第1話「不機嫌なスペース」(承前)


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 試合の翌々日。
 朝から曇り空の一日だった。
 練習中はなんとかもったものの、午後かいっそう厚みをまし、午後も三時をすぎるころにはぽつりぽつりと雨粒が落ちはじめた。
「なんで雨なんか降るのさ。せっかく洗濯したのに。あんたが悪いんだからね」
 光恵さんが走りながら僕に叫んだ。
「僕のせいですか?」やはり走りながら僕も叫び返した。ふたりとも両手で洗濯かごを抱えている。雨粒があたって頬がひんやりとしてちょっと気持ちいい。
「そうに決まってるじゃないか」
「だから理由を教えてください」
「ああ、やだやだ。あんたは男のくせにうだうだ言い訳して」
 なんでそういうことになるのかわからないが、せっかく洗濯したのに雨が降ってきたので、光恵さんの機嫌が悪いことはわかった。
 グランド横にある物干し場へ行くと、先客がいる。
 奈々子ちゃんと元気くんが、洗濯したユニフォームをとりこんでいてくれた。
「坂上さん、早く早く」
 奈々子ちゃんが物干しからはずしたユニフォームを振りながら、僕を呼んだ。その姿がやけに可愛い。
「ありがとう奈々子ちゃんに元気くん」
「で、どうしますか、これ」
 元気くんが光恵さんの持ってきた洗濯かごに、ユニフォームをいれながら訊ねた。
「会議室しかないよ」光恵さんが言った。
「あれ、でもあそこ使ってますよ」
 外にでるとき会議室の脇を通ったのだが、ドアにつけられた表示がたしか『使用中』だったはずだ。
「誰がさ? 今日、会議なんてあったかい?」
「ええと、午前中にスタッフミーティングがあっただけです」奈々子ちゃんが答えた。
「お客さんがきたとか、ないのかな?」僕が訊ねた。
「いいえ」
「変だよね」と僕が言った。「誰が使っているんだろう?」
「どうせホペイロの見間違いさ」
「たしかに『使用中』になっていたんですけどね」
 雨脚が強くなってきて、あたりはレースのカーテンを引いたように雨でぼんやりとしていた。僕たちはクラブハウスへと急いだ。だけど洗濯かごを持っていると、どうもバランスが悪くて速く走れない。僕の横を光恵さんが、スカートの裾を両手で持ちあげて走っていく。光恵さんは洗濯かごを持っていなかった。
「光恵さん、洗濯かごは?」
「ふたりに任せた」
 うしろをふり向くと少し遅れて、元気くんと奈々子ちゃんがふたりで一個の洗濯かごを持って走ってくる。
 ようやくクラブハウスにはいり、会議室へ向かった。
 やはりドアの札は『使用中』となっている。
「ほら、誰か使ってますよ」僕が言うと、光恵さんは「かまやしないよ。会議と洗濯ものとどちらが大切だと思っているんだい」と大きな声で言った。
「それはまずいんじゃないですか?」
「いいんだよ」と光恵さんはドアに向かって「はいるからね。これは一大事なんだから」と大声をだす。まるで世界で一番大切なのは、洗濯ものを干すことだ、と言わんばかりの勢いだ。
「駄目ですよ」と止めたものの、光恵さんは僕の制止をふり切って、会議室のドアを乱暴に開けた。
 うわ、怒られると思ったものの、なかからは誰の声もしない。会議室をのぞくと、そこには人っ子ひとりおらず、会議用の机に木製の大きめのロッカー、ホワイトボード。それに壁には写真が掛けられているだけだった。会議室の机のうえには、誰かが忘れていったらしいマジックインキが転がっている。蓋がないので、探してみると床に転がっていた。僕はそれを拾ってマジックインキを蓋にさしこんだ。
「なんだ、誰もいないじゃないか。使い終わったら、ちゃんとドアの札は元にもどしておいてほしいもんだよ。いらぬ気をつかってしまったじゃないか」
 まったく他人に配慮しないくせにと思いながら、僕は洗濯かごを会議室の机に置いた。光恵さんは洗濯室からロープやらハンガーやら洗濯ばさみやらを持ってきて、ロープを壁に打ちこんだ釘にかけると、洗ったユニフォームを干していく。雨が降ったときは、よくこの会議室を光恵さんは使った。あとで会議があったときもあるが、光恵さんが怖いので誰も文句を言わず、ユニフォームが干されている下で会議をしたこともある。そんなこともあって、このクラブで一番えらいのは、社長ではなくて光恵さんだと僕は確信していた。
