〈週刊文春〉2008年傑作ミステリーベスト10第1位!
『IN★POCKET』2007文庫翻訳ミステリーベスト10第1位!
超人気警察小説シリーズ、珠玉の第4作
天下御免の仕事中毒
とびきり下品で不敵な警部どの
またもてんこ盛りの事件に四苦八苦
*
まったく、もう、しょうがないなぁ。
荻原 浩
フロスト警部と最初に会ったのは、一九九四年の暮れだったと思う。本屋の店先で「ところで、坊や、クリスマスはどうするんだい?」と声をかけられたのだ。「おれはクリスマスの日は仕事に出ることにしてる。よかったら、おまえさんもどうだ?」と。シリーズ第一作『クリスマスのフロスト』の中で、新任刑事のクライヴ・バーナードが、上司のフロストからありがたくない誘いを受けたときのように。
自分が二年後に小説を書きはじめ、小説家なんぞになるなんて想像もしていなかった頃だ。特別読書家というわけでもなく、フィクションには興味を持てなかった時期で、そのときも、クリスマスならぬ正月休みに、たまには小説でも読んでみるか、という程度で書棚を冷やかしていたのだ。
『クリスマスのフロスト』を手に取ったのも、その年のミステリーベストテンで評判が良かったから、というミーハーな理由でしかなかった。笑えるミステリー? なんかいいかげんそうな本だな、と先々の自分に唾を吐くようなことを考えて、レジへ持っていくのをためらった覚えがある。
まぁ、結局読んでみたのだが。
いやぁ、面白かった。
つきあってみなければわからないもんです。人間も小説も(女の人も)。
ジャック・フロストは、イギリスの地方都市デントンの警察署に勤める、よれよれの服と小汚いえび茶色のマフラーがトレードマークの、しょぼくれた刑事だ。風采のあがらない探偵というだけなら、コロンボ警部や金田一耕助をはじめ、過去にも数多くいただろうけれど、フロスト警部の場合、身なりだけでなく一挙手一投足もだらしなく、おまけに不潔。口を開けば、お下劣ジョーク連発。女を見れば卑猥な妄想炸裂。時にセクハラもする。
気のいいおっさんではあるのだが、性格がいいとは言えず(第二作『フロスト日和(びより)』のエピソードに、亡き妻の誕生日に墓参へ行くべきかどうかで悩む、こちらをほろりとさせる場面があるのだが、その直後、ぬけぬけとそれを遅刻の言い訳にしてしまう。涙を返せ)、正義感が強いかというと、これも疑問符付き。その時々の自分の都合しだいで信条がころころ変わる。
こんな男だが、ひとたび事件が起これば、じつは明晰な頭脳で次々と謎をとき、難事件を見事に解決していく――ははぁん、なるほど、そういうパターンね。一作目を読みはじめたばかりのときの僕は膝を叩いたもんだが、それは叩き損だった。フロストの捜査はいつも行き当たりばったりなのだ。
「感じるんだよ。直感でわかるんだ」普通、ミステリーで、探偵役の主人公がそこまで言えば、読者は、さぁ真相に近づいたぞ、と身構えてページをめくる。なのにフロストのおっさんときたら、大見得を切ったわずか数ページ後に、あっさり推理をはずしてしまったりするのだ。
まったく、もう。
でも、そこがフロストのいいところだ。慣れるとクセになる味。読み進めていくうちに、フロスト警部にだんだん肩入れしている自分に気づく。彼の対極ともいうべき、マレット署長以下、俗物エリート連中に放つ珠玉のへらず口に快哉を叫び、彼らから押しつけられた無理難題を、持ち前のつきと、汚れ仕事を一手に引き受けているおかげで掘り起こせる事実にもとづいて(結果オーライと言えなくはないが)解決する姿に、拍手を送ってしまう。「まったく、もう」のあとに、にまにま笑いとともに「しょうがないなぁ」と呟いてしまうのだ。太った尻が、フロストの指浣腸の標的になっている、人がいいアーサー・ハンロン部長刑事みたいに。
一作目でどっぷりはまった僕は、以来、フロストの新作が出るのを、心待ちにするようになった。三作目の『夜のフロスト』が出たのが二〇〇一年。四作目はまだか、と首を肉離れするほど伸ばしていたら、その前に、作者R・D・ウィングフィールドの訃報を聞いた。ショックだった。
七十九歳。伝え聞く経歴や、文章の老獪さ(翻訳者の芹澤恵さんの巧みさもあるだろうが)からみて、若い人ではないだろうと思っていたが、それほどの高齢とは知らなかった。一九八四年にデビューしたとされるが、実際には第一作『クリスマスのフロスト』を書き上げたのは七二年で、長すぎることを理由に、ずっとおクラ入りになっていたそうだ。
未邦訳のフロスト作品がまだ三作残っている、と聞いたのもそのとき。だが、もう読めないとわかると「まだ三作」というより「たった三作」だ。
そのカウントダウンが始まってしまった残り三作のひとつ、本書『フロスト気質(かたぎ)』は、九五年に書かれたもの。
長さを理由に出版拒否されていたフロストシリーズは、回を追うごとにその長さを増している。『夜のフロスト』は七百五十ページを超えて、ミニ広辞苑といった感じなのだが、『フロスト気質』は、ご覧のとおり、それをさらに超える分量の、上下二巻だ。
僕の場合、分厚い本、まして上下二巻を買う段になると、自分に読み通す気力があるだろうかと躊躇し、時間の無駄になりはしまいか、いや、それ以上に値段の元は取れるのか、とさもしいことを考えてしまうのだが、フロストの場合は別だ。ファンにとってはありがたいとしか言いようがない。さしずめ、替え玉無料、延長オーケー。なんのことやら。
