プロサッカーチームのホペイロ(用具係)の奮闘をユーモラスに描いた連作ミステリ『ホペイロの憂鬱』。その続編『ホペイロの憂鬱2』が〈Webミステリーズ!〉で連載開始!
ホペイロの憂鬱2





第1話「不機嫌なスペース」


        1

 ベランダに春の朝の光がやわらかく降りそそぐ。
 ラジオから知らない曲が流れてくる。エレキギターが春の訪れを祝福するかのように、こちらもやわらかな旋律を奏でている。ラジオは地元のコミュニティFMで、曲の合間に相模原【さがみはら】の話題をDJがしゃべっていた。
 朝の陽射しをいっぱいとりこもうと、僕は洗濯ものをステンレスのハンガーにかけていく。
 南をほうを見ると、大山【おおやま】が今日もくっきりと雄大な姿を見せている。
 三月も終わりかけた日曜日。
 かつて僕は洗濯が得意だった。いや得意だったわけではない。それが僕の重要な仕事のひとつだったから、仕方なく洗濯をしていた。
 毎日毎日、何十枚もユニフォームを洗って干し、乾いたらとりこんでたたむ。ときにはすべての仕事が終わってから、洗濯をすることもあったので、帰宅は深夜を越えることもしばしばだった。
 でも、洗濯専門の光恵【みつえ】さんがきてくれて、僕はユニフォームの洗濯から解放された。それが三年まえのことで、あのころはクラブもまだJFLに所属し、J2を目指して熱くもトラブルつづきの日々を僕たちは送っていたっけ。JFL時代は楽しかったな。奈々子【ななこ】ちゃんはまだ学生で、よくクラブの手伝いにやってきてくれたし、当時監督だった樫井【かしい】さんはひたすら熱かったし。
 それに撫子【なでしこ】さんはいつも怒っていたし……。ああ、これはいまとたいして変わらないか……。
 あれから三年、いろいろなことが変わった。
 音楽が終わり、ラジオのDJが話しはじめる。
「今日、午後二時から相模大野グリーンスタジアムで、J2ビッグカイト相模原が、宇都宮【うつのみや】ウイングスと対戦します。今シーズン、まだ勝ち星のないビッグカイトですが、そろそろ初勝利といきたいものです」
 DJの声のさわやかさに反比例して、わがビッグカイト相模原の成績は最悪だった。
 J2へ昇格して三年目。
 JFLでは強豪だったわがクラブもJ2へあがれば、ニューカマーで成績はさんざん。一年目十三位、二年目十四位。現J2には十八クラブあるので、下から数えたほうが早い。そして今年は三月はじめに開幕してから、いまだ一勝もできずに現在、最下位。今年もまた駄目なのだろうか? J1への昇格など夢のまた夢となるのだろうか? 
 いや、そんなことがあってはならない。
 まだシーズンははじまったばかりだし、今年は有力選手も補強したし、あきらめるには早い。とにかく今シーズン初勝利をめざし、今日の試合をがんばるだけだ。ホペイロである僕になにができるかというと、実際はなにもできないのだけど、選手たちが気持ち良く試合ができるように、環境だけは整えてあげたい。といっても、スパイクを磨いたり、用具の整理をするだけだけど。
 気合いを入れて僕は洗濯かごに手をつっこみ、なかから洗濯ものを一枚とりだしていきおいよく、ぱんぱんとふった。クラブハウスでの洗濯からは光恵さんがきたことで解放されたのだが、私生活ではそうはいかない。
 しかし……。
 気力はそこで萎えた。
 僕が手にしたのは女もののパンツだった。 「ホペイロ坂上【さかがみ】、早くしないと遅刻するわよ」
 部屋から声がして、ベランダへ三島【みしま】撫子がやってきた。すでにかっちりしたグレーのスーツに身をつつみ、右手にトースト、左手にコーヒーカップを持っている。相変わらず胸が大きい。
 撫子さんは僕が彼女のパンツを持っているのを見ると、「いやらしいわね」とぷいと部屋のなかへもどっていった。