 奈々子ちゃんと元気くんも手伝ってくれたので、あっというまに洗濯ものはめでたく片付いた。
「終わった」と光恵さんがどたっと、椅子に腰をおろす。僕たちも一休みすることにした。
「あれ?」元気くんが壁を見つめて、首をひねっている。
「どうしたの?」
「写真がなくなってます」
「そんなわけないよ、ほらちゃんと壁にかかって……」壁を見て僕も首をひねった。
 たしかに写真は壁にかけられている。
 だが、右のほうにぽかりと大きなすきまが空いていた。
 つまり写真が一枚、消えていたのだ。
「午前中のスタッフミーティングでは、ちゃんとありましたよね」と奈々子ちゃんが僕を見た。
 僕の記憶でも写真はきちんと掛けられていた。もし、空白がそこにあれば、絶対に気がつくはずだ。
「ということはなにかい?」光恵さんが胸のまえで腕を組んだ。「昼から午後三時過ぎのあいだに、誰かが写真を盗んだってことだね?」
「そうなりますね。でも……」
「なんだい?」
「写真なんて盗んでどうするんですか?」
「そこが謎だよ。これは事件だよ、ホペイロ」
「そうですか? 写真が消えただけですよ」
「いや、事件だ。久々の事件だよ」
 光恵さんはうれしそうに言うと、組んでいた腕をといて両手で僕の肩をつかんだ。
「ホペイロ、出番だね」
「え?」
「写真を盗んだ犯人を捕まえるんだ」
「僕がですか?」
「あたりまえじゃないか。あんた以外に誰がいるんだい」
「いや、その僕は忙しいので、そうだ、元気くんに頼みましょう」
「それはまずいです」元気くんが胸のまえで腕を組んで、首をよこにふった。「そういうことは坂上さんのジャンルですから」
「ジャンルってなによ、ジャンルって」
「そうですよ、坂上さんのジャンルですよ」奈々子ちゃんまでが僕に押しつけようとする。「坂上さん、がんばってくださいね」
 そのときドアが乱暴に開けられた。
「あなたたち、社長、見かけなかった?」撫子さんが言った。
「いないっすよ。どうかしたんですか?」
「午後になって社長に本社から呼びだしがあったんだけど、それっきり行方がわからないのよ」
 相模ベアリングの本社は、クラブハウスと同じ敷地内にあった。
「まだ本社じゃないんですか?」
「念のために電話したけど、もうとっくに帰ったって。困るのよね、広報のイベント予算も社長決裁だから、今日中にはんこをもらわないとイベントができなくなっちゃう」
 うちは小さなクラブだ。社員だって二十人ほどで、それも僕たちのような契約社員を含めての数だった。だから細かい予算の決済も、社長がはんこをつくことになっている。
「で、なに。どうして集まっているの?」
 光恵さんが黙って壁を指した。
「撫子さんからもなんとか言ってくださいよ。光恵さんは僕に写真を捜させるつもりなんです」
 僕は祈るような気持ちで撫子さんに頼んだ。
 昔なら、撫子さんは僕に解決させようとしたが、いまは、そこはそれ、秘密とはいえ一緒に暮らしていることもあるし、僕に余計な仕事をさせないはずだ。
「ホペイロ坂上も忙しいのよね」
「そのとおりです」僕はうなずいた。
 あれ? と元気くんが目をぱちくりとさせた。きっと撫子さんは僕に事件の捜査を命じるはずだと思っていたに違いない。しかしね、元気くん、昔といまとでは状況が違うのだよ。だてに毎日、洗濯しているわけではないのだ。パンツの洗濯の義理は撫子さんだって忘れるわけがない。僕はにんまりと笑った。
 だけど……。
「わかったわ。ホペイロ坂上、事件を解決しなさい」
「え?」
「こういうことは坂上のジャンルだから」撫子さんが言った。
「そんな……」
 結局、写真がなくなった謎は僕が解決することになった。
 ホペイロはサッカークラブの用具係だ。だけど人手不足、予算不足のうちのクラブでは、雑用はみんな僕のところへとまわってくる。そしてときには、こんな雑用まで僕は押しつけられる。
 それにしても、僕は首をひねった。
