東京創元社の隔月刊誌〈ミステリーズ!〉では現在、北原尚彦さんのシャーロック・ホームズにまつわる古書エッセイ「ホームズ書録」を不定期連載しております。この度、本エッセイをWebミステリーズ!に特別掲載いたします。

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 古本をネットで探す場合、ピンポイントで突き刺す「銛」と、広く拡げる「網」と、その両方のやり方を併用するようにしている。作者名と作品名、場合によっては版元名など判明している情報を全て入力し一点集中で検索するのが「銛」。逆に“怪談”“空想科学小説”など大雑把なキーワードで検索するのが「網」である。後者は大量な情報がヒットしてしまうので、どこで網を投げるか、その網をどのようにして収束させていくかというコツが必要となる。
ホームズ書録1_1調整.jpg  ある時、わたしは「怪奇」という、極めて大きな網を古書検索サイトで投げた。当然ヒット数も多く、創元推理文庫の『怪奇小説傑作集』が大量に引っかかる。それらの中で、聞いたことのない桑野桃華『怪奇小説 意外の怪物』という大正期の本が気になった。
 幸いにして、国会図書館の近代デジタルライブラリーで公開されていたのでアクセスして開いてみる。巻頭の著者による「序に代へて」という文章の、冒頭に目が釘付けになった。そこには「この書は、舞台をアメリカにしてあるけれども原作は英国の探偵小説家として有名なコナンドイル氏のものである」と記されているではないか。続いて「舞台を勝手にアメリカにしたのは自分がこれを翻案する都合から斯(こ)うしたものである」とも書かれている。
 川辺道昭・新井清司・榊原貴教編『日本におけるシャーロック・ホームズ』(ナダ出版センター/2001年)、藤元直樹編「コナン・ドイル小説作品邦訳書誌」(日本古典SF研究会「未来趣味 第8号」掲載/2000年)、新井清司「日本におけるコナン・ドイル、シャーロック・ホームズ書誌」(ちくま文庫『詳注版シャーロック・ホームズ全集 11巻』所収/1998年)と、複数のコナン・ドイル関係の書誌に当たってみたが、このような本は見当たらない。
 それにしても、コナン・ドイルの作品中「怪奇小説」で「怪物」が出て来るものとは、何があっただろうか。人類が到達していなかった高空には想像もつかぬ怪物がいたという「大空の恐怖」だろうか。それとも田舎の洞窟の中に未知の怪物が住んでいたという「青の洞窟の恐怖」だろうか(共に創元推理文庫版『北極星号の船長 ドイル傑作集2』所収)。
 ページを本文に進めると、著者のもとへ手紙が、続いて手記が送られてくる、という体裁になっている。回想記の形態ということだと『クルンバーの謎』(創元推理文庫『クルンバーの謎 ドイル傑作集3』所収)だろうか。
 しかしわたしは、重大な要素にも気が付いた。その手記の書き手は「和田君」という人物で、私立探偵社長の「堀野先生」の助手をしているというのだ。
 このネーミングは、ホームズとワトスンを日本人名にする際にありがちなパターンではないか。とすると、これはホームズ物なのか。だが冒頭のくだりは全く心当たりがない。
 肝心の物語は、著者が和田君から送られてきたノートを読むところから始まる。ある時、堀野先生のもとを「ドクトル森宗玄」が訪ねて来る。森ドクトルは「飛鳥村」というところから来たのだが、まずはその村の伝説を語り始める。かつて村の旧家の主人・飛鳥勇造が水呑百姓の娘に懸想したが断られ、無理矢理彼女を自宅に連れ去った……。
 これは『バスカヴィル家の犬』ではないか! その時点で飛鳥勇造=ヒューゴー・バスカヴィルだとも気づいた。「飛鳥(アスカ)」=「バスカヴィル」であり、「勇造(ユーゾー)」=「ヒューゴー」なのだ。
 残りのページをぱらぱらっと斜め読みしたところ、これは確かに『バスカヴィル家の犬』の翻案だった。表題の『意外の怪物』とは、魔犬のことだったのだ。
『バスカヴィル家の犬』は、「ストランド」誌の1901年8月号から1902年4月号にかけて連載され、02年に単行本化された。我が国では、加藤朝鳥によって訳された『名犬物語』(天弦堂書房/大正5年=1916年)が一番古い翻訳だとされてきた。先述の三つの書誌のいずれでも、そのようになっている。より正確には、大正5年10月刊行。一方の『怪奇小説 意外の怪物』は、奥付を確認すると大正3年1月の刊行。つまり『意外の怪物』の方が古かったのだ。よって“日本で最初に訳された『バスカヴィル家の犬』”の最古記録が三年近くも更新されることとなったのである。
 近代デジタルライブラリーで簡単に読むことができるものの、現物も見たかったので注文する。届いた荷物の包装を解いて表紙を一目見て、購入が正解だったと確信した。表紙中央には著者名と題名が書かれているのだが、その上に黒い犬が描かれていたのである。これを見ていれば「怪物」の正体に悩むこともなかったのだが、近代デジタルライブラリーの画像は白黒なため、背景の色(緑)に溶け込んでしまい、ここに黒犬がいることは判別できなかったのだ。
 また背表紙上部にも、三人の人物とともに黒犬が描かれていた。近代デジタルライブラリーでは、背表紙を見ることはできないのである。