 いやらしいもなにも、洗ったものは干さなければならないわけで、だったら自分で洗って干せばいいわけで、それにいまさら撫子さんのパンツになんの感慨もないわけで……。以前、撫子さんに「洗濯はどうしようか」とお伺いをたてたことがあるのだが、「あなたのほうが洗濯に慣れているもの」と言われ、それからずっと洗濯は僕の役目になっている。
 不肖ホペイロ坂上栄作【えいさく】二十六歳、クラブの洗濯係は卒業したものの、こうしてまた洗濯にあけくれる日々となったのであります……。
 洗濯ものを干し終わったあとだった。
「じゃあ、ホペイロ坂上。あとはよろしく」と撫子さんは、ベージュ色のショルダーバッグをつかむと玄関からでていこうとする。
「僕も行きます」と、バッグを手に外へでて、鍵をしめるとエレベーターへダッシュした。が、すでに時遅く、無情にもドアは閉まりエレベーターは下へと降りはじめた。
 鬼だ、と思った。
 撫子さんは鬼だ。
 鬼アザミだ。
 今日は試合なのでクラブに一度寄り、用具を持って試合会場へ向かわなければならない。時刻は朝の八時半。九時までにクラブへ行かなければ……。
 仕方なく僕は階段を駆け下りる。僕たちの住んでいるのは八階建てのマンションの三階で、たいしたことはないとはいえ、走って下りるのは大変だ。
 ようやく階段を下りきってマンションの外にでると、ちょうど撫子さんがタクシーを捕まえて乗りこむところだった。
「待ってください。僕も乗ります」と走ったが、無情にもタクシーのドアがしまってしまった。
「ひでえ」とつぶやくとタクシーの窓がするすると下りて、撫子さんが顔をだし、「駄目に決まってるじゃない。あなたとわたしが同じタクシーでクラブへ乗り付けたら、一緒に住んでることがみんなにばれちゃうじゃないの」と怖い目でにらむ。
「僕は別にかまいませんが」
「いやよ。チャラ男【お】の森【もり】にからかわれるのは、耐えられない。あいつきっと、『へえ、撫子さんが坂上さんとね』ってニタニタ笑うわよ。なにも言わずにニタニタするの。ああ、やだ。だから、あなたはバスで行ってちょうだい。運転手さん、車をだして」
 タクシーの窓がするするとあがりはじめた。
「撫子さん、俺も遅刻しちゃいますよお」
 だが、窓があがりきらないうちにタクシーは動きはじめた。
 鬼だ。
 撫子さんは鬼だ。
 鬼アザミだ。
 僕は仕方なく、マンションから歩いて十分のところにあるバス停へと向かった。


     2

 僕と撫子さんが一緒に暮らしはじめたのは、今年の一月からだった。三年まえはボランティアでクラブの運営を手伝ってくれていた奈々子ちゃんに夢中だったのだけれど、なぜか撫子さんとこんなことになってしまった。
 世の中、先のことなどわからない。
 一瞬先は闇だ。
 いや、撫子さんが闇というわけではないのだけれど、少なくとも同居人には厳しい。情け容赦がない。つまり僕にはつらい状況だ。
 ちなみにクラブでは、僕は相模原市内に住む姉夫婦と同居していることになっていて、住民票もそこにある。
 僕の仕事はホペイロだ。
 ではホペイロとはなにかというと、サッカークラブの用具係で、いや正確にいえば選手がはくスパイクの管理をするのが本当の仕事なのだけど、まあ、とりあえずなんでも僕はやっている。クラブのコンビニエンスストアとか、便利屋さんなどと呼ばれることもあるけれど、本来はスパイクをきれいにして磨くことが仕事だ。わがビッグカイト相模原のような予算の少ないクラブだと、雇える人間の数も限られているので、僕はスパイク以外にもボールの管理やらその他の用具の管理、それにビラ配り、ときには広報の仕事を手伝ったりする。いつかうちのクラブも大きくなって、ひともたくさん雇えるようになり、僕もスパイクの管理に専念したいのだが、いつのことになるやら。