 どんな写真がここに掛けられていたんだろう? 記憶の倉庫を探しても、そこに掛けられていた写真がどんなものだったか、わからない。
 僕はじっと壁の空白を見つめて、そのことを考えていた。


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「ここにあったのって、どんな写真だったの?」
 撫子さんが訊ねた。
「わかりません」僕はぶすっとして答えた。
「なに不機嫌になってるの?」
「べつに」
「べつになによ、べつにって」
「べつにだからべつになんです」
「なによ、感じ悪い」
 ちょっと雰囲気は険悪だった。だって、撫子さんは僕が忙しいのを知っているくせに、こうして余計な仕事を押しつけたのだから、機嫌が悪くなっても当然というものだ。撫子さんは撫子さんでこちらも機嫌が悪い。僕が逆らっているのが気にくわない様子だ。
「あの、あの、あの……」
 奈々子ちゃんがこの空気をどうにかしようと、焦って話しはじめた。奈々子ちゃんは本当に、優しい子だった。
「写真を盗んでどうしようというんでしょうね?」
「なにかに使うとか」元気くんが言った。
「なににだい?」光恵さんがつかつかと壁の空白のところまで歩いていった。
「じゃあ、こういうのはどうですか? 選手の写真がここにあったとしますよね。で、ファンの子がそれを盗んだとか」
「本社と同じ敷地だよ。ファンははいってこないさ」
「本社とか工場で働いているひとが、こっそりとクラブハウスにはいってきて……」
「でもさ、写真だよ。そんなのいくらでも手にはいるよ」
「特別な写真とか」
「だからどんな特別?」
 うーんと元気くんは頭をかいた。
 結局、そこに話はもどるのだ。
 そこにどんな写真があったのか誰も記憶になかった。
 だいたい会議室に飾られている写真なんて、あまり面白みのないものばかりで、集合写真とか市長と握手している写真とか、そんなのばかりだ。誰がそんなものを盗むというのだろう?
「とにかく、ここにあった写真が問題なんだよ、写真が」光恵さんがげんこつでどんどんと、写真のなくなった空白の壁を叩きはじえた。
「ちぃーす」
 やけに陽気な声がして会議室のドアが開いた。
 髪を金色に染めた森陽介くんだった。両手に缶コーヒーを六本も抱えている。
「どうしたの、森?」撫子さんが冷ややかな声で言った。
「いやあ、なんだか楽しそうな声がしたんで、俺もまぜてもらおうと思って。これ買ってきました。間に合ってよかった。急いで買ってきたんすよ」
「森、楽しそうじゃないか」光恵さんがにらんだ。
「ほら、最近、クラブの雰囲気が悪いじゃないですか。負けがこんでるし、本社の経営は外資になっちゃうし。監督の森さんなんか、もうノイローゼ状態で。樫井さんは『負けたパンツははくな』って命じるし。それに樫井さん、ひそかに監督の後釜は自分だと決めているふしもあるんですよね。森さんは解任されちゃうんだろうな。悪いひとじゃないんだけどな。ああ、なんかやだな、と思っていたら、みんなが楽しそうに話してるのが聞こえて、これは混ぜてもらおうと思って」
 森くんはニコニコと缶コーヒーを会議室の机に置いた。
「あなた、これが楽しそうに見える?」
「だって事件でしょ。なにかがなくなったとかなんとか、聞こえましたもん。坂上さんの出番でしょ。楽しいに決まっているじゃないですか」
 僕と撫子は顔を見合わせた。森くんは空気が読めない奴だった。
「で、なにが起きたんですか?」
「撫子さんと坂上さんが喧嘩してるんです」奈々子ちゃんが言った。
「してないわよ」
「いや、してるよ」光恵さんが僕たちを見つめた。「なんだかふたりが険悪なんだよ。せっかくの事件なのに、これじゃ台無しさ」
 あきらかに光恵さんは事件を楽しみにしていた。まったく、もう……。
「わたしは仕事あるから。社長を捜さないといけないし」
 撫子さんは肩をいからせながら、会議室からでていった。
「あれは相当、怒ってますね。坂上さん、あとで大変だ」
 そうだった。今夜、マンションにもどったとき、きっと撫子さんは鬼アザミに変身して、僕を怒りまくるに違いない。だけど、どきりとした。森くんは僕と撫子さんが一緒に暮らしていることを知っているのだろうか?