上下二巻だけあって、発生する事件、主要登場人物の数と複雑さは過去最高、推定一・五倍(当社比)。今回も同時多発的にさまざまな事件が起こる。
最初は、ゴミ袋から死体が発見された八歳の少年の殺人事件だ。少年は全裸で、右手の小指を切断されていた――
猟奇殺人の臭いがぷんぷんする出だしだが、そのぷんぷんを嗅ぐ暇もなく、十五歳の少女が誘拐され、謎の腐乱死体が発見され、盗まれた夫の形見の勲章はまだ見つからないのかと、老婦人が署に押しかける。フロストは休暇中だったにもかかわらず、マレット署長の部屋から煙草をくすねようとしてデントン署を訪れたばかりに、休暇を返上して、すべての事件を追いかけることになる(いつも思うのだが、誇張はあるにせよ、イギリスの警察というのは本当にこういうシステムなのだろうか。殺人から誘拐、窃盗までを一人の人間に任せてしまっていいのかいな)。
デントン署はあいかわらず人手不足で、苦手な書類仕事から逃げるためとはいえ、事情聴取や現場検証には超人的な忍耐力を発揮するフロストは、例によって不眠不休。睡眠時間の少なさも過去最高じゃないかと思う。飯もろくに食わないのだが、ときたま片手間にかぶりつく食事が、なぜかとてもうまそうなのもいつもどおり。
デントン署のおなじみのメンバーも健在だ。
フロストの天敵、マレット署長の嫌味も今回は一・五倍。うだつのあがらない内勤、ビル・ウェルズ巡査部長の愚痴も一・五倍。
フロストシリーズでは、「坊や」呼ばわりされる若く野心的な新任刑事が登場するのが恒例だが、今回のその役どころは女性だ。「張り切り嬢ちゃん」ことリズ・モード部長刑事。
もう一人の天敵、アレン警部はよんどころない事情によって残念ながら不在だが、代わりにかつてデントン署に在籍していた出世の鬼、ジム・キャシディ警部代行が舞い戻ってくる。こいつの憎ったらしさは、アレンの二倍、三倍。
フロストのお下劣ジョークもパワーアップしている。
「ジャック、あんたにも急いでこっちに来てもらったほうがよさそうだ。おかしなことになってるんだよ、死体が」
「ちんぽこが二本生えてたのか?」とフロストは尋ねた。「だったら、リズを行かせるけど」
まったく、もう。
フロストワールド・拡大スペシャル版といった感のある本書だが、ちょっとした変化も感じる。
フロストが心なしか丸くなった気がするのだ。被害者の家族や同情すべき小悪党には案外に心優しいのが、彼の数少ない長所なのだが、そのなけなしの長所が今回は惜しげもなく披露されている。
亡き奥さんとの過去も、珍しくシリアスに語られるし、みんなの迷惑だったはずなのに、デントン署内の下っぱ連中には、いつのまにか慕われている。
小説に限らず、シリーズ物には、初登場時にはハチャメチャだった、あるいは冷酷なほどクールだった主人公が、回を重ねるうちに、妙に人間的になって、人生を語ったり他人に説教を垂れたりする、という興ざめパターンが往々にしてあるのだが、今回のフロストの小さな変化に対する、ファンである僕の気持ちはこうだ。
「よかったな、フロスト」
素直に喜びたい。相棒の「坊や」にも最後まで嫌われたまま、なんてことが多かった彼が、少しずつみんなに受け入れられている! ずっとフロストを見守ってきた人間としては、それが我がことのように嬉しい。
インタビュー嫌いで、著者近影もめったに公開しなかったという、へそ曲がりのウィングフィールドさんのことだから、次回作では元(もと)の木阿弥(もくあみ)になっている気もするのだが。
というわけで、未読のフロストシリーズはあと二作になってしまった。いままでは、いつになったら次が出るのか、じりじりしながら待っていたのだが、これからは少し焦らして欲しい気もしている。なにしろあと二作だ。早く読んでしまったら、もったいない。
《ジャック・フロスト警部シリーズ作品リスト》
●長編
1 Frost at Christmas 1984 『クリスマスのフロスト』創元推理文庫
2 A Touch of Frost 1987 『フロスト日和』創元推理文庫
3 Night Frost 1992 『夜のフロスト』創元推理文庫
4 Hard Frost 1995 『フロスト気質』創元推理文庫
5 Winter Frost 1999 『冬のフロスト』創元推理文庫
6 A Killing Frost 2008 『フロスト始末』創元推理文庫
●短編
1 Just the Fax(マイク・リプリー編のアンソロジー Fresh Blood II 1997 に収録)「ファックスで失礼」(〈ミステリマガジン〉98年6月号/〈ミステリーズ!〉vol.82)
2 Early Morning Frost(Daily Mail, 2001/12/22,24,26)「夜明けのフロスト」(〈ジャーロ〉2005年冬号/『夜明けのフロスト』光文社文庫)
【編集部付記】R・D・ウィングフィールドは2007年7月31日に逝去しました。享年79。
【Webミステリーズ!編集部付記】本稿は創元推理文庫『フロスト気質』解説の転載です。
(2017年7月6日)