 それからこれはクラブの仕事とは言えないのだけど、いや、クラブの仕事と言えるかもしれないのだが、ときどき面倒なことに巻きこまれる。なぜ、僕がそんなことになるかというと、やはりそれは僕がクラブのなんでも係のせいかもしれない。ただ、その面倒なことは、どう考えても給料の範囲外のことだと思うのだが、なぜか僕のところに持ちこまれる。ビッグカイト相模原・七不思議のひとつだ。
 ちなみに三島撫子さんはクラブの広報で、でも、広報の仕事に専念できるわけではなく、ときには営業に走りまわったり、クラブの運営を手伝ってくれるボランティアの管理もしている。お互いに弱小クラブに所属する悲哀を味わっているわけで、そういう面では僕と撫子さんは戦友と言えないこともない。もっとも向こうが上官で僕が二等兵のような気がしないでもないが。
 クラブハウスでスパイクやユニフォーム、アップ用のウェアやら練習用のボールやらを車に積みこみ、最後にタオルのはいった箱を積みこもうと、廊下を走っていたときだった。
「専務、ようこそビッグカイト相模原へ」
 一階の会議室から男の声が聞こえてきた。僕の足はぴたりと止まった。
 専務というのは誰だろう?
 うちのクラブも会社組織なので、社長をはじめ専務やら常務やらもいるが、専務といえば近藤【こんどう】さんだ。しかし、近藤さんは海外出張中で……、なんのための出張なのかは秘密だが、だいたい予想はつく、新しい選手の獲得だろう……、つまり近藤専務はいま日本にいないのだから、なかに近藤専務がいるわけもない。とすると、いったい誰が誰に挨拶をしているのだろう?
 僕は足を止めて、少し開いているドアのすき間からなかをのぞいた。
 男がいる。
 暗い色のスーツを着た、頭のてっぺんがかなり薄くなっている男で首をちょっとひねり、壁に向かって「神田【かんだ】専務、ビッグカイト相模原へようこそ」と深々と頭をさげた。
 壁にはちょうど頭の高さの位置に、写真が十数枚、飾られていた。試合やイベント、JFLで優勝したときの写真が額にいれられている。
 社長はその写真に向かって挨拶をしていた。
 いったい、社長はどうしてしまったのだろう。
 写真に挨拶をするなんて、正気の沙汰ではない。
 そう、この頭が薄くて精彩のあがらない男性こそ、サッカークラブ『ビッグカイト相模原』の社長、正岡一臣【まさおかかずおみ】氏だった。
「専務、わがビックカイトはいまでこそ成績があがりませんが、今年は補強も行いましたし、いまも新しい選手をヨーロッパやアフリカ、南米で探しています。期待してください」
 正岡社長は壁に向かって明るくそう言ったが、頭をあげるとがっくりと肩を落として背中を丸めた。そのさまは社長というよりも販売成績があがらずに、上司に言い訳を考えている課長とか係長といった趣がある。きっと社長もクラブの成績が悪いので、つらいのであろう。
 ビッグカイト相模原は、相模ベアリングという会社のサッカー部が主体となって発足したプロのサッカークラブだ。そんな関係で、社長をはじめ経営陣は相模ベアリングからの出向だし、クラブハウスや練習場も相模ベアリング本社の敷地内にある。
 正岡さんは三年まえにクラブがJFLからJ2へ昇格したときにやってきた社長で、あまり有能とはいえないけれど、それでも不慣れなクラブ経営に懸命に携わってきた。だが成績はあがらず、むしろ最悪といったほうがよくて、正岡社長としたら本社に顔が向けられない状態だ。
 今年は補強に力をいれたのだが、その成果もいまのところ見られない。
 ぽんと誰かが僕の肩を叩いた。
 びくりとしてふり返ると、マネージャーの桑原【くわばら】さんが立っている。桑原さんは昔、相模ベアリングサッカー部の選手で、クラブ発足時から裏方として本社から出向。僕の直属の上司でもある。
