この小説は、僕を作家への道に進ませてくれた
怪獣ものへの愛である。

怪獣対策のスペシャリスト集団「気象庁特異生物対策部」、
略して「気特対」の活躍を描く、本格SF+怪獣小説!
(07年11月刊『MM9(エムエムナイン)』)

山本 弘 hiroshi YAMAMOTO

 

 スティーヴン・スピルバーグ監督の『宇宙戦争』は不幸な映画である。
 何が不幸かって、観客の多くが『宇宙戦争』とはどんな話なのかぜんぜん知らなかったことだ。映画評を見ても不評ばかり。どうもみんなタイトルだけ見て、トム・クルーズがかっこよく宇宙人と戦うアクション映画を期待していたらしい。それなら不満が出るのは当たり前だ。僕などは逆に、中学時代にH・G・ウェルズの原作を読み、一九五三年に作られた映画版もテレビやビデオで何度も見ているので、見事に期待通りのリメイクだったことに大喜びしたのだが。
 また、あの結末を批判している人が多いのにもあきれた。いや、あれは原作通りなんだってば! 旧作のラストもああだったんだってば! つーか、あのラストを変えたらウェルズのテーマを否定することになって、『宇宙戦争』じゃなくなっちゃうんだってば!
 もうひとつ、あまりにも明瞭なのに、ほとんどの観客が(映画評論家も含めて)気がついていない点がある。
 あれは怪獣映画だということだ。
 僕がいちばんしびれたのが、地中から出現した異星人の巨大なウォーマシンが、コントラバスを思わせる低音で吠える場面である。なぜ機械のくせに吠える?
 マニアの方ならご存知だろうが、初代ゴジラの鳴き声は、コントラバスの弦を松ヤニのついた手袋でこすった音をベースに作られている。コントラバスのような声で吠え、最新兵器の攻撃にびくともせず、熱線を放射して人間を虐殺するウォーマシンは、まさにこうあるべきだった『GODZILLA』――子供の頃から愛していたゴジラのイメージを、ローランド・エメリッヒに穢されたスピルバーグの、「怪獣映画はこうじゃないとだめだろ!」という不満の爆発と見た。
 異星人の侵略機械がなぜか地中から出現するという不自然な展開も、「地底怪獣出現!」をやりたかっただけだろう。海面下をライトを点したウォーマシンが進んでくるカットも、あまりにも懐かしくて、「分かってる! スピルバーグは怪獣映画を分かってる!」と嬉しくなったものだ。もちろん『ゴジラ』だけじゃなく、旧作へのオマージュ(もちろん現代の観客にはまったく通じないのだが)も随所に盛りこまれていて、スピルバーグのマニアぶりがうかがえる。
 ピーター・ジャクソンの『キング・コング』も素晴らしかった。九歳の時に初めてオリジナルの『コング』を見て感激し、映画監督を志したというジャクソン。その愛が全編にあふれていた。旧作をただなぞるだけでなく、ドラマに深みを加え、よりパワフルに、美しく生まれ変わらせた。
『宇宙戦争』と同様、『キング・コング』も、世間の評判はあまり高くない。しかし、自分を映画への道に進ませてくれた作品に捧げられたジャクソンの深い敬意に、僕は共感し、感動した。スピルバーグにせよジャクソンにせよ、たとえヒットはしなくても、自分の愛する作品を自分の理想とする形でリメイクできて、満足に違いない。