「あとでって、その、別に僕と撫子さんは……」
「いつものことじゃないですか。仕事が終わったあと呼びだされて説教されるの。俺も何回かありましたから」
 ああ、そういう意味か。ちょっとほっとした。
 元気くんが事件の経緯を説明すると、森くんは「それは大事件っすよ。坂上さん、ちゃっちゃっと犯人見つけちゃってください」とお気楽な口調で言う。
「誰かの写真があったんですよ。そいつのことが気にいらない奴がいて、写真を盗んで燃やしちゃったんですよ」森くんが缶コーヒーのふたを開けた。ごくりと一口、飲んで話をつづけた。「だから、誰と誰が仲が悪いかを調べれば、一発で犯人はわかりますよ」
 それも一理ありそうだ。
 仲が悪いといえば……。
「森くんは平【たいら】くんと仲が悪いよね」僕が訊ねた。
 平くんは今年、J1のクラブからうちへ移籍した選手で、森くんと同じポジションのボランチだった。森くんは別名チャラ男と言われるほど、光り物のアクセサリーが好きだが、平くんはそれに輪をかけたスーパーチャラ男で、森くんよりたくさんの光り物を身につけている。
 ふたりはポジション争いでも、光り物争いでもライバル同士だった。
「仲悪くないっすよ。そりゃ、いいとは言えないけど」
「そういえば、今年移籍してきた選手の集合写真も、飾ってありましたよね。平さんもそこに映ってました」元気くんが言った。
「あ、元気。おまえそういう奴か。俺を売るのか」
「いや、そういうつもりじゃ」
「その写真なら、ほら、左端にあるじゃないか」
 壁の写真を見て森くんがつづけた。たしか銀髪の平くんも集合写真のなかにいる。
「俺を疑いやがって。ったくな。おまえは平派か。だからこの前の試合で、俺がだしたパスをおまえは無視したわけだな」
「それとこれとは話が別です」
「いや、あれは絶妙のパスだった。ぽっかりとあいたスペースがあっただろ。あそこにおまえが駆けこんでいれば、得点のチャンスだったのに、感じてないんだもんな。あれが平のパスならおまえはきっと走りこんでいたはずだ」
「そんなわけないじゃないですか」
 ふだんは温厚な元気くんが顔を真っ赤にして反論した。
「僕は中央に流れかけていたんだから、そっちにパスしてくれればいいのに」
「相手のディフェンダーがあっちにはうじゃうじゃいただろ。あそこはおまえがステップをふんで、走る方向を変えるところだ」
「無茶苦茶ですよ、それ」
「なんだ、おまえ。先輩に逆らうのか。ああ、気分悪い。俺、帰るわ」
 森くんも怒りながら部屋をでていった。
 会議室の空気はさらに悪くなった。
「僕も帰ります」元気くんがとがった声でいった。
「じゃあ、わたしも」奈々子ちゃんが元気くんのあとを追った。
 ドアを開けて奈々子ちゃんが僕に微笑んだ。
「坂上さん、がんばって事件を解決してくださいね」
 部屋には僕と光恵さんだけが残った。
「あたしも帰る」
「洗濯ものはどうするんです?」
「明日、とりこむよ。ねえ、ホペイロ。なんだかクラブの雰囲気が悪いね」
「負けがこんでますから」
「元気があんなに怒ったのをはじめて見たよ。とりあえず一勝だよね。ひとつ勝てば、雰囲気もよくなるんだろうけど」
 光恵さんも会議室からでていった。
 元気くんが怒ったことに心当たりがあった。