ホームズ書録1_2調整.jpg  翻案を読む際のお楽しみである「名前の置き換え」を中心に、最初から紹介してみよう。
 物語は、わたしを惑わせた書簡文から開幕する。何せ、和田讃次から著者(桑野桃華?)宛のこの手紙は、田園生活で幸せなお正月を迎える準備に忙しい君(著者)が羨しい云々といって始まるのだ。ここだけ読んで、これが『バスカヴィル家の犬』だと判る人は、絶対にいないだろう。
 そして和田讃次の手記の中で語られる部分が、本来の『バスカヴィル家の犬』の物語だ。原作にない書き出しが加わっている一方で、モーティマー博士がホームズたちの不在時に訪ねて来てステッキを忘れて云々という原作のくだりは省かれている。
 先日死亡した「サー・チャールズ・バスカヴィル」は「飛鳥貞雄」、跡継ぎとなった「サー・ヘンリー・バスカヴィル」は「飛鳥清次」。サー・ヘンリーはアメリカから英国に帰国するのだが、本作では舞台をアメリカにしてしまったため、飛鳥清次は逆に英国からアメリカに帰還する。
 依頼を引き受けた堀野先生は、調査を開始した。ホームズは「カートライト」という少年を使い走りにするが、堀野先生が使うのは「勝太郎」少年。これは名前をうまく置き換えた部類だろう。
 堀野先生は、現地に向かう飛鳥清次と森ドクトルに、和田讃次を同伴させる。現地の地名「グリンペン」は「栗が丘」とされている。これはまあ普通。
 殺人犯が脱獄した「プリンスタウンの監獄」は「王子町の牢」。これは音ではなく、単語の意味での日本語への置き換え例。
 殺人犯の名前「セルデン」は、最初だけ「仙次」だったが、それ以降は「仙太」になってしまう。このようないい加減さも、昔の翻案の味わい深さのひとつだと言える。
 清次は、飛鳥家の屋敷が五百年前からその地に建っていた、と発言している。これは原作にもあるのだが、英国からアメリカに置き換えてしまったがゆえに、齟齬が生じている。何故ならば、この翻案の時代背景を大正初期にしてあるとしても、五百年前にアメリカはヨーロッパ人によってまだ発見されていない(というか、コロンブスが生まれてすらいない)のだ。だからネイティヴ・アメリカンしか住んでいなかったところに「屋敷」があろうはずもない。
 現地の人々は「バリモア」が「春蔵」、「フランクランド老人」が「古瀬老人」、「ステイプルトン」が「須田統五郎(すだとうごろう)」、その妹「ベリル」が「花子」。最後の花子はもう、もじりを諦めたのだろう。
 原作では途中でワトスンがホームズへ手紙を送っており、手紙文そのものの形で提示されているが、翻案では手紙内で語った出来事をリアルタイムの出来事としてストーリーそのものに組み込んでいる。これはうまい処理の仕方だと言えよう。
 故・飛鳥貞雄宛の手紙に記されていた謎の女の頭文字「L・L(=ローラ・ライオンズ)」は「つ、つ(=津田露子)」に。日本名だとこういう頭文字の記し方はしないので少しヘンだ。「L」を「つ」にしたのは、音ではなく文字の形状の相似からか?
