「也寸美くんって誰?」というシリーズ未読の方も、ぜひ「インタビュウ」から「也寸美くん名演技」へとお進み下さい。勿論既読の方も。
子供の頃、持ってなかった?
おれは持ってた。撥条【ばね】仕掛のね。先っちょを人や物に押しつけたら刃が柄の内に入り込んで、ぐさっと刺さったみたいに見える、あの悪趣味な玩具だよ。縁日で強請【ねだ】って買ってもらったんだっけ。本当に深々と刺さったように見せかけるには、結構なこつが必要なんだが、そういう点ばかりは生来器用らしくてね、よくほかの子供の背中や自分の胸を突いて見せちゃ、まわりの大人をぎゃっと驚かしたものさ。
主演の大川五十鈴【いすず】が握りしめてるのは、同様の仕掛ナイフの筈だった。といっても縁日や駄菓子屋で買ってきたような代物じゃない。脚本家にして演出家の馬尾藻【ほんだわら】が、かつて丹精を尽くした傑作だ。
神は細部に宿る、がかの未完の大器の口癖だった。だから自分が演出する舞台の、大道具に関しちゃ膨らませたゴミ袋で構わないってくらいに大雑把だったが、小道具は自分の蒐集品か作品でなけりゃ気が済まなかった。
構造上、お手本となった骨董品より柄がだいぶ大きくて無骨だったが、それでも大した出来映えだったよ。遠目に一本ずつ見せられたなら、きっとおれでもどっちがどっちだか区別がつかない。普通の人間は、刃に触れてみないかぎり仕掛ナイフとは分からないだろう。撥条の仕掛も滑らかで刺し心地抜群。あんなので遊んでいたら、老練の刑事でも子供の腕をひねり上げて手錠を掛けるさ。
触らせてもらうや欲しくて堪らなくなり、譲ってくれるよう馬尾藻に頼んだもんだが、一笑に付されちゃった。おれが露骨に落胆を見せたからだろう、鄭重に理由を説明された。ここ数年の全公演で使用されてきた、劇団フルスロットルの一部ともいえる小道具で、ジャックと命名して皆でそう呼んでるんだとか。とうぜん今後も活躍が期待される、と。
「自分では大した出来とは思っていないよ。みんなの愛着の問題なんだ」と馬尾藻が今更のように謙遜する。
「いえいえ」と頭を揺らしながら、おれはすでに別のことを考えていた。
毎度ジャックが登場してきたんだとしたら、フルスロットルの芝居には必ずナイフで人か、すくなくとも動物を刺す場面があるって訳だ。小劇場専門のアングラ劇団とはいえ――いや、だからこそ――常連客は多かろうに、マンネリを指摘されはしないのかしら。
それとなくそこのところを尋ねてみると、馬尾藻曰く、
「このジャックへの愛着がそういう現象を招いているというのは、正直、否定しにくいな。そのぶん役者の演技の比重が、どんどん大きくなっている。素晴しい刺され役がいてね。刺され兄さんと呼ばれたりして、本人も満更じゃないようだ。もっとも舞台には、なるたけ寸前までこいつを持ち出さないよう、座長の大八【だいはち】と申し合わせてある。基本的にはジルを握って演技させるんだ」
「それはまた、どうして」
「この刃は近年の実用ナイフから抜いたステンレス、一方ジルの刃は炭素鋼――現代から見れば欠点だらけの普通鋼だ。でもね、それが磨きあげられてスポットライトを浴びた重厚な輝きに、こいつの単調な反射はとうてい及ばない。ただ皮膚や肉を切るだけだったら、それは草の葉にも紙にもできる。だけど演劇で――狭い空間に詰め込まれた衆人を、無辺の夢に酔わせるべき座標で――安っぽい小道具はあまり貢献してくれないよ。素手の役者が持っているような演技をしたほうが、まだましというものさ」
「それは面白い。いっそ衣装も着せない演出はいかが」
馬尾藻は笑って、「きみ、出てくれるかい」
「願い下げです」
ジャックに対してジルと呼ばれていたのは、馬尾藻が古物市で求めてジャックのお手本にした、百年まえの英国製の果物ナイフだ。すなわち登場回数でいえば、ジャック以上に劇団に貢献してきた。しかしあの公演の千秋楽に限って云えば、少々活躍の度が過ぎたと云える。
刺され兄さんが例によって刺殺される場面で、看板女優の五十鈴が握っていたのは、突けども突かれども刃の引っ込むことはない、ジルのほうだった。
誰もが兄さんと呼んでいたからここでもそれに準じるけれど、本名は新津【にいつ】という。飛び抜けて歳が上ってこともあり、新津さんが訛って兄さんになったそうだ。くだんの芝居では奇しくも五十鈴の兄という設定だったから、舞台上でもなにかと普段どおり「兄さん」と呼ばれていた。
ついでに座長についてだが、正しくは大川八十助【やそすけ】といって、五十鈴の実の弟である。物々しいので略して大八。馬尾藻も短くホンダと呼ばれることが多かった。
珠子:兄さん、帽子をかぶって――こんなに遅くから、またお出掛けなの。
銀造:ああ。付合いが重なっていてね。
珠子:職場は無いのに、付合いだけは残っているのね。
銀造:友達付合いってのがあるんだよ。それとも、職無しは家でじっとしていろとでも?