 今シーズンにはいって元気くんには、まだ得点がない。フォワードは点をとるのが商売だから、元気くんはクラブが勝てないことに責任を感じているはずだ。それに、元気くんだって森くんの言っていることが正しいって、わかっているはずなのだ。ホペイロは試合中は忙しい。前半はハーフタイムに選手が着替えるユニフォームの準備に、ドリンクの準備。後半は撤収するためにどんどん片付ける。だから試合を見ることはあまりない。なので僕はスカパー!で中継された試合を録画していた。日曜日の試合は、昨日の夜に見たのだが、あの場面では森くんの判断は正解だ。でも中央に流れかけていた元気くんには、サイドにあいていたスペースが見えなかった。
 元気くんの身体は大きくないが、フォワードとしての能力は本物だ。元気くんの武器は足の速さと、スペースを見つける嗅覚だった。去年の元気くんなら、森くんがパスをだすまえから、ディフェンスのすきをついてスペースにかけこんでいたはずなのだが。
 それは元気くんにもわかっていて、だから痛いところをつかれて怒ったのだろう。
 光恵さんの言うように、クラブに必要なのは勝つことだった。
 元気くんに必要なのは得点だった。
 だから写真がなくなろうが、そんなことはどうでもいいことなのだ。
 よし、犯人なんか捜すものか、と僕は壁のまえまで歩き、写真が消えた空白をとんと手で叩いた。写真が消えてできたスペースよりも、試合で元気くんがスペースを見つけることのほうが大切なのだ。
 そのとき、僕は妙なことに気がついた。
 写真は壁に刺さったピンにかけられている。
 空白場所にはピンもなかった。
 写真を盗むなら額縁ごと持っていくのは当然として、ピンまで抜いて持っていく必要はない。なのにピンもなくなっている。これは変だ。床に落ちているのだろうか、と捜したがなにもない。
 また壁を見る。
 僕はあることに気がついて壁から離れ、反対側の壁まで歩いていき写真の列を眺めた。バランスがおかしかった。
 だいたい絵とか写真とかを壁にずらりと掛けるとしたら、左右均等になるように壁に掛けるはずだ。なのにいまは、向かって左側に寄っている。それも空白よりも向かって左側がなんとなく、はじに寄ってる感じなのだ。頭のなかで空白の左側の写真たちを、ぐいっと空白を埋めるように右側に寄せてみた。
 うん、こっちのほうがバランスがいい。
 左右均等に端にスペースがあいている。
 これが正解だ。
 いまだと写真一枚分、左側にずれている感じだ。
 となると……。
 もしかしたら写真は一枚も消えてないのかもしれない。
 ただ、ずらされているだけなのだ。
 誰かが写真をずらしたのだ。
 でも、なんのために?
 いたずらとしても理由がわからない。
 あることに思いあたった。
 写真をずらすとどうなるか?
 壁になにかがあって、それを隠すために写真をずらす。
 一枚だけだと変なので、全体をずらす。
 僕は向かって左側の写真のまえに向かった。
 平くんたちの写真だった。それをはずすと……。
 僕は息を呑んだ。
 これを隠すために写真をずらしたのか……。それで順番に写真を掛けかえていき、途中でやめてしまった。だから空白ができた。
 でも、なんでやめたのだろう? それは僕たちがこの部屋にはいってきたからだ。『使用中』になっているのに、僕たちは会議室へはいろうとした。光恵さんが大声をだしていたので、やめて逃げた。
 逃げた? 窓から?
