●「エクソダス症候群」と精神医学の問題

 ぼくはSF読みなんで、最初にこの作品を読んだ時に、「ディックの『火星のタイム・スリップ』の21世紀版だな」と思ったんです。『火星のタイム・スリップ』は、火星という過酷な環境のなかに、ひとりの自閉症の少年がいる。みんな彼を病気だと思っているんだけど、実は彼は普通の人間と違った時空認識を持っているという話です。つまり病の意味が、火星という環境の中で、別の意味を持ち得るんです。
 エクソダス症候群というのも、薬で抑えられる病気なんだけれど、これも違う意味でとらえられるんじゃないかと思います。治ればいいかっていうと、そう簡単な問題でもない。地球のほうでも、精神病だかどうだかわからない「正気の暗闇」というものが蔓延しています。本作では、地球上の精神疾患は完全にコントロール下におかれているという設定です。そんななか、なぜか人々の満足度は低く、自殺が大量発生してしまっている。それを、いつからか誰かが「正気の暗闇」と呼び表すようになった、と。この辺りは現代の精神医療にもつながっているんですよね、多剤大量処方という。

宮内 多剤大量処方は、ここ数年くらいでようやく問題が顕在化し始めた印象です。なかには科学的におかしいというレベルの大量処方もありますが、ただ単に精神科医が悪い、と簡単に言える問題でもないと思うのです。精神疾患は、本人だけの問題ではなく、それを看る家族の問題や、もっと言えば共同体全部が関わってきて……。とても微妙な問題なのですが、多剤大量処方によって患者のQOL(満足度)は減じつつも、周囲からすればケアしやすくなり、結果として、多剤大量処方によって救われているという患者もいるのではないか。あるいは、それによって自死を免れているひとも存在するのではないか、というのがわたしの考えなのです。いずれにせよ、未知の領域が大きい医療分野であることは間違いないです。

 イエスかノーかではない、ということですね。疾患にも色々な原因があって、症状が一緒でも原因が違えば対処も違う。本作も、デリケートな問題を扱っているが故に、非常に丁寧に書かれているのが分かります。

宮内 この点ばかりは、おかしなことを書くわけにいかないので。読者の方も、もし気がついたことがありましたら、どんどん指摘していただきたいのです。無責任なようでもあるのですが、本当に、ひとりの仕事だと限界がありまして。

 精神医学は、全体としては進歩していても、必ずしも昔の医療が間違っているとは言えない部分がありますよね。作中ではその辺りのことも触れられています。実は、火星の精神病棟の奥にいる、ハンニバル・レクター的な謎の男が、主人公に向かって持論を展開する場面があるんです。大まかに言ってしまえばいまの新しい精神治療に対するアンチテーゼなんだけど、それがある意味、正鵠を射ている。
 主人公のカズキにとって、その男――チャーリーというんですが――は自分を惑わすデーモンでもあるし、一方で導いてくれるメンター(指導者)でもある。この人物の造形に成功したことが、作品自体のグレードを上げていると思います。火星という、地球から隔離された世界があり、そのなかに泡の天幕で覆われた開拓地があり、さらにそのなかに例の“生命の樹”の形をした配置の精神病院があり、その一番奥にチャーリーがいる。そういった重層構造になっているんですね。ひとつひとつが宇宙そのものに当たる。そして、チャーリーの頭の中が一番パーソナルなエリアで、いわゆる内宇宙なんですが、チャーリーの言葉は、宇宙全体の最高点のような強度を持っていることに気づかされる。一番奥にある内宇宙が一番外側の宇宙につながっている。そこがすごい。
 この本の最初に精神病院の配置図が載っています。最初にこの図を見たときは、「おっ、また新しいゲーム小説か」と思ってしまいましたが(笑)。どんな風に物資が入ってきて、どんなふうに動くかは、作品の中にも出てきますよね。そこはちょっとゲーム的でもある。