珠子:そうは云わないけれど。
銀造:おれが外で飲み食いする金が惜しいのか。心配するなよ。まだ親父が遺してくれた物が色々とあるじゃないか。おれたちには無価値な田舎の土地や外国の株や、映画やサーカスのなんとか権。順に売り払っていきゃ、ここ十年は食うにも着るにも不自由しないさ。
珠子:そりゃあ確かに、慎ましく暮らしていれば――。
銀造:なんだよ、その膨れっ面は。おまえだって親父の遺産でのうのうと好きなものを食い、ひらひらした洋服を買ってきちゃあ鏡の前で気取ってるじゃないか。おれが気づいてないとでも思っていたか。
珠子:そういうことじゃないのよ、わたしが云いたいのは――。
銀造:洋服やネックレスの代金くらい、これからは自分で稼いでみせるって? だからおれにも働けと? 自分の手を広げて見つめてみろ。そんなふにゃふにゃで生っちろい手をした女、どこの店屋や工場が雇ってくれるっていうんだ。手を見ろ。親父が生きている頃のおれは商社の第一線で、会社を叔父貴に乗っ取られてからも脚が事故でこうなっちまうまでは、工場で働き詰めに働いていた。でもおまえは一度だって働いたことがない。
珠子:違うの。わたしが心配しているのは――兄さん、またあの店の、あの女の処に行くんでしょう。
銀造:ラサータの琥珀のことか? 行ったが悪いか。どうしておまえが女房のような口をきく。妹のくせに。
珠子:血は繋がっていないもの。
銀造:孤児院の出で悪かったな。だから親父や叔父貴に認められようと、必死に働いた。その挙句がこの脚だ。おまえのような温室育ちに、おれや琥珀の気持ちは分からんさ。
珠子:そんな意味で云ったんじゃないわ。わたしには、兄さんがあの女に騙されているような気がしてならないの。兄さんの遊びをとやかく云える立場じゃないのは分かっているわ。でもあの女にだけは――お願い、もう会わないで。
銀造:騙そうが騙されようがおれの勝手だろう。おまえのその命令口調には、もううんざりだ。本当、辟易するよ。
珠子:だって兄さん、わたしに命令してくれないんだもの。だからわたしから我儘を云ったり、ときには命令してみることに決めたの。
銀造:奇妙な理屈をひねり出したもんだ。おれは自由に生きてるんだから、おまえも自由に生きればいいだろう。出掛けるぞ。あとはご自由に。
珠子:待ってよ。せめて、留守のあいだをどう過ごしていろって、命令してから出掛けてよ。昔の兄さんは身勝手で残酷で、でも温かかった。今の兄さんはただの腑抜けよ。
銀造:(鼻で笑う)
珠子:待っていて。一生のお願いだから、わたしがこの部屋から消えて、また戻ってくるまで、十分――いえ五分でいいから待っていて。
珠子、しも手に退場。銀造、かみ手に去ろうとするが、思い直し、舞台中央で煙草を喫いはじめる。珠子の歌う陽気な〈頬をよせて〉が響いてきて、ぎょっと、しも手を見る。
本物の〈頬をよせて〉が流れはじめると同時に、かみ手から琥珀の幻が登場。銀造をダンスへといざなう。銀造、ほっとした風情でその手をとる。
ダンスが盛り上がるなか、不意に照明が変わって音楽も已み、琥珀そっくりの衣装、そっくりな髪型の珠子が登場。琥珀の幻、かみ手に退場。
珠子は手にナイフをぶら下げている。
銀造:なんだ、その恰好は。
珠子:(くるりと廻って)素敵? せめて兄さんの、今の好みに合わせてみたの。
銀造:滑稽だね。しかし服装のことより、なんだってそんな物を持ち出してきた。
珠子:むかし兄さんがくれたんじゃない。わたしが弁護士の信楽【しがらき】さんに便宜をお願いにあがると決めたとき、もし乱暴をされそうになったら、これで信楽を刺すか、自分の胸を突いて死ねと云って――堕落は牢屋よりも、死よりも恐ろしいからと。
銀造:(かたとき真顔を見せるが、やがて失笑して)そんなこともあったかな。
珠子:だからわたしはこれから、自分が育んでしまった堕落を殺します。それはわたしの内にだけあるんじゃないの。でも安心して。外にばかり刃【やいば】を向けはしないから。