 いや、窓の鍵はかかっている……。ということは……。まだ室内に……。
 そのときドアが開いた。
 僕はあわてて、壁に背中を押しつけてそれを隠した。
 はいってきたのは撫子さんだった。
「あら、みんなは?」
「あきて帰りました」
「そうなんだ。あのさ、さっきはごめん」
「え?」
「あなたが忙しいのはわかっているけど、あの場合はああ言うしかないじゃない」
「……」
「まえのわたしなら、あなたに犯人を捜せって命じたはずよね。それが突然、『ホペイロ坂上は忙しいから、だめよ』なんて言えないわよ。みんなにばれちゃう。あっという間に森の耳にもはいるわ。わたしね、森にからかわれるのは嫌なのよ。もう頭にきちゃう。森にからかわれるくらいなら、裸でこのあたりを一周したほうがましよ」
「それはちょっと、僕が困ります」
「あら、焼いているんだ」
「いや、その……。それを言うためにきたんですか?」
「ああ、そうそう。大変なことが起きちゃったのよ。あれから社長を捜しに、念のために本社に行ったんだけどね。そこでとんでもないことを聞いちゃったのよ」
「なんですか?」
「社長、更迭【こうてつ】されるって」
「ええええ!」
「べつのひとが来週から社長になるって。社長が本社へ呼びだされたのは、そのためだったのよ。神田専務が社長に言いわたしたそうよ。そりゃあ、ショックで社長も行方不明になるわ」
 なるほどそういうわけか……。僕はさらに背中を壁に押しつけた。
「ねえ、あなた変じゃない」撫子さんが言った。「なんで壁にへばりついているの?」
「いや、そんなことないですよ」
「絶対、変よ。なにか隠しているわね。ちょっと、どきなさいよ」
「いまはどきたくない気分なんです」
「いいから、どきなさい」
「だめです」
 撫子さんが僕の腕をつかんで引っ張るが、ここは負けてはならじと踏ん張る。
「あなたねえ、わたしに逆らうつもり」
「そういうことではなくて、これには事情があるわけで」
「どんな事情よ」
 そのとき「坂上くん、もういいよ」とくぐもった声がした。
 僕たちは声のしたほうに目をやった。
 木製のロッカーの扉が開き、なかから男がでてくる。
 頭が薄く、精彩のない中年男だった。
「社長、なにをしているんですか!」言ってから、撫子さんは口に手をあてた。そして「あのう、このたびは……、なんと言っていいかわからないんですけど……。これまでいろいろありがとうございました」
「いいよ、僕なんかなにもできなかったんだし、だから社長をクビになっちゃったんだし」
「いえ、そんなことは……」
「いいんだよ。もう決まっちゃったことだしさ」
「本社にもどられるんですか?」
 正岡社長はにこりと笑った。力のない笑いだった。
「どこかの子会社へ行かされるみたい。本社にはもうもどれないんだろうな。あ、坂上くん、もう隠さなくていいから。どいていいよ」
「いいんですか?」
「うん、ロッカーのなかにいたら、なんだからすっきりした。もう、べつになんと思われてもいいや、って気になった」
「そうですか……」
 僕はゆっくりと壁から離れた。
 壁には黒いマジックで『神田丈太郎のバカヤロー』と書かれていた。


     6

「本社でさ、神田専務に社長交代を言いわたされてさ。すっごいショックでさ。きみたちは感じてなかったかもしれないけど、僕は僕なりにビッグカイトが好きだったんだよな。サッカークラブの経営なんて、素人の僕には無理だったんだろうけど、でもなんとかクラブを強くしたい、もっとお客さんにきてもらいたい、ってがんばってた。
 でも結果がともなわないとね。
 で、クビ。はい、終わりです。
 クラブへもどったけど、なんかむしゃくしゃしてさ、こんな気分のまま二階へもどれないじゃない。だからさ、会議室に閉じこもちゃった。ときどきさ、ひとりになりたいときは会議室にくるんだよ。うちの社長室は名ばかりで、狭くて外の雑音もはいり放題じゃない。だから、会議室にね、ずっといたの。
 そうしたらだんだん腹が立ってきてさ。
 あの神田って野郎はさ、うちの会社を買収した外資からやってきてさ、会社をいいように変えようとしてさ。こっちにはこっちのやり方ってのもあってさ、取引相手とかさ、仕入れ先との付き合いもあるのに、儲からないから取引やめろとかさ、土地が無駄だから売れとかさ。土地は将来、工場を建てる予定で買ったのに、工場建設は中止とか。もうむちゃくちゃなわけよ。