「社長、いる?」桑原さんが言った。
「ええ、なんだか様子が変です。『神田専務、おひさしぶりです』って壁に向かって挨拶してます」
「ああ、そう……。社長もつらいんだ」
「あの、神田専務って誰ですか?」
「相模ベアリングの神田丈太郎【じょうたろう】専務。今日の試合、専務が観戦するんだって」
「どうしたんですかね、相模ベアリングの偉いさんがくるなんて年に一回あるかないかじゃないですか」
「まあね。本社もいろいろあるし。ほら、外国の会社に買収されたしさ。神田専務はそこから送りこまれたひとでさ。まだ四十代だけどやり手らしい」
 そうだった。
 この三年間でもっとも大きな変化は、僕と三島撫子が一緒に暮らしはじめたということもさることながら、クラブとしての最大の変化は親会社の経営が変わったということだった。
 それは今年の二月。突然のことだった。
 相模ベアリングがアメリカの会社に買収されたのだ。
 おそらくそうした話はまえからあったのだろうが、僕たちには青天の霹靂【へきれき】で、いったいクラブはどうなってしまうのだろうと、撫子さんたちと話をしたものだ。だが、いまのところ親会社の経営が変わったことは、僕たちのクラブにまで影響していない。
「クラブの社長といっても、本社だと課長クラスだし、それが雲の上の本社専務と会うのだから、いろいろと気をつかっているんだろう」と桑原さんは言った。
 つまり正岡社長は、本社の専務に挨拶をする練習をしているわけだ。なんともせつない話ではあるが、それが会社勤めというものなのかもしれない。まともな会社で働いたことのない僕にはわからないことであるけれど。
「でも、挨拶の練習なら社長室ですればいいのに」と僕が言うと桑原さんは首をよこにふった。
「社長室といっても、ほら二階のフロアは仕切られているだけで、挨拶の練習なんてしていたら、みんなにばれちゃうから」
 そうだった。
 一階は用具室や僕の王国であるスパイク管理室、それに監督室や会議室などがあるが、二階は事務部門の机がびっしりと置かれていて、社長室といえどもただ仕切で区切られているだけだ。なかでなにを話しているかなど、まわりにつつぬけで、仮にも会社の社長がそんなところで仕事をするなど、可哀想と思わないこともなかった。
 そんな状態なのだから、そこで本社の専務に挨拶をする練習をするなんてできないわけで、それは社長の威厳にも関わるわけで、でもそうなると僕がこうしてのぞいているのは、とんでもなく社長に悪いことをしているわけなので、ちょっと心がしくしくとする。
 僕はそっとドアから離れた。
 うしろで桑原さんが会議室のドアをノックする音が響いた。


     3

 ピッチの芝が一本一本、太陽に向かって逆立ち、緑色に輝いている。
 クラブは不調だというのに、スタジアムには六千人近く、お客さんが集まってくれている。JFL時代の倍だ。でも喜ばしいことではない。なぜならJ2に昇格した年は話題性もあり、観客動員数は年平均で一試合一万人を超えていたのだから。だが成績がふるわないこともあり、昨年は八千人を切り、今年はさらに観客が減っている。やはり勝たないと駄目なのだが、負けがこんでも試合に足を運んでくれるお客さんをどれだけ増やせるかも、クラブの課題だった。
 ただ弾幕の数はJFL時代とは比較にならないほど多い。
『がんばれ元気【げんき】、走れ元気』
 これはうちのクラブの人気者、フォワードの神坂【かみさか】元気くんの横断幕。
『吠えろ、金髪狼、森』
 これはボランチのチャラ男こと森陽介【ようすけ】くんの横断幕。
 ほかにもいろいろとあり、全部で二十枚ほどの横断幕が張られていた。