――と云った直後、銀造に体当たりしてぐさり、が筋書。予定外だったのは、本当にぐさりだった点。ジルの刃も役者が怪我をしないよう丸めてあったが、なまくらったってナイフはナイフ、大の大人の体当たりざまなら、衣装も皮膚も貫くってもんだ。
兄さんは唖然として五十鈴を見返した。やがて立っていられなくなり、あとざまに倒れながらかみ手へと退場。皮肉にもそれは予定どおりの所作だった。腹にずんぶと食い込んだナイフごと退場しちまった点だけが違っていた。
刑事ドラマやなんかだと、楽屋から悲鳴が響いて――が定石の場面だが、現実はあんがい物静かでコミカルだった。兄さんは自分の身になにが起きたのか、あるていど冷静に把握していたようだ。異変を察して飛んできた大八に、
「平気平気、おれの出番はあと一場だ。浄弘【じょうぐ】先生が観にきてるんだから最後まで演るぞ。おまえの名を演劇界に轟かせてやる」とひっくり返ったまま云い、やがて自力で壁際まで移動した。腹の動きに添って上下しているジルの柄を見て、「あーあ、ナイフを連れてきちゃった。これじゃあ珠子が自殺をはかれない。筺【はこ】にジャックが残ってるだろうから、誰か、うまいこと渡してやってくれ」
当夜の客席には、大八の長年の請願が叶い、名の知れた評論家が姿を見せていた。フルスロットルの面々にとっちゃ、大舞台のオーディションにも匹敵する一夜だったのさ。しかも皆が精神的な支えとしている馬尾藻は、よりによってインフルエンザで寝込んで、今公演には一度も顔を出していなかった。彼が立ち合ったゲネプロ、そっくりそのままに務めなきゃっていう重圧で、全員の思考が麻痺しかけていた。
兄さんの言葉に我が意を得た大八は、もののみごとに事の優先順位を間違えた。集まってきた劇団員たちに楽屋独特の小声で、しかし鋭く、「舞台続行。みんな持ち場に戻れ」
次にジャックを求めて、しも手へと駆けた。見つけて、かみ手に戻ってきて、舞台の姉を懸命に手招いた。
五十鈴は合図に気づかなかった。演技を中断させないことに必死で、舞台袖に目をやる余裕などなかったと思しい。そして咄嗟の判断から、彼女にしか見えない空気ナイフでもって、自刃の演技を遂行したのである。おれが観客だったらけらけら笑いだすところだが、浄弘先生は事情を知るまで斬新な演出だと思いこんで、いたく感心していたらしい。
もはやジャックの出番なしと見切った大八が、ようやっと兄さんの負傷へと気を向けたが、なにぶん素人、止血の準備も目処もないまま、力任せにジルを引き抜いてしまった。大八の顔は血汐に染まった。腹圧によって内臓の一部も飛び出したが、そこまで観察している余裕は大八になかった。すでに腰を抜かし、天井を向いて呆けていたのだ――。
右の一連を犯罪と目すならば、実行犯が大川五十鈴であることは明々としている。しかし警察の事情聴取でも、劇団の面々に対しても、彼女は強硬に無実を主張した。
「嵐のような早替りなの。銀造と琥珀のダンスの、襤褸【ぼろ】が出ないうちに再登場しなきゃいけないのよ。いざ準備が済んで、出て行きがけに渡されたナイフがジャックがジルかなんて、確かめている余裕があるもんですか。ふたたびスポットを浴びてから兄さんにぶつかっていくまでの時間を、記録映像で確かめてほしいわ。ほんの何十秒でしょう? なにを冷静に判断できるっていうの。わたくしは周りを信じて、懸命に予定どおりの演技をしただけ。第一、罪を犯すのにどうしてわざわざ、自分が最高に目立っている瞬間を選びますか。起きたのは単純な事故で、わたくしもその被害者という話でしょう? ええ、今も事故だと信じていますけど、万が一、誰かに兄さんへの殺意があったんだとしたら、こう云ってはなんだけれど、それはわたくしにナイフを手渡した人なんじゃなくて? 誰から渡されたかも憶えてませんが」
尤もな話であって、五十鈴にジャックかジルかの選択権がなかった以上、殺意は立証しえない。よって起訴も勾留もされなかったが、この結末は、劇団員たちの胸に釈然としないものを残した。
五十鈴にはかつて兄さんと交際していた時期があった。どうやらこっぴどい捨てられ方をしたらしく、未だ「役者として優れていても人としては屑」「とびきり惨めな死に方をするがいい」といった暴言が絶えなかったし、あまっさえ「いつかジルで刺してやる」がこのところの口癖だったのである。