 さて、僕はというと、『ウルトラQ』『ウルトラマン』にはじまる第一期怪獣ブームの直撃を食らった世代である。小学生の頃、ノートにオリジナルの怪獣の絵を一二〇体ぐらい(身長・体重・出身地・武器などのデータつきで)描いたことがあるし、当時から怪獣の出てくる小説も書いていた。そこから興味がSFにシフトして、SF作家を目指すようになったわけだが、怪獣のことを忘れたことはない。上映会やビデオで古い怪獣映画をあさる一方、最新の特撮番組や特撮映画を見続けてきた。
 僕だけではないだろう。昭和四〇年代に少年少女だった世代はみな、何らかの形で、あの熱狂的な怪獣ブームの影響を受けているはずである。現在活躍している作家の中にも、怪獣がきっかけでホラーやファンタジーやSFに目覚め、その道に進んだ人は多いはずだ。
 それなのになぜ怪獣小説は少ないのだろうか? それが疑問だった。近年では、朱川湊人氏が『ウルトラマンメビウス』の脚本およびオリジナル小説を書いて、怪獣マニアであることをカムアウトしているし、有川浩氏は『空の中』『海の底』(メディアワークス)といった怪獣小説を書いているが、それらは数少ない例外である。自分の原点であるはずの「怪獣」をまともに小説の題材にする作家は少ない。
 どうして?
 怪獣なんか荒唐無稽だから? 科学的にありえないから? 確かに、身長何十メートルもある巨大生物なんて存在し得ない。骨や筋肉が自重に耐えられないから、立ち上がることさえできないだろう。まして火炎や光線を出すなんて言語道断だ。しかし、吸血鬼や幽霊やゾンビの出てくる話や、タイムスリップものや異世界ものなど、科学的にありえない話はこれまでさんざん書かれているではないか。どうして吸血鬼や幽霊は良くて怪獣はダメなのだろうか?
 では、僕が怪獣小説を書くとしたら……と考えてみると、怪獣小説が書きにくい理由が二つあることに気がついた。
 第一に、怪獣をメインにしてしまうと、人間ドラマが描きにくいことだ。怪獣の大暴れと登場人物の日常をどうからめればいいのか。
 そこで、登場人物たちを積極的に怪獣に関与させるため、「怪獣対策の専門家チーム」という設定を導入した。怪獣を攻撃するのは自衛隊の仕事だが、それをサポートするプロフェッショナルがいることにすればいい。彼らが毎回、怪獣と遭遇するのは必然であり、怪獣への対処をめぐって、いろいろなエピソードが生まれるはずだ。
 その名は気象庁特異生物対策部――通称「気特対」。
 この設定はなかば冗談、なかば論理的必然である。ちょうどこの原稿を書いている途中の12月20日、石破茂防衛相が記者会見で、「ゴジラがやってきたら、天変地異のたぐいだから災害派遣だ。モスラも大体同様だ」と発言したと報じられた。そう、もし怪獣が存在するなら、台風や地震と同じく天災だから、気象庁の管轄であるはずなのだ。
 第二の問題は、怪獣が存在する根拠だ。吸血鬼や幽霊はオカルト的な存在だから理屈をつけなくてもいいが、怪獣はいちおう肉体を持った生物である。なぜ科学的にありえない生物が存在するのか、説明しなくてはならない。
 そこで、舞台をこの世界に似ているが物理法則の異なる異世界と設定した。そこでは怪獣が存在可能であり、昔から多くの怪獣災害が起きてきた。だから気象庁の中には怪獣対策専門のセクションが存在する……。
 と、ここまで考えて、問題があることに気がついた。怪獣がごく普通に存在する世界の歴史は、我々の世界とまったく同じではありえないのだ。たとえば一九五四年のゴジラの東京襲撃が本当にあったら、その後の日本の歴史はまったく違ったものになっているはずである。
 その問題に対し、僕がどんな回答を出したか――それはこの小説を最後まで読んでいただくしかない。
 他にもこの小説には、怪獣マニアである僕の趣味を存分にぶちこんである。僕と同じくマニアの方なら、ちりばめられた設定(登場人物名や過去の怪獣災害の実例)の元ネタの数々に気づかれることだろう。だが、それが決して意味のないお遊びではないことは、結末を読んでいただければ納得していただけるはずである。
 唯一の心残りは、怪獣に大破壊をさせられなかったことだ。巨大怪獣が街を破壊するのが怪獣映画の醍醐味だし、僕も大好きなのだが、怪獣に破壊を許すということは気特対の失敗を意味するからだ。このジレンマにはかなり苦しんだ。それでも最終話のラストで、やりたかった怪獣同士のバトルを描けたうえ、個人的にいちばん好きなあの技を出せて、満足している。
 この小説は、僕を作家への道に進ませてくれた怪獣もの――特に『ウルトラ』シリーズへの愛である。

(2008年1月)

山本弘(やまもと・ひろし)
1956年京都府生まれ。78年「スタンピード!」で第1回奇想天外SF新人賞佳作に入選。87年、ゲーム創作集団「グループSNE」に参加。作家、ゲームデザイナーとしてデビュー。2003年発表の『神は沈黙せず』が第25回日本SF大賞候補に。06年の『アイの物語』は第28回吉川英治文学新人賞ほか複数の賞の候補に挙がるなど、日本SFの気鋭として注目を集める。『時の果てのフェブラリー』『まだ見ぬ冬の悲しみも』『闇が落ちる前に、もう一度』など著作多数。創作活動のほか、「と学会」会長を務めるなど、多岐にわたる分野で活躍する。