「グランドホテル形式」とか「グランドホテル方式」という言葉をご存じでしょうか?

 小説や映画などで使われる表現法で、ホテルなど、一つの大きな場所にそれぞれ、様々な人間模様を持った人々が集まって物語が展開するという方式のことです。
映画『グランド・ホテル』(1932年・アメリカ映画)に由来するようですが、『大空港』(1970年・アメリカ映画)などは、その代表的なものでしょう。

 なぜ、こんなことを書いているかといいますと、本書はノンフィクションなのですが、まさにグランドホテル形式の小説のような読み心地なのです。

 まずこの本には、最初に主要登場人物という数ページの人物紹介が付いています。
 ホテル・スタッフとしては、伝説的なバーテンダーや偉大な料理人エスコフィエ、総支配人等が名を連ね、ドイツ人たち――ホテル・リッツを拠点として美術品の略奪にいそしんだゲーリング、ココ・シャネルの愛人の将校、『悪魔が夜来る』などの映画で有名な女優アルレッティの愛人ゼーリング、ヒトラーにパリ破壊命令を受けたコルティッツ将軍、ヒトラーのミケランジェロと言われた彫刻家アルノ・ブレーカー等々、政治家たち――ド・ゴール将軍、チャーチル……アメリカ人の戦争関係者や従軍記者――キャパ、ヘミングウェイ、彼の三番目の妻で記者のマーサ、四番目の妻となるジャーナリスト、メアリー・ウェルシュ等々、作家――プルースト、コクトー、サルトルとボーヴォワール……、映画スターや富豪たち――サラ・ベルナール、アルレッティ、ウィンザー公爵夫妻、ディートリヒ、シャネル、バーグマン……。
と、一部を書き連ねるだけでも、これだけの人々が登場するのか……と、驚かれるでしょう。
 そして、それぞれの人々にまつわるエピソードには、どこかで聞いた、どこかで読んだというものもあるかもしれませんが、それらの人々がこのホテルを舞台に交流していたことががわかると、新たな局面が見えてくるのです。
 このホテル・リッツという場所で、あの時、あの人があの人物とこんなふうに接触していたのだ! それは、文字通りぞくぞくするような読書体験でした。

 なにしろ、ナチス占領下のパリにあっても、このホテルはナチス将校に占領されていたわけではなく、フランス人たちもアメリカ人の富豪たちも、そこで暮らしていたりするのです。これが、まず驚きでした。
 ゲーリングはインペリアル・スイートで、シルクのキモノでくつろぎ、中毒していたモルヒネを抜くためにバスをつかい、美術品収奪に血道を上げていて、その同じホテル内のバーでは、バーテンがレジスタンスの連絡の手伝いをしていたり……。
 それに、登場人物たちの意外な一面を知ることもありました。
 占領前の時代のことですが、プルースト(コルク張りの部屋に籠もっていた作家のイメージが強いのですが)は実はかなりの野心家だったエピソードも印象的です。
 訳者の羽田詩津子さんは、三谷幸喜監督の『有頂天ホテル』を思い出したそうです(残念ながら、私は見ていないのでした!)。

 ひとつよけいなエピソードを付け加えると、本書のカバーですが、原書の表紙はホテル・リッツにナチスの鉤十字とシャネルらしき女性の姿を重ねたものなのですが、これがホテル側からの猛クレームで、大変な騒動になったのだそうです。
 そこで、本書のカバーもナチスの鉤十字の幟(のぼり)とホテルなどの写真でいいものがあったのですが、一切駄目、こちらで案を本国に提出して許可をとる、という作業が必要で、無難な線でまとめるしかなかったという経緯がありました。
 
 一見、強面(こわもて)のノンフィクションのたたずまいですが、読み心地はグランドホテル形式の小説! 営業部の女性Mは、ゲラを読んで「面白かった! ヘミングウェイって、ヘミングウェイって……」とうなっていました。
 私はと言えば、かつて子供心にエドワード8世とシンプソン夫人のことを「王冠をかけた恋」と書かれたものを読んで、美しい物語なのだと思い、胸躍らせたりしたのですが、本書を読んで驚き呆れてしまいました。エリザベス皇太后が人生で自分を悩ませた二人として、ヒトラーとシンプソン夫人の名をあげたという言葉に納得しました。いやはや。
 
 というわけで、このノンフィクション、驚くほど面白いことを保証致します。


(2017年6月20日)



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