ジャックとジルは、馬尾藻が実家の納戸で見つけてきた、塗りの小筺に並べて保管されるのが常だった。若い男女を表す慣用句そのままに、左がジャックで右がジル。柄の下、刃の下に一本ずつ横木が渡してあり、それぞれの幅に合わせた溝が切ってあるので、入れ替えて収めることはできない。
そんな二本を、誰が取り違えたのか。五十鈴は記憶していないと云うが、劇団じゅうが答を知っているから省略したに過ぎない。登場まえの五十鈴の傍らで、付人よろしく髪を直してやったり小道具を手渡したりするのは、もっぱら気の毒な妹分、三東菱子【さんとうりょうこ】の役目だった。
あくまで役者として劇団にいるのだが、高校演劇部の後輩だったとかで、五十鈴に頭が上がらない。おれが観てきたかぎり演技力も遠く及ばない。しかし美貌は五十鈴に引けをとらない。それどころか、やや現実味に欠けるほどの、恐るべき整い方である。
美しい者に取り巻かれていたいが、自分が主役でなければ気が済まないというところが、女にはある。若い女優で美貌とくれば、白馬の王子が現れるまでは、力ある女優の手下に甘んじねばならない――と、この含蓄あるようなないような発言は、ある晩、酔った大八の口から発せられた。彼は明らかに菱子に想いを寄せており、姉の監視の手前、大役に推挙できないのを悲しんでいた。
劇団フルスロットルは、大川姉弟と馬尾藻が意気投合して、十年前に旗揚げした。芝居の心得があったのは五十鈴だけで、彼女が弟の友人である馬尾藻の文才に惚れこみ、演劇の世界に引きずり込んだのである。自分はそのついでだった、と大八はつねづね語っていた。
「静かな男だし舞台にも立たないけれど、フルスロットルは間違いなくホンダの劇団だよ。次の重要人物が姉さん。あれでも看板女優だから。旗揚げメンバーでいちばん実力に欠けるぼくが、座長の名を貰ってバランスをとってるって訳。ぼくの出番が少ないのを可哀相に思ってか、ふたりが演出をやってみないかと持ち掛けてきたことがある。いちおう頑張ってみたけど、途中で放り出しちゃった。ホンダはきっと、まるで文章を書くみたいに、欲する結果を得るためには、何を配置すればいい、誰をこう動かし、誰をこう喋らせればいい、というのが見通せるんだよ。ぼくには逆立ちしても出来ない芸当さ。役者としての自分にも、決して見切りをつけてる訳じゃなけれど、兄さんみたいに容姿や声に恵まれてるでもないからなあ。いつか劇団が大きくなったら、裏方を中心にやっていこうと思ってるんだ。華やかな役まわりは華やかな資質に任せて、ぼくは彼らが素晴しいものを創っていけるようなプロデュースを、と思ってる。菱ちゃんも応援したい。菱ちゃんグッズをたくさん作りたい」
ジャックとジルの取違えに話を戻そう。警察の聴取に対して三東菱子は、あっさりとみずからの過失を認めたという。ジャックを渡した、との意識はあるものの、自分以外に間違いえた人間が存在しない、というのがその理由だった。むろん罪には問えない。自動車の運転で右と左を間違えて事故に至れば過失致死傷だが、暗く忙しい舞台袖での小さな取違えをその結果から罪に問うのは、桶屋の儲けを風に捧げよと命ずるにも等しい。
五十鈴との敵対を辞さない兄さんは、菱子にとって、大八より遙かに頼りになる存在だった。自責の念は、彼女を短時間のうちにやつれさせていた。夜の警察署から出てきたとき、外で待っていた大八にこう述べたという。
「ひょっとしたら――ですけど、兄さんからまえ『茶碗を持つほうにジャック、箸を持つほうにジル。山場で美鈴に箸を渡さないでくれよ。おれが大怪我をするからね』と云われたのが、頭のどこかに残っていたのかもしれません。そのときわたし、左右を入れ替えて覚えとかなきゃ、と思ったんです。わたし――あの、気づかれてました? 左利きなの」
筋書によれば、瀕死の銀造はかろうじて場末のラサータへと辿り着く。窓灯りに手を伸べようとした瞬間、脚の力が尽きて頽れる。窓の向こうでは、客演の逢魔昴が演じる琥珀、そして菱子演じる同僚の藍子が、退屈げに銀造のリキュールを飲んでいる。