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宮内 病棟の配置が病院内の力関係に関わってきます。でも、いま新たに一からこの長編を構想したとすると、病院がセフィロトの樹の形をしているなんてとても恥ずかしくて書けないかもしれません(笑)。
 この話を最初に考えたのは23歳の頃で、とにかく時間と無根拠な自信だけは有り余っていた時期です。わたしの尊敬している竹本健治さんというミステリ作家が、デビュー作の『匣の中の失楽』を書いたのが23歳。であれば、自分もその歳になった以上、同じかそれ以上のものを書かなければならない、と……。

 言われてみると、竹本さんと宮内さんて、結構共通点がありますよね。

宮内 わたしが竹本さんから影響を受けているので、それは当然そうなのです。興味の対象も近しいものがあります。そういえば、竹本さんが〈ジャーロ〉で連載されている「闇に用いる力学 青嵐編」がそろそろまとまりそうなんです。個人の狂気というものを追いかけていた竹本さんが、集団の狂気というものにテーマを移して、ものすごく長い年月をかけて築いてきたものなので、本になるのを楽しみにしています。

●今後について

 最初にお伺いした中央アジアの国々へは、つぎの連載の取材もかねて行かれた、ということでしたが。次回作はSFなんですか?

宮内 SF要素もある長編小説になる予定です。舞台は中央アジアの干上がったアラル海。そこに、それぞれの共同体に居られなくなった周辺国のマイノリティたちが勝手に国を築いてしまい、アラルスタンと呼ばれるようになります。ところが内戦が起きて、男どもがみんな逃げてしまい、後宮の女性たちが仕方なく、「バンドやろうぜ」的なノリで国家をやる、というお話を計画しています。

 面白そう! 構想は固まって、あとは書くだけという感じですか?

宮内 プロットはできていますが、引き続き中央アジアの資料を調べているところです。というのも先日、池内恵さんの『イスラーム国の衝撃』を読みまして、この本が、とても説得力があるのです。一国を作るとなると、これだけの説得力が必要になるのかと。逆に、それだけの説得力さえ持たせられれば、これはもうハードSFと呼べるものになるのでは、と、それが一つの目標です。

 SFファンとしては、河出文庫の《NOVA》シリーズに発表していた「スペース金融道」がまとまるのも楽しみです。さまざまな媒体でお書きになっているから、これから先は本にまとめる作業だけでも大変ですね。

宮内 順番に本にさせていただければと思っています。「スペース金融道」はわたし自身とても気に入っているシリーズですので、大事にしたいところです。

 あのシリーズはSF好きの人々の間でとくに評判が高いので、期待している読者も多いと思います。つぎの単行本のご予定は?

宮内 新潮社の〈yomyom〉で連載していた「アメリカ最後の実験」がまとまる予定です。これは音楽版『グラップラー刃牙』のような話で、ある意味では今回の長編とも対をなします。よろしくお願いします。

 精神医学やテラフォーミングのディープなお話ができて楽しかったです。ありがとうございました。

宮内 話が拙く、申し訳ありません。今日はこんなにお集まりくださって、本当にありがとうございました。

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■ 宮内悠介(みやうち・ゆうすけ)
1979年東京生まれ。早稲田大学卒。2010年「盤上の夜」で第1回創元SF短編賞山田正紀賞を受賞してデビュー。12年に同作を表題とした短編集で第147回直木賞候補となり、第33回日本SF大賞を受賞。13年『ヨハネスブルグの天使たち』が第149回直木賞候補となり、第34回日本SF大賞特別賞を受賞した。同年、第6回(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞を受賞。15年、初の長編『エクソダス症候群』を刊行。

■牧眞司(まき・しんじ)
1959年東京都生まれ。東京理科大学工学部工業化学科卒。SF研究家・文芸評論家。書評や文庫解説を多数手がける。著書に『世界文学ワンダーランド』ほか、訳書にマイク・アシュリー『SF雑誌の歴史 パルプマガジンの饗宴』『SF雑誌の歴史 黄金期そして革命』、編著に『ルーティーン 篠田節子SF短篇ベスト』『柴野拓美SF評論集』、また大森望との共編で『サンリオSF文庫総解説』がある。



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