」と悲鳴をあげたくなった。
絶体絶命から切り抜ける、その緩急が見事なのである。
なにより本書をスリリングにしているのは、誰かがプラケット校長とその弟を殺した、という厳然たる事実があるからだ。犯人は7人の中にいるのか、それとも他にいるのか。ふたりの死を隠すドタバタの中に紛れているが、もしかしたら協力してお芝居をしているこの中に、殺人犯がいるかもしれない。こんなスリルがあるだろうか。
真犯人と毒殺の方法が判明するくだりでは、何気ない箇所が実は大きな伏線だったことに気づかされる。バラバラだった情報がひとつにまとまる。本書のハイライトと言っていい。
最後に、〈スパイシー〉について語ろう。
キュートでコミカルでスリリングなこの物語は、決してただ楽しいだけではない。その背景にあるのは、かなり辛口の現実だ。プラケット校長が死んだとわかったとき、キティはこう宣言している。
「わたしたちはみんな、なりたい自分になれる。偏屈で気難し屋のプラケットきょうだいが押しこもうとした型になんてはまらずに」
ルイーズは「科学の実験は男性にまかせろ、なんて言われる」のはたくさんだと叫び、メリー・ジェーンも「モラルや礼儀作法のお説教も、もうたくさん!」と続く。
本稿の冒頭で後述すると書いた、たった7人の学校とは何かがここで浮かび上がる。聖エセルドレダ女学院は、今日、日本のティーンエイジャーが通っているような学校ではない。作中にもその言葉が登場するが〈フィニッシングスクール〉なのである。
無理やり日本語を当てはめるならマナー学校、古い言い方だと花嫁学校ということになるだろうか。若い女性がよき家庭人になるため、あるいは社交界デビューに備えて、教養とマナーを学ぶ学校である。つまりは〈お教室〉と考えればいい。規模はさまざまで、少人数の生徒に教師がひとりという〈お教室〉も珍しいものではなかったのである。もちろん、作中で少女たちがライバル視するクィーンズ・スクールのように、より上流の女子が入る全寮制の学校も当時はすでに存在していた。
物語の舞台が1890年であることを思い出されたい。イギリスの教育制度下では、19世紀半ばから女性の高等教育に門戸が開かれ始めた。まずロンドン大学に女性の入学が認められるようになり、1869年にはイギリス初の女子全寮制カレッジ(後のケンブリッジ大学、ガートン・カレッジ)が設立され、エジンバラ大学に初の女子医学生が入学するなど、女性にも高等教育を受ける環境が整い始める。本書の舞台である19世紀末は、経済的自立を叫ぶ〈新しい女〉が登場した時代でもある。
だが、一般の認識は大きく違っていたという。大学に行くような娘は変わり者で、結婚をあきらめたと思われた。大多数の人々は女子教育について「少年は世界のために教育され、少女は客間のために教育される」ものだと信じていた。
少し話は逸れるが、ピーター・ラビットの生みの親として有名なビアトリクス・ポターは、1866年生まれだがガヴァネス(家庭教師)に教育され、学校には行っていない。本書の舞台である1890年に生まれたアガサ・クリスティも、学校には行かず母に教育された。一方、1893年生まれのドロシー・L・セイヤーズは、オクスフォード大学サマーヴィル・カレッジ(当時は女子校で、1879年の設立時の生徒は12人だったという)で言語学の首席だったが、女性には学位が授与されなかった。後年、遡って学位が認められ、セイヤーズは女性で最初に学位をとったひとりとなっている。
それほど、女性が高等教育を受けるということは、稀な時代だったのだ。インフラは整備されつつあったが、人の価値観がそれに追いついていなかった。本書に登場する七人の少女は、ある者は明晰な頭脳と経営手腕を持っているし、ある者は専門家と議論できるだけの科学知識を持っている。だが、彼女たちが通わされているのは、マナー学校なのである。
「わたしたちはみんな、なりたい自分になれる」というキティの宣言が、いかに大きなものだったかお分かりいただけるだろうか。
もう一度最初に戻って、「この物語には登場しない、少女たちの親戚及び知人たち」を読んでいただきたい。個性豊かな7人の少女たちは、その個性を〈矯正〉し、一律的な理想の女性になるため聖エセルドレダ女学院に入れられたことがよくわかる。海外小説らしい洒落た趣向どころではない、実はここに重要な背景が描かれていたのだ。
校長とその弟の死を隠し通すという突拍子もない試みは、読者に笑いとスリルを与えている。だが、彼女たちをその無謀なチャレンジへと駆り立てたのは、〈自分らしくいたい〉というプリミティブな心の叫びなのである。
本書は2014年にアメリカをはじめドイツ、イギリス、ブラジルで出版され、同年のウォール・ストリート・ジャーナルによる最優秀児童図書に選ばれたほか、2015年にはアメリカ図書館協会が最も優れた児童向けのオーディオブックに授与するオデッセイ賞のオナー賞(次席)を受賞するなど、高い評価を受けた。著者のウェブサイトで本書のプロモーションアニメを見ることができるが、これがまた本書のコミカルにしてスリリングな雰囲気が全開の、実にキモカワなシロモノである。一見の価値あり。
なお、著者のジュリー・ベリーは7人きょうだいの末っ子だという。
……なるほど、探偵役のルイーズか!
■ 大矢博子(おおや・ひろこ)
書評家。ブックナビゲーターとしてラジオ出演や講演、イベント司会、読書会主宰などを中心に活躍中。著書に『脳天気にもホドがある。』(東洋経済新聞社)、『読み出したら止まらない! 女子ミステリー マストリード100』 (日経文芸文庫) 。創元推理文庫ではリーバス&ホフマン『偽りの書簡』、マクラウド『おかしな遺産』、ウォルターズ『養鶏場の殺人/火口箱』などの解説を担当。ミステリ小説の月刊ウェブマガジン|Webミステリーズ! 東京創元社