 旗が合戦のときの槍のように客席からずんと突きだされたかと思うと、一斉に振られた。そのさまは、大波がおしよせるようでもあり、凧を天高く舞いあがらせる突風のようでもある。
 スタンドの後方でこぢんまりとした旗が振られている。
「ビッグカイト、気持ちぃ~~、気持ちぃ~」という男の声がスタジアムに響く。名物サポの旗振りくんは今日も元気だ。
 サポーターたちの歌う『ビッグカイト相模原』が轟き渡り、スタジアムの空気を揺らす。有名なパンクバンドのヒット曲の替え歌で、サポーターたちのお気に入りの一曲だ。
 歌い終わるとサポーターたちは怪気炎をあげ、クラブの名前を連呼する。
 今日の相手は宇都宮のクラブで、今年昇格したばかりの新参者。うちの成績もひどいけれど、宇都宮の成績も散々で似た者同士の対戦だが、成績は悪くても応援では負けまいと、宇都宮のサポーターが「たこ、たこ、さがれ、今日も負けて、どこまでもさがれ、最下位はすぐそこだ」と歌う。文部省唱歌『たこ』の替え歌だ。
 ちなみにビッグカイトとは相模原名物、五月の連休にあげられる大凧のことで、彼らが揶揄しているのはうちのクラブのことだった。
 ふつう挑発されたらやりかえすのだが、うちのサポーターたちはおっとりしているというか大人というか、そのあたりは余裕で受け流し、「調子はどうだい、宇都宮」とみんなで叫ぶ。すると宇都宮サポーターたちが「絶不調、ただいま最下位絶不調」と返してくる。うちのサポーターたちは「こちらも不調だ、勝ち星なし、こちらも不調だ、勝ち星なし、今日は勝って初勝利、今日は勝って初勝利」と叫ぶ。相手も慣れたもので「こちらが勝って最下位脱出、こちらが勝って最下位脱出」と叫んだ。
 サポーターたちはときに殺伐とするのだけど、僕はうちのサポーターたちののんびり具合が好きだったりする。まあ、それに甘えちゃいけないので、今日はなんとしても勝って彼らを喜ばせなければなるまい。ホペイロだってクラブの一員。仕事をしながら気持ちの上では選手たちと一緒に戦っているのだ。
 気合いをいれて、ピッチの脇に並べるスクイズボトルをとりに、バックヤードの廊下を小走りに急いでいるときだった。
「兄ちゃん、元気くんはどこ?」
 思わず立ち止まって、声の主を捜すと十歳ぐらいの少年が廊下に立っている。首から関係者用のパスをぶらさげ、生意気そうな目で僕を見つめている。たぶんうちのスタッフかスポンサーか、あるいはなにかコネクションがあってはいりこんだファンがいて、その子供だろう。
「サインが欲しいんだけど、どこ?」少年がまた言った。
 選手たちは試合まえのアップが終わり、いま最後のミューティング中だった。そのことを告げると少年は「あ、そう。どこでやってんの」とさらに訊ねる。
「あのね」と僕は少年をにらみつけた。「いまから試合なの。選手たちは試合に向けて集中力を高めているの。サインなんてしている暇はないから」
「じゃあ、サインはもらえないの?」ぶすっとした口調で少年が言った。
「いまは駄目」
 そう言って僕はスクイズボトルをとりに行こうとした。
「パパは必ずサインもらってやるって言ってた」
「パパって誰」
「神田丈太郎」
 それは本社の専務の名前ではないか。
 この生意気な少年が神田専務の息子なのか。
 さて、どうしたものかと、ちょっと悩んだ。親会社の専務の息子とはいえ、試合まえの大事なときに元気くんをわずらわせるなんて言語道断だ。かといって、僕はクラブに雇われているわけで、つまり本社の専務といえば、クラブの社長よりもえらいわけで、それをむげに断るのもなんだし……。
「ホペイロ坂上、なにをしているの?」
 撫子さんが子供相手に悩んでいる僕を見つけて、肩をいからせながらこちらへやってきた。
「この子が元気くんのサインが欲しいって」小声で撫子さんに言った。
「試合あとにしてもらいないさい」
