かくして挑戦へ

霞流一 ryuichi Kasumi



 カーター・ディクスンの『かくして殺人へ』、待望の完訳版である。かつて『別冊宝石61』(1956)に一挙掲載されたことはあったが、それは抄訳。原著は1940年の刊行だから実に五十九年、半世紀以上という長い年月を経ての完訳ということになる。そんなに昔のミステリが現代に通じるのか? という疑惑を持たれる方もいるだろうが、心配ご無用。翻訳の良さもあいまって実にリーダビリティに富んだ楽しいエンターテインメントに仕上がっている。
 ――と書き起こしたのは1999年の単行本刊行時だった。それから十数年を経て創元推理文庫に収録される運びとなり、本稿にも声がかかった次第である。
 さて、本作の舞台は第二次大戦中のイギリスの映画界。ジョン・ディクスン・カー(=カーター・ディクスン)自身、1938年から短期間だが映画のシナリオを書いていたことがある。ロンドン・フィルム社制作の『Q型飛行艇』という作品に関わったらしいが、水が合わない上にトラブル続きで、結局映画界に対して嫌悪感を抱いて去ることになる。親友の推理作家クレイトン・ロースンへ宛てた手紙でも、映画人はひとり残らず頭がいかれている、と酷評しているほどだ。
 しかし、転んでもただでは起きないのがカー。当時の苦い体験を生かして書かれたのが『かくして殺人へ』である。
 事件は撮影所という特異な世界で展開される。この「特異」とは映画人の生態を指していう。
 私は諸般の事情により約十五年の間、映画界で仕事をしてきたが、そこに生息する人間くらい面白い見モノはなかったと断言してしまおう(カーのように苦々しい体験も多々あったが)。これは侮蔑した見識ではない。常識を通り越した映画人の言動に感動すら覚えたという意味。敬意とは言わぬが驚嘆の念を覚えているのである。
 例えば、プロデューサーの中には、企画も通っていないのに準備費と称して数百万も飲み食いし、結局映画化に至らなくても平然としている輩がいた。また、ロケ先の宿代を映画のチケットの束で払った強者、あるいは、映画化権が欲しくて毎朝原作者宅の玄関先に陣取る土下座男、制作発表時の俳優と完成した映画の顔ぶれを全く変えてしまったプロデューサーもいた。
 また美術スタッフには、小道具に用意したヘビを監督に「小さい!」と怒鳴られ、結局ニーズに応えられる大蛇が見つからず、二匹のヘビを結んで長くして、スプレーをかけて色を統一し、撮影に臨んだというアイデアマン(?)もいた。
 映画の制作がスムーズに行なわれるよう段取りをつける進行係にとっては、食事の用意が最重要の仕事であり、撮影時間が予定を超えて深夜に及ぶと夜食をセッティングしなければならない。或る監督が「ラーメンが食いたい!」と気まぐれに言い出したので、進行係はスタッフ、キャストおよそ六十人前のラーメンを用意することを決意。しかし、そんな量の出前をこなせる店がない。進行係は深夜の町を駆けずり回った挙げ句、屋台のラーメン屋を四台連ねて撮影現場に帰還した。
 いやはや頭が下がるわ感動するわ、活動屋おそるべし。こうした人間たちの坩堝が撮影所という魔界なのである。映画人というキャラクターを、深刻かつリアルに小説に描くと、実に嘘臭くなるから面白い。「こんな変な人間がいるわけないじゃないか、作りすぎだよ」というふうに捉えられがちなのだ。それくらいエッジの立った人間こそ映画人なのである。
 ところが、本書のようなファルス的ユーモア感覚に満ちた世界では、実にきちんとキャラクターが立ってくる。カーの世界は人工的、アクが強い、などと言われがちだが、本作品ではかえってそんな特質が映画界という舞台と絶妙に調和しているのは興味深い。カーもそれを自覚して、各キャラクターを丹念に作り上げ、嬉々として動かしているように思えるのだ。
 本格ミステリに対する批判の一つに「人間が描けていない」という決まり文句があるが、今回、その必殺技は最初から封じられている。登場人物たちが、作品世界で実に生気に満ち、呼吸している。プロデューサーも監督も脚本家も俳優も皆、特異な人間であるが、カーのラディカルなまでの作風に見事にマッチし、その異界におけるリアリズムを成立させているのだ。
 映画制作は、多数の才気あふれるクセ者たちによって進められるために、常にトラブルと背中合わせにならざるを得ない。いわば才能とプライドの戦場である。しかも本作品は、戦争の真っ最中におけるトラブルの戦場が舞台だ。なんとクレイジーなシチュエーション、狂気の二乗である。そこに繰り広げられるのは、殺人へ直下しようとする悪意の絵巻。気が変にならざるを得ない。人間が壊れて当然である。そして、実際にはほとんど壊れかけの登場人物たち。彼らによって懐疑と探索と恋愛の人間模様が展開される。中でも恋愛を主軸にしているのが本編の特徴であろう。
