10月5日に一周忌をむかえる北欧ミステリの帝王ヘニング・マンケル。
『流砂』は、がんの宣告を受けてからの闘病記であり、マンケルの思いの全てが詰まった遺言ともいえる作品です。
幼い頃からの思い出あり、〈ヴァランダー・シリーズ〉の読者なら誰もが「あ、この話知ってる」と気づくエピソードも鏤められ、ファン必読の書といっても過言ではありません。
そして、この作品がなぜ『流砂』というタイトルになったのか、それは以下をお読みください。
突然、人生が小さくなったようだった。二〇一四年が始まったばかりの一月のあの朝にがんだと知らされたとき、私はまるで人生が一瞬にして縮んだように感じた。なにも考えられす、荒涼とした景色が頭の中に浮かぶばかりだった。
(中略)
それは流砂について書かれたものだった。カーキ色の服を着て、肩からライフル銃を下げた探検家の男が恐ろしい砂に足を突っ込み、吸い込まれてしまう話だった。男は猛烈な力で砂の中に引っ張り込まれ、どんなにもがいても砂から出ることができない。砂が口と鼻まで入り、男はもう逃げられない。窒息して、しまいには頭のてっぺんまですっかり砂に飲み込まれてしまうのだ。
砂は生きていた。砂の粒が不気味な触角となって探検家を吸い込んだ。肉食の砂穴。人を飲み込む流れる砂。流砂。
(中略)
がんの診断を受けてから、私はこの流砂のことを思い出した。私はがんという流砂に引きずり込まれ、飲み込まれまいとした。むずかしい、不治の病気にかかったというどうしようもない事実。そして抵抗する力さえなくしてしまうほどの恐怖に打ちひしがれず、頭を上げてこの事実と向き合おうと決心するまで、ほとんど眠れないまま十日という時間が経った。
その間絶望して泣いたことは一度もなかった。絶望のあまり叫び出しもしなかった。流砂に飲み込まれないよう、私は一人静かに必死で戦った。
そして、私は流砂から脱出することができた。とうとう私は砂から這い上がり、事実に向き合い始めた。ベッドに横たわって死を待つという考えは、もはやなくなった。今日可能な治療を受けよう。すっかり治癒することはないだろうが、もう少し生きることはできるかもしれないのだから。
(中略)
いま思い出して唯一確かなのは、時間が止まっていたということ。まるで宇宙が縮まってしまったかのようにすべてが凝縮され、過去も未来もなく、今というその一点になった。私は吸い込まれれば死んでしまう流砂の穴の端に必死でしがみついていた。
両手を上げてあきらめてしまいたい、流砂に飲み込まれてもかまわないという気持ちに打ち勝ってから、しばらくして私は流砂の正体について本で読んだ。そして、人を飲み込み、窒息させて殺してしまう流砂という話は、まったくの作り話であると知った。そんな話や物語はみんなでたらめなのだ。その実験を、オランダのある大学が実験で証明している。
だが私は、流砂に似たような存在は、やはりあると思う。
これが私の生きる条件を変えた十日間の真実である。流砂は地獄への穴だが、私はなんとかそれに嵌らなくて済んだ。
〈刑事ヴァランダー・シリーズ〉は、新しい作品が書かれることはなくなりましたが、まだ翻訳刊行はつづきます。皆様どうかお楽しみにお待ち下さい。
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幼い頃からの思い出あり、〈ヴァランダー・シリーズ〉の読者なら誰もが「あ、この話知ってる」と気づくエピソードも鏤められ、ファン必読の書といっても過言ではありません。
そして、この作品がなぜ『流砂』というタイトルになったのか、それは以下をお読みください。
突然、人生が小さくなったようだった。二〇一四年が始まったばかりの一月のあの朝にがんだと知らされたとき、私はまるで人生が一瞬にして縮んだように感じた。なにも考えられす、荒涼とした景色が頭の中に浮かぶばかりだった。
(中略)
それは流砂について書かれたものだった。カーキ色の服を着て、肩からライフル銃を下げた探検家の男が恐ろしい砂に足を突っ込み、吸い込まれてしまう話だった。男は猛烈な力で砂の中に引っ張り込まれ、どんなにもがいても砂から出ることができない。砂が口と鼻まで入り、男はもう逃げられない。窒息して、しまいには頭のてっぺんまですっかり砂に飲み込まれてしまうのだ。
砂は生きていた。砂の粒が不気味な触角となって探検家を吸い込んだ。肉食の砂穴。人を飲み込む流れる砂。流砂。
(中略)
がんの診断を受けてから、私はこの流砂のことを思い出した。私はがんという流砂に引きずり込まれ、飲み込まれまいとした。むずかしい、不治の病気にかかったというどうしようもない事実。そして抵抗する力さえなくしてしまうほどの恐怖に打ちひしがれず、頭を上げてこの事実と向き合おうと決心するまで、ほとんど眠れないまま十日という時間が経った。
その間絶望して泣いたことは一度もなかった。絶望のあまり叫び出しもしなかった。流砂に飲み込まれないよう、私は一人静かに必死で戦った。
そして、私は流砂から脱出することができた。とうとう私は砂から這い上がり、事実に向き合い始めた。ベッドに横たわって死を待つという考えは、もはやなくなった。今日可能な治療を受けよう。すっかり治癒することはないだろうが、もう少し生きることはできるかもしれないのだから。
(中略)
いま思い出して唯一確かなのは、時間が止まっていたということ。まるで宇宙が縮まってしまったかのようにすべてが凝縮され、過去も未来もなく、今というその一点になった。私は吸い込まれれば死んでしまう流砂の穴の端に必死でしがみついていた。
両手を上げてあきらめてしまいたい、流砂に飲み込まれてもかまわないという気持ちに打ち勝ってから、しばらくして私は流砂の正体について本で読んだ。そして、人を飲み込み、窒息させて殺してしまう流砂という話は、まったくの作り話であると知った。そんな話や物語はみんなでたらめなのだ。その実験を、オランダのある大学が実験で証明している。
だが私は、流砂に似たような存在は、やはりあると思う。
これが私の生きる条件を変えた十日間の真実である。流砂は地獄への穴だが、私はなんとかそれに嵌らなくて済んだ。
〈刑事ヴァランダー・シリーズ〉は、新しい作品が書かれることはなくなりましたが、まだ翻訳刊行はつづきます。皆様どうかお楽しみにお待ち下さい。
(2016年10月6日)
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