「いま欲しいそうです」
「そういうガキには『わがまま言うんじゃない』って、ガツンと言ってやんなさいよ」
「でも、親会社の専務の息子なんですよ」
「あのね、親会社の専務だろうが、社長だろうが会長だろうが、試合まえに選手に余計なことはさせられないの。試合に勝つのが選手の仕事だし、それをサポートするのがあなたの仕事でしょうし。いいわよ、あたしがガツンと言うから」
 さすが撫子さんだ。怖いが頼りになる。
 撫子さんはくるりと少年に向き直ると、しゃがみこみ「ねえ、ボク……」と甘い声をだした。
 あれ、ガツンと言ってやるんじゃないのか、と僕はポカンと口を開けてふたりを眺めた。
「学校でテストがあるとするでしょ。もうすぐテストがはじまるってとき、きみが一生懸命勉強したことを忘れまいとしているとき、誰かになにか頼まれるのは嫌よね?」
「うん」
「元気もね、それと同じなの。だからサインは試合のあとにしようね」
「でも、試合はテストじゃない」
「あのね、同じなの」
「違う。ボール蹴るのとテストは全然違う」
 ぶちっと何かが切れる音がしたように思う。撫子さんは元々短気だ。気にいらないことがあると、すぐに切れる。案の定、肩がぷるぷると震えていた。これはまずいと止めようとしたときだった。
「坊ちゃん」
 廊下を歩いてきた正岡社長が専務のガキに……、もといおぼっちゃんに声をかけた。
「サインはあとにしようね。試合が終わったら、おじちゃんが責任をもってサインをもらってあげるから」
「いま、欲しい」
「でもね、いまは駄目なんだ」
「いま、欲しい」
 頭がくらくらとした。なんとわがままな子供だろう。さすがに僕も頭にきて、なにか言ってやろうと思ったときだった。
「社長、あたしが言ってやりますから」撫子さんが声を荒ららげて立ちあがった。「こら、坊主。下手にでたらいい気になって。駄目なもんは駄目なの。こっちはこれから命をかけた戦いをするのよ。あんたのわがままなんかにかかわりあってる暇はないの。さっさと客席に行きなさい」
 撫子さんは右手の人差し指を立てて、廊下の隅にある階段を指した。その姿は宝塚の男役かと思うほど凛々しく、恰好良かった。
「いや、三島くん。ここは穏便にね、穏便に」
 正岡社長があわてて撫子さんをなだめにかかった。
 そのとき撫子さんがきゃーと小さな悲鳴をあげた。神田専務の坊ちゃん……、もとい、ガキがこともあろうに撫子さんのスカートをめくったのだ。ガキは僕たちを小馬鹿にしたように舌をぺろりとだすと、脱兎のごとく廊下を逃げていく。
 その瞬間、僕はいろいろなことを忘れた。神田専務のこととか、社長のまえだとかそんなことはどこかへすっ飛んでしまった。
「待て、小僧!」
 そう叫ぶと僕は廊下を走りはじめた。が、僕のウエアの襟を誰かがつかんだので、それ以上、追いかけることができなかった。神田専務の息子はあっという間に廊下のすみまで走って、残念無念、階段へと姿を消した。
「あんたねえ」と撫子さんが僕の襟をはなして言った。「子供相手になにを真剣になってるのよ」
「撫子さんのスカートをめくったんです。子供だろうがなんだろうが、許すわけにはいかんのです」
「別にスカートぐらいかまわないわよ」
「いや、かまいます。撫子さんがいいと言ったって、僕が許しません」
 撫子さんが僕の唇に人差し指を立てて押しつけ、小さな声で「社長がいるのよ」と言った。
 横を見ると社長が怪訝【けげん】な顔でこちらを見ている。
「いやあ、その教育ですよ、教育。女性のスカートをめくるなんてしちゃいけないって、説教しようと思いまして」僕は笑顔をうかべて言った。
「いや、すまないね」正岡社長が僕たちに頭をさげた。
「社長があやまることありません」撫子さんが言った。「社長は大切な仕事があるんですから、そちらのほうをよろしくお願いします」