 ありていの表現を許されるならばラブストーリー、いや、カーのタッチならばむしろラブコメディであろう。そして文字通り戦場的狂乱の状況下で進行するのだから、凡庸な物語であるはずがない。速やかに愛を確認しあい、進展させて、ハッピーエンドというわけにはいかない。バッカスの神とカーが許すはずがない。
 男女の出会い、これまた俗に言うところのボーイ・ミーツ・ガールのシチュエーションからして、ヒネリと皮肉が効いている。そして、その効果は実に卓抜している。先に解説を読まれる方が多いので、詳述するのはよそう。ただ、近い例を記しておく。それは、巨匠ビリー・ワイルダー監督にまつわるエピソードだ。『アパートの鍵貸します』『七年目の浮気』『あなただけ今晩は』などの傑作ラブコメディを残したワイルダーは、若い頃は脚本家専業であった。当時のネタ帳にはボーイ・ミーツ・ガールについての様々なアイデアがメモられていたそうだが、中でも秀逸な設定が語りぐさになっている。それは、デパートの寝具売場のエピソード。男はパジャマの上だけを買いたい、女は逆に下だけを買いたい、そんな二人がバッタリ出会って共通の利害を認め合う。そこからドラマが展開するのだ。鮮やかなスタートである。
『かくして殺人へ』のボーイ・ミーツ・ガールの章を読んで思い出したのは、そのエピソードであった。ワイルダー監督のアイデアに匹敵するのではないだろうか。ストーリーテラーとしてのカーの実力を十分に裏づけるものであろう。えてして本格ミステリには、捜査尋問捜査尋問捜査尋問の繰り返しでドラマツルギーのうねりがないと言われがち(これも本格バッシングの必殺技)だが、そんな批判も、のっけから皮肉の効いたラブコメディを用意することによってかわしているのだ。  そこで別の問題が生じてくる。キャラクターが生きていてドラマ展開が面白いならば、逆にその分、本格ミステリとしてのレベルに疑問が生じてくるのではないか。それもまた一理ある意見であろう。では、その意見に素直に耳を傾けて、その通り、本格モノとしては大したことありません、それ以外の要素で補っているのです、総体として評価してください――と肯定してしまうのか……というと決してそうではない。
『かくして殺人へ』は紛れもない本格ミステリである。それも、カーにとっては大いなる挑戦を試みたと言っていいほどの本格なのである。映画界の描写もラブストーリーも、本格の土俵でのチャレンジを前にした、一種の照れ隠しでしかないだろう。穿った言い方をすれば、照れ笑いを浮かべずにはこんなチャレンジは恐れ多くてできなかったのかもしれない。ここで述べているのは、物語後半に登場する毒煙草の件ではない。不可能状況下で被害者に毒煙草を吸わせるトリックの謎に目が行きがちだがそこはサブトリックで、メインの試みではない。
 カーが仕掛けたチャレンジはどこにあるのかと言えば、全編にまたがっているのだ。
 そして、何に対する挑戦だと言うのか? それは、カーが選出した世界のミステリ十傑に対してである。カーはいわゆるミステリ・ベスト10を挙げている。プロ中のプロがセレクトしたプロのベスト10。その中の或る作品に真っ向から挑戦を仕掛けているのだ。本格ミステリの解説という制約上、ここでは奥歯に物の挟まったような言い方しかできないが、ミステリ史上の里程標の或る一作にカーは挑戦状を送りつけているわけだ。もちろん、本格とはフェアプレイが原則、理性と知性の酷使によって成り立つものであるから、或る仕掛けなりトリックなりに挑もうとするならば、それを凌駕することこそ礼儀の表れ。はっきり言ってカーはその礼節を見事に尽くしたと言えよう。十傑中の或る作品に挑んで、遜色のない、いや、それを超える作品をものにしたのだ。
 ここでは、カーの勝利を称えると同時に、問題の或る作品とは何でしょう? と読者の方々に挑戦状を送って幕とさせていただこう。読書とはそうやって広げていくもの。その楽しみも本書で味わっていただければ、本格ファンの仲間として喜ばしい限りである。
 ちなみに問題の十作品とは、以下の通り。

D・L・セイヤーズ『毒を食らわば』
R・スタウト『腰抜け連盟』
P・マクドナルド『狂った殺人』
E・クイーン『神の灯』
A・E・W・メイスン『薔薇荘にて』
S・S・ヴァン・ダイン『グリーン家殺人事件』
A・クリスティー『ナイルに死す』
A・バークリー『毒入りチョコレート事件』
G・ルルー『黄色い部屋の謎』
A・C・ドイル『恐怖の谷』

[解答のヒントは書籍でご覧ください。]




■ 霞流一(かすみ・りゅういち)
1959年、岡山県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。94年、第14 回横溝正史賞佳作入選作『おなじ墓のムジナ』でデビュー。著書に『フォックスの死劇』『スティームタイガーの死走』『ロング・ドッグ・バイ』『フライプレイ!』等がある。





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