藍子:こんなに減らしちゃって、わたしたち、銀造さんに叱られないかしら。
琥珀:あたしが飲んだって云えばいいわ。あの人は決してあたしを叱らないもの。
藍子:へえ、ずいぶん自信があるのね。
琥珀:自信じゃないわ。諦めよ。あの人はあたしを叱らない。憎まない。真に愛したこともなければ、たとえあたしが自殺したって心に漣【さざなみ】も起きないの。きっと「おまえらしいよ」と笑うだけ。あの人は人生を、いまあたしたちがしているような退屈凌ぎの連続だと思っていて、あたしはさしずめ――そう、この瓶のラヴェルで踊り続けている女ってとこ。
藍子:意地っ張りねえ。あんたがあの人に本気だってことくらい、端【はた】で見ていて気づかないとでも思ってるの。
琥珀:そうよ、意地を張ってるの。もしあの人が、宝石やドレスじゃなくて態度で――そう、せめてあの小生意気な妹くらいに扱ってくれたなら、あたしはいつでもこの商売から足を洗い、お化粧だって洗い落とすでしょうよ。
藍子:足はともかく、お化粧は洗わないほうがいいんじゃなくて? おまえは誰だと訊かれたらどう云うの。
琥珀:御挨拶ね。でも心配になってきちゃった。今のうち、目立つ処に彫りものでも入れとこうかしら。
戸外の銀造、最期の力を振り絞って壁を這い上がり、一度、窓を叩く。ふたたび地面に崩れ、そのまま絶命していく。
藍子:今、外で変な音がしなかった?
琥珀:さあ。したような、しなかったような。
藍子:なにかが窓にぶつかったのかしら。
琥珀:わざわざ開けて確かめたりしないでよ。厭な風が入ってきそうだから。
しかし千秋楽、情景は以下の如くであった。
瀕死の兄さんはそもそも舞台に現れず、ゆえに気配などありはしない、にもかかわらず「外の気配に気づかない女」を演じているのに倦んだ、最年少の逢魔昴が、こう蛮勇をふるったのだ。
藍子:今、外で変な音がしなかった?
琥珀:するか。
藍子:え? あの――今、外で変な音がしたでしょう?
琥珀:しなかった。あのね、菱子さん、その科白は、お客さんに変な音が聞えてて、初めて意味を持つんじゃない? 呑気なあたしたちと、死にかけてる銀造との、対比に泪してちょうだいっていう場面なのここは。でも舞台にはあたしたちふたりしかいやしない。ねえお客さん、誰でもいいからケータイで救急車を呼んでくださいな。銀造が舞台袖で死にかけてるの。それから、もしお医者さんか看護師さんがいらしたなら、応急処置をお願い。
斯【か】くして、今更のように舞台は中断。客席には医師も看護師もいなかったが医学生がいて、電話で大学の先生の指示をあおぎながらの応急処置を施し、兄さんは辛うじて生きたまま救急病院へと搬送された。
深夜、灯りの大半が落とされた病院のロビィに、事情聴取や後片づけから解放された主要メンバーたちが集まってきた。大八、五十鈴、菱子、昴、狸弁護士を演じた常世田【とよた】、父親役の鱸【すずき】に、叔父役の祭田【まつだ】。馬尾藻にも事の次第は連絡してあるが、相変わらずの高熱で家から出られないとのこと。
初めは皆、異様にしんみりしていたけれど、大八が「姉さんが手加減して刺していれば」と無神経な恨み言を云ったのを口火に、姉弟喧嘩が始まった。五十鈴の主張というか自己弁護は、前述した通りである。まして、
「こういうとき、黙って責任を負うのが座長の役目じゃなくて」と大八を責め返しもした。
大八は顔面を蒼白にして、「なぜホンダでも姉さんでもなく、おれが座長に祭り上げられたのかが、いまはっきりと分かったよ。そうか、そういう肚だったか。いいよ、皆がそう望むなら、ぼくは責任を負って座長を辞任しよう。でもその瞬間までは座長だ。座長として大川五十鈴に命じる。あんたは馘首【くび】だ。次の公演のヒロインは菱子ちゃんだ」
五十鈴もまた蒼白の、しかも般若と化した。「あなたたち、ぐるだったの? わたくしを陥れようとして、そのために兄さんをあんな目に遭わせたのね」
「冗談云ってんじゃない。日頃から兄さんを刺したがっていたのは、あんただろう」