 飛鳥家の祖先として「海軍中将」の「平八郎」の名が挙げられるが、これは我が国の元帥海軍大将・東郷平八郎からの連想だろう(原作では「バスカヴィル海軍少将」)。
 終盤、原作では「レストレード警部」が登場するが、これが「同僚の礼吉君」となっている。つまり堀野先生の探偵社のひとり、ということだ。
 ラストは普通に終わっており、巻頭における筆者は顔を出さない。つまり最初こそ大きな改変があるものの、全体としてストーリー自体は割合と原作に沿った翻案となっている。但し舞台をニューヨークに置いた必然性は、最後まで感じられなかった。どうせ日本人名に置き換えているのだし、アメリカらしさはほとんどなかったし。
 また堀野は探偵社の社長、和田讃次はその助手という位置付けのため、全体に二人の間での話しぶりが我々のよく知るホームズ&ワトスンとは異なる。
(和田)「先生、こんな中に何をなすっていらっしゃったのです。」
(堀野)「私か、私は一寸飛鳥村まで行ってきたのぢゃ。」
 ――といった具合。
 訳者(翻案者)は、桑野桃華(くわの・とうか)。本名は桑野正夫(1881-1953)。新聞記者を経て東京演芸通信社社長、大日本活動写真協会顧問となった人物で、作家や翻訳家というよりも映画・演芸関係者という印象が強い。実際、浪曲師の浪花節をまとめた『浪界三傑講演集』(三芳屋書店/大正元年)及び『京山若丸山恭為浪花節十八番』(三芳屋書店/大正2年)や、古今東西の女優を論じた上、当時の女優たちをずらりと紹介した『女優論』(三芳屋/大正2年)といった方面の著作が多い。
 映画関係の中では、当時、話題になりすぎて事件となった『ジゴマ』映画の小説本『探偵小説ジゴマ』(有倫堂/明治45年)、『ジゴマ外伝ミツト』(三芳屋書店/大正元年)があり、こちらも探偵小説出版史においては重要だろう。
 その他、新式潜航艇「隼」を巡る空想科学冒険物語『武侠小説 海魔王』(中村書店/大正3年)や、バロン滋野として知られる飛行家・滋野清武の口述をまとめた『通俗 飛行機の話』(日東堂書店/大正2年)などもある。前者は、知られざる古典SFだ。
 版元は、中村書店。昭和初期には児童書出版、その後には「ナカムラマンガシリーズ」の漫画出版で知られるようになる東京・浅草の出版社である。
 今回の発見により日本最古の『バスカヴィル家の犬』『名犬物語』よりも古い『意外の怪物』であったことが判明したわけだが、更に古いものが見つからないという保証はない。『バスカヴィル家の犬』の原作発表から『意外の怪物』刊行まで十年以上。その可能性は十分にある。今後も、日本におけるシャーロック・ホームズ翻訳史の研究進展を多いに望むところである。

(初出:〈ミステリーズ!〉vol.46/2011年4月刊)

(2018年5月9日)



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