 で、頭に血がのぼってさ、書いちゃったんだよ、壁に。
 運悪く、誰かがマジックを忘れていったんだよね。
 書いた瞬間はすっとしたな。
 もっと書いてやれ、とか思ったんだけど、すぐに我に返ってさ。焦ったな。本当に焦った。これはまずいよね。いい大人が腹が立ったから、壁に上司の悪口を書くなんてさ。恥ずかしいしさ。これが神田専務の耳にはいったら、子会社じゃなくて子会社の子会社に飛ばされちゃいそうでさ。
 消そうと思ったけど、駄目ね。
 どうしようかと焦っていたら、壁には写真がかけてあるじゃない。とりあえず写真を落書きの上に掛けて、ごまかそうと思いついたんだよね。で、隣のをはずして落書きを隠して。そうしたらこんどは、そこに空白ができて不自然だったもんで、その隣の写真をはずして……。ピンもさ、隣の写真に使っちゃったから、はずしてさして写真掛けて……。でも、こんどはそこが空白になって……。
 で、どんどんずらしていったんだよね。でも、途中できみたちがきたからさ。光恵さんの声が聞こえたから、ロッカーに隠れちゃった」
「あのう、社長。質問してもいいですか?」
「いいよ、坂上くん。なに?」
「だったら、向かっていちばん右端の写真をはずして、左側の落書きの上に掛ければよかったんじゃないですか?」
「そうなんだよ……。ロッカーのなかで、そのことに思いあたってね。ああ、僕はなんて馬鹿なんだろうって、後悔したよ。気が動転してて、そのときは気づかなかったんだ。もう隠すことばかり考えていてさ。どじだよな。われながらあきれちゃった。で、どうしようかね、その落書き……」
「僕があとで消しておきますから、お気になさらずに」
「そう、すまないね。あと、このことは……」
「誰にも言いません」撫子さんが言った。僕もうなずいた。
「ありがとう」
 正岡社長は僕たちに頭をさげて、部屋からでていったが、すぐにもどってきて僕を呼んだ。
 なにごとかと思って急いで行くと、「三島くんは性格がきついから、きみも苦労するよ。ま、がんばりなさい」と耳元でささやいた。そうか。社長はロッカーのなかで僕と撫子さんの会話を聞いていたんだ……。
「誰にも言わないから。あと秘密にしておかなくても、僕はいいと思うんだけどね、ま、三島くんは怖いから、僕はなにも言わないけど」
 社長は僕にウインクをすると、会議室からでていった。


     7

 雨の日の日の入りは、さみしい。
 一日の終わりには太陽が西の地平へ姿を消すのがふさわしい。それがめりはりというものだ。だけど、雨の日はただ暗さがましていくだけで、いつ夕方になったのか判断ができない。
 落書きを消した僕は、一日の仕事を終えて外へでた。ネットで調べると油性のマジックインキは石油で落ちることがわかった。さっそく試してみると、すぐにきれいになった。
 傘をさして歩きはじめた。
 クラブハウスや本社や工場の灯りが雨にぼやけながら、光っている。
 なにげなく練習グランドのほうを見ると、誰かが傘をさして立っている。
 三十代前半ぐらいの女性だった。撫子さんかな、と思って近寄ると背恰好は似ているが、別人だった。髪の長い、鼻筋の通った美人で切れ長の目が色っぽかった。
 美人には甘い僕であるが、関係者以外が敷地内へはいっているのはまずいわけで、注意しようと彼女に声をかける。
「あのう関係者の方ですか?」
 すると彼女は僕を頭のてっぺんからつま先までじっくりと眺め、「クラブの方かしら?」と訊ねた。 「そうですけど。あのうここは部外者がはいってはまずいんですよ」
「あら、ごめんなさい。そうね、まだ部外者なのよね、わたし」と、気になることを言って、彼女は僕に会釈をし、門に向かって歩きはじめた。

 彼女が何者であるか、わかったのはそれから一週間後のことだった。





■ 井上尚登(いのうえ・なおと)
1959年神奈川県生まれ。東海大学卒業。99年『T.R.Y.』で第19回横溝正史賞を受賞しデビュー。同作は織田裕二主演で映画化し話題となる。著作は他に『C.H.E』『キャピタルダンス』『リスク』『T.R.Y.北京詐劇』『クロスカウンター』『厨房ガール』がある。サッカーをはじめとしたスポーツ通としても知られ、夕刊紙にコラムを連載中。


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