 試合のあいだ、社長にはとくに仕事もないのだけれど、神田専務がきていることでもあるし、社長にはそちらの方面で活躍してもらいたい。
「うん、わかった」と正岡社長がうなずきながら去っていった。
「悪いひとじゃないんだけどね」と撫子さんが社長を見送りながら言った。
「悪いひとじゃないんですけどね」と僕もうなずいた。
「で、さっきはなにをそんなに怒っていたわけ?」
「いや、それはその……」
「ほれ、言ってみい。なんで怒ったわけ?」
「だから、それは……」
 ニタニタと笑いながら撫子さんが顔をぐっと近づけてきた。
 ひとの気配がした。
「あのう、撫子さん」
 その声を聞いてぱっと僕たちは離れた。
「ホペイロ坂上、そういうことだからあとはよろしく」撫子さんは僕の肩をぽんと叩いた。
「坂上さんと、打ち合わせですか?」
 声の主は奈々子ちゃんだった。目がちょっと離れたヒラメ顔だけど、相変わらず可愛い。
「いやあ、奈々子ちゃん。仕事は順調?」
「はい」と元気よく奈々子ちゃんが微笑んだ。
 やっぱり奈々子ちゃんは可愛い。
「ホペイロ坂上、さっさと仕事にもどりなさい」撫子さんが機嫌の悪そうな声をだした。
 まずい、怒っている。
「はあい」と間延びした声で返事をし、僕はふたりから離れた。
 背中で「マスコミの記者さんたちには、報道資料は配ったわね」と撫子さんの声がする。「はい」と元気な奈々子ちゃん。
「あとは、ハーフタイムになったら、監督の談話をメモして記者さんたちに配ってちょうだいね。これ、忘れないこと」
「はい!」
 奈々子ちゃんは大学の栄養科学科を卒業したあと、栄養士にはならずにうちのクラブの広報として働いている。つまり撫子さんの部下になったのだ。奈々子ちゃんは可愛いくてはきはきしているので、記者さんたちの評判もいい。
 三年まえは奈々子ちゃんをお嫁さんにしたい、なんて思っていたな、などと思いながら僕はふたりをふり返った。
 撫子さんは美人で胸も大きいけど、性格はきつい。
 その点、奈々子ちゃんは可愛いうえに優しい。
 どうして僕は撫子さんと付き合うことになってしまったのだろう、などとぼんやりと考えた。
「坂上!」と誰かが叫んでる。
 黒いスーツに黒いサングラスの樫井GMだった。
「おまえ、スクイズボトルはどうした。まだ並んでないじゃないか。もたもたしていると試合がはじまっちまうぞ。いいか、スタッフといえども戦ってることには変わりないんだ。気合いだ、気合いをいれていけ!」
 樫井さんは去年、監督から退きクラブ強化の責任者、ゼネラルマネージャーとなった。でも、いまだに現役監督気分が抜けずに、いつも僕たちに気合いをいれる。
「はい」と僕は奈々子ちゃんばりの元気な返事をした。
「それから坂上」
「はい?」
「おまえ、まさか今日は先週の試合と同じパンツをはいてないだろうな?」
「ええと、ええと。わかりません」
「なにをやってるんだ! 負け癖がついたパンツは捨ててしまえ。俺は負けたときのパンツは二度とはかないように、ゴミ箱につっこむぞ。おまえもそうしろ」
 縁起を担ぐところは、監督時代とまったく変わっていなかった。
「はい。これからはそうします」と答えて僕は廊下を走った。
 そういえば、今日は新しいパンツをはいたことを思いだした。樫井GMに「負けたパンツははいてません」と報告しようかと思ったが、ばかばかしいのでやめる。とりあえずスクイズボトルを並べることに専念することにした。

 その日……。
 ビッグカイト相模原はまた負けてしまった。泥沼の開幕四連敗だった。僕はパンツを一枚、捨てることになった。まだおろしたてのパンツだった。
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