「それこそ冗談に決まっているでしょう。それを利用して」彼女はきっとベンチの隣席を睨みつけ、「菱子、高校で苛められっ子だったあなたを、これまでわたくしがどれだけ庇って、秘密だってまもり続けてあげたと――」
不意の飛び火に、初めはただ面喰らっているかに見えた菱子だったが、それからの彼女の百面相はちょっとした見物だった。高山の霞よろしく目まぐるしく表情が変化したと思うや、やがて晴れやかに、その本性を現したのである。
「大川先輩、あの、自分がなにを云っているか、分かってらっしゃいます? 慥かにわたしはナイフを間違えました。でも――きっと五十鈴さんは仰有らないと思ってわたしも警察には黙ってましたけど」この部分を彼女は敢えて重ねた。「警察には黙っていましたけど、五十鈴さん、わたしがジャックとジルを取り違えたのは、今回が最初じゃありませんよね?」
五十鈴はきゅっと唇をむすんだ。
「お答えください。わたしの失敗は今回で何度めですか」
「――今夜が初めてだと思うわ」
「それはこのたびの公演に限ってです。以前の公演も含めれば、わたしが憶えているだけで三度。性懲りもなく同じ失敗を重ねてきた、うっかり者のわたしが悪いのは云うまでもありませんが、登場まえの五十鈴さんにナイフがどちちかを確認する余裕がないというのは、嘘です。毎度毎度、粗探しをするみたいにわたしの仕事を確認して、失敗を見つけるや、舞台の進行なんかお構いなしに悪口雑言を浴びせてこられたじゃないですか」
「でも今夜は――今夜は、浄弘先生がいらしたじゃない。わたくしだって人並みに緊張するわ。本当に気持ちに余裕がなかったの」
「今夜は特別、というだけで結構です。それ以上は申しません。五十鈴先輩を操作できるとの意識なんて、わたしには懐きようがなかったと、皆さんが知ってくだされば充分です」
菱子の口ぶりは、あたかも高らかな勝利宣言であり、五十鈴がぎりりと奥歯を鳴らしたのがロビィ全体に響いたほどだった。しかし彼女の双眸が輝きを取り戻すまでに、さして時間はかからなかったのだ。くるくると奇妙な音がしたかと思うと、それは五十鈴の含み笑いだった。
「語るに落ちたわね、菱子。今、手品師がうっかり手口を語ってしまったのよ。あなたにわたくしは操作できない。でも故意とは悟られない頻度でナイフを取り違えていれば、その回数を重ねるごと、わたくしがこういう立場へと陥る可能性は高まる。あなたが背負うリスクはわたくしの?咤だけ。確率を利用した手品だわ。本物の手品師なら毎回出来るような顔をするところ、あなたは『まさか』としょぼくれる。違いはそれだけ」
「あの、宜しいですか」
先刻から後ろで待機していた看護婦が、さすがに焦れて声をあげ、五十鈴と菱子は驚きのあまりベンチから転げ落ちかけた。
「目覚めてはおられませんが小康状態ですので、ご家族はICUに入れます。おみえになっていますか」
大八が立ち上がり、「助かるんですか」
「わたしの口からはなんとも。ご家族はまだでしょうか」
「ここには友人だけです。ご家族に連絡はとってありますが、九州なのでそう簡単には――。友人は面会できませんか」
すると看護婦は意外にあっさりと、「こちらへどうぞ」
立ち上がる者も遠慮を示す者もいて、けっきょくICUへと足を踏み入れたのは、大八、五十鈴、菱子、そして昴の四人。宇宙船の内部を思わせる多様な装置、ディスプレイの数字、輸血や点滴のパックに囲まれたうえ、それらと電線やチューブで繋がって生命を保っている兄さんの姿は、さすがに一同を銷沈【しょうちん】させた。
菱子が泣きべそで、「やっぱりわたしが悪いんです。わたしがナイフを取り違えさえしなければ――」
すると五十鈴も殊勝に、「でも実際に刺したのはわたくし。傷つけえないと信じていたとはいえ、こんな目に遭わせたという事実は事実――」
大八は手を震わせながら、「ぼくがいちばん悪い。あのとき即座に舞台を中断しておけば、こんなことにまで――」
昴が吐息して、「皆さん、ご自分を責めないで――って、あたしが続けるとでも? ああ、胸糞悪い。三人とも悪いに決まってるじゃないの」
菱子、五十鈴、大八は、ぎょっとして彼女を見返した。
