「上善如水」と聞けば、日本酒を思い浮かべる人はかなりの酒好きと思えますが、これは本来、老子の言葉で、水に「最上の善」を見出して、「他人よりも上に行こう」「他人を蹴り落してでも上を目指そう」とかではなく、「他人と争わず、常に低いところに留まる。まるで水のように」そんな生き方をすれば、幸せがある。水のあり方のような生き方が理想的な生き方だというような意味のようです。

「水は善く万物を利して争わず、衆人の悪む所に処る(水は万物を助け育てながらも自己主張をせず、誰しも嫌う低きへ低きへと下る)」とあります。

 老子の考えは、「無為自然」と言われていますが、全く何もしないで成り行きに従うのではなく、世間に対して能動的に関わって、尚且つ天地自然の宇宙の原理や変化をそのまま受け入れるということのようです(余談ですが、埼玉県小川町には「無為」という日本酒もあります)。

 さて、囲碁も「無為自然」で打ちたいものです。自分の石と相手の石のバランスを取りながら、流れるように打ちたいものです。しかし、領地を争うゲームですから、勝ち負けがあります。361路の碁盤に互いに一手一手を打って、囲った処が多い方が勝ちです。ちょっと欲が出て、無理な手を打ってしまう。それを咎められて、困ってしまう。まるで人生ですね。

 一手一手には意味があり、相手の意図を考えながら、打ち進めます。領地争いと言いましたが、読み(推理)のゲームでもあります。プロはひと目で2000手を読むと言われていますが、初手をAに打つと、Bと打ってくるだろう、そうすればCに打とう。もし二手目でDと打って来れば、Eに打とう。また二手目でFと打って来れば、Gに打とう。しかし、初手をHに打てば……3手を3通り読めば(推理すれば)これで9手の読みになります。

 一手打たれる毎に、読み(推理)を進めていくわけです。どうすれば地をたくさん囲えるのか、相手の石をへこませられるのか等を考えながら読んでいくのです。

 プロは、初手から一手一手、石の働きを考えて打つようで、定石だから打つということはないようですが、アマチュアの場合は、定石が頼りです。定石を覚えることから、上達が始まると言っても過言ではありません。定石は読みを助けてくれます。ただ相手が、必ずしも定石通りに打ってくるという保証はありません。どこかで変化してくる可能性もあります。

 また定石も一通りではありません。「定石を覚えて、弱くなる」の格言もあります。暗記ではなく、読み(推理)の裏付けのない手は、相手を利するだけです。一手の違いで奈落ということもあります。本書で、定石の多様性を学ぶことこそ、上達には欠かせないことなのです。

(2017年9月12日)



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