「菱子さんは五十鈴さんに恥をかかせようと、繰り返し間違った小道具を手渡してきた。結果がどうなろうが自分の知ったことじゃないと。五十鈴さんは、ここまで重傷になるとは思ってなかったんでしょうけど、握っているのが本物のナイフのような気がしながらも、どうせ菱子さんの責任だからと思いっ切り兄さんを突いた。怪我した兄さんを見た大八さんが、この人死ぬかも、と想像できなかった筈はない。人がナイフで刺されてんのよ。だけど涌きあがってきた誘惑に、あなたは逆らえなかった。ひとりの役者が命を懸けた最後の舞台。話題になる。劇団も自分も有名になる」
しばしの沈黙のあと、三人は口々に反論を始めたが、いちばん大きかったのは大八の声だ。「兄さんの前でなんてことを云いだすんだ。第一、きみだって舞台の続行に賛同したじゃないか」
「寝てる人に聞えやしないわ。続行に賛成も反対もなかったけど、座長に出ろと云われたんだから出ていって当然でしょ。だってあたし、アルバイトだもん。でも途中で条件が違っちゃったことに気づいたから、職場を放棄したの。芝居しろとは云われたけれど、恥をかけとは云われてないもの。まあ最後までお聞きなさいよ、もし聞えてるんだとしたら兄さんもね。三人が三様に邪悪で浅はかだけど、あたしが思うに最も質【たち】が悪いのは、インフルエンザで寝込んでいる馬尾藻さんです。客演を頼まれたあと参考にと、このところの公演の記録を観てみたのだけど、毎度執拗に兄さんが刺されて、しかも刺すのは必ず五十鈴さん。その手に紛らわしいナイフを手渡してきたのは必ず――うっかり者だかそのふりをしてきたんだか知りませんが――菱子さんでしょう? そんな芝居を、視野が広いとは云えない大八さんが仕切るとなれば、いつかこんな事態が起きるっていうのは予測できそうなもの。いえいえ、こんな事態を起こすためにこそ、馬尾藻さんは念入りに小道具を用意し、それを利用した同工異曲の脚本を書き続けてきた。なんのため? 兄さんを殺すため」
「――あなた、云うに事欠いて、今度はホンダまで陥れようというの。大八、こんな女、誰が連れてきたの」
掴みかかろうとする五十鈴の手を、昴は身軽にかわしながら、
「その馬尾藻さんですよ。五十鈴さん、あなた性格は最悪だけど、馬尾藻さんにはとても愛されてる――役者としてね。あたしが推理するに馬尾藻さんは、想いを同じくしているあなたに、舞台の上で恨みを晴らして欲しかったんです。派手派手しく、兄さんを刺し殺してほしかった。あたしと馬尾藻さんが知り合ったのってね、ゲイ・バアなの。なに変な目で見てんの、純然たる女ですよ。菱子さんみたいに整形もしてません。女が入れるその手のバアはたくさんあるですって。独りで深刻そうに飲んでる人がいるなと思っていたら、そのうちナイフを取り出して、自分の胸を突きはじめた。初めはびっくりしたけど、仕掛に気づいて、思わず笑いながら話しかけて、馬尾藻さんとはそれ以来の仲。想像するに彼にも、五十鈴さんと同じような経験があったんじゃないかしら。兄さんと交際し、将来を夢みて、でもこっぴどいふられ方をした――」
五十鈴は自分の体温をたしかめるかのように、額に手をあてた。「まさか」
「どうまさかなの。男を愛する男なんて、猿から進化した人間同様に存在しえないとでも? フルスロットルの芝居をそういう目で観はじめるや、あたしの目に、今回でいえば珠子は、イコール馬尾藻さんとしか映らなくなってしまった。だからご安心なさい、邪悪で浅はかな皆さん、あなたがたが、さして罪の意識をおぼえる必要はありません。だって全員、馬尾藻さんの脚本に操られていたに過ぎないんだもの」
「逆だよ」
という兄さんの嗄れ声に、一同は凍りついた。恐る恐るベッドのほうを向くと、兄さんは目覚めたうえで、自力で人工呼吸機のマスクを外していた。
「珠子は、おれだ。おい昴ちゃん」
昴は悚然と、「――はい」
「きみが通ってたバアは、新宿の明日豚【あすとん】だろ」
「ええ」
「そもそもおれが、そこにホンダを連れてったんだ。べつに根拠はなかったが、本当の自分に目覚めてくれるという期待――いや願い――があった。おれにして、本当の自分に目覚めてから初めての、真剣な恋だったんだよ。ホンダは初め面白半分におれを受け容れてくれたが、そのうちこう云った、『兄さん、そろそろこんな遊びは已めよう。まともな世界に戻ろうよ』。おれの耳にその弁は、ふたり揃って堕落しようというふうにしか響かなかった。嫉妬でもさせれば再び目覚めてくれるかと、五十鈴と付き合ったりもしたが、ホンダは逆に喜んだ。落胆したおれは、『おまえの役目は終わった』と五十鈴を捨てた。『次の女は誰』と問われて、一言も答えられなかった。次でも女でもなかったからね。五十鈴、すまん。そういうことだったんだ」
五十鈴はあとずさり、壁にもたれた。呆然と宙を見て、やがて自嘲のつもりか、変なかたちに唇を歪めた。
「おれの左の手首を見ろ。傷痕がいっぱいあるだろ? ホンダに拒絶された絶望から、何度も死のうとした。でも――死ねなかった。どんなに深く自傷しても、ホンダは今生で楽しくやっていくんだと想像するや、奇妙な生命力が湧きあがってきて、朦朧としたまま救急車を呼んでしまうんだ。そこでホンダに頼んだ。真剣に。おれをこのまま捨てるなら殺してくれ。おまえの脚本の力で、巧みに舞台で死なせてくれ。大八、おい大八」
大八がベッドに近づく。
「ホンダは家か?」
「うん、まだ熱がひどいらしくて」
「おれがこうなっていること、連絡したか」
「したよ」
「じゃあ誰かを遣ったほうがいいぞ。たぶんもう死んでるか、死にかけてる」
「どうして」
「おれの提案に、ホンダの創作意欲は抗えない。でも筋書どおりに事が運んだと知ったホンダの心は、自責の念に耐えられない――それがおれの筋書だ。たぶん、当たる」
そこまで云っておいて、兄さんはふっとまた瞼を閉じた。菱子が看護師を呼びにいった。
馬尾藻は兄さんの言葉どおり、自室で絶命していた。腹には果物ナイフ。立ったまま、不意に他人から刺されたような調子でみずからに刃物をふるったと思しい痕跡、その後、窓際まで這っていってなにかを眺めているようであったことを、事情を知らぬ人々は不思議がったという。体温計がリセットされぬままに残されていた。四十一度。相当に意識朦朧としていたのは想像に難くない。
逢魔昴がおれだというのは、まあ云うまでもないだろう。おれがぺてん師を自称しはじめるまえの、ほんの思い出の記さ。
「きみは女優に向いてる」と馬尾藻に云われたのは、可笑しくも、嬉しかった。蓮っ葉を気取っている元演劇少女って設定で臨んだ次第だが、悪くなかっただろ?
今やフルスロットルの面々とはなんの縁もない。でも兄さんが全快して役者稼業に復帰したというのは、のちに風の噂で耳にした。そう聞いた瞬間、例の演目の最後の場が眼前にまざまざと再現され、変に呆然としたもんだ。
――銀造を刺した珠子は、そのあと自刃をはかるが、死ねない。ちょうど訪ねてきた弁護士の信楽が、血まみれの彼女を発見するからだ。病院で目覚めた珠子は、黙って信楽の弁に耳をかたむけ、やがて頷く。一切を過失の積み重ねとして処理する代わり、彼の囲われ者になるという提案に対してだった。
「きみは悪くない」信楽はそう、優しく繰り返す。「きみは悪くない。運命の歯車が、どこかで噛み違えた。それだけのことだ。きみは幸せになれる」
珠子はより深々と頷く。次第に罪を忘れていく。
「ミステリーズ!」で好評不定期連載中の、「也寸美くんと朧月」(vol.30掲載作)、「也寸美くんの祝辞」(vol.32掲載作)に続くシリーズ最新作が〈webミステリーズ!〉に登場。
「也寸美くんって誰?」というシリーズ未読の方も、ぜひ「インタビュウ」から「也寸美くん名演技」へとお進み下さい。勿論既読の方も。
■ 津原泰水(つはら・やすみ)
作家。1964年広島県生まれ。青山学院大学卒。89年より津原やすみ名義で少女小説を多数執筆。97年、現名義で『妖都』を発表、注目を集める。主な著作は『蘆屋家の崩壊』『ルピナス探偵団の困惑』『綺譚集』『赤い竪琴』『ブラバン』『ルピナス探偵団の憂愁』などがある。最新刊は『たまさか人形堂物語』。
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