ロビンスンの火星三部作は、
そうした九〇年代の火星SFを代表する作品なのだ。
そうした九〇年代の火星SFを代表する作品なのだ。
渡邊利道 toshimichi WATANABE
本書は、一九五二年生まれのアメリカの作家、キム・スタンリー・ロビンスンが、一九九六年に発表した長編小説Blue Marsの全訳である。『レッド・マーズ』(九二年・邦訳は創元SF文庫から九八年)、『グリーン・マーズ』(九三年・邦訳は同文庫から二〇〇一年)と本書からなる三部作は、ヒューゴー賞(『グリーン』、『ブルー』)、ネビュラ賞(『レッド』)、ローカス賞(『グリーン』、『ブルー』)など多くのプライズに輝いた九〇年代SFを代表する古典的作品である。日本でも『レッド』が星雲賞を受賞するなど好評を得たが、諸事情あり長きにわたって未刊行だった三部作完結編の邦訳がついに登場となったわけだ。
この三部作は二十一世紀の序盤からはじまり、火星に進出して惑星開発と植民を成功させ、ついに地球から独立を果たすおよそ二百年にわたる人類の姿を描いた未来史的作品である。ひと続きの物語なので、はじめから読むのが一番ではあるのだが、すでに前作刊行からかなりの時間が経過しているし、またかなり長大な物語なので、とりあえず本書から読みたいという読者のために、これまでの物語の流れをまとめておこう。
(以下、『レッド』『グリーン』の物語の核心に触れています。)
第一部の『レッド』では、世界各国から選抜された科学者集団〈最初の百人〉が火星に到着し、惑星開発の準備を進めていく中で生まれるさまざまな葛藤が描かれる。複数の登場人物の視点が交錯し、火星に植民が成功した後の「事件」の夜からはじまり、時間軸を遡って火星への宇宙飛行に戻るというドラマティックな物語構成になっている。中心となるのは三つのグループにわけられる人物たちで、彼らは三部作全体の中心でもあるので、やや詳しく紹介する。
まずはロシア人のリーダー・マヤと、アメリカ人のリーダー・フランク、そして宇宙飛行士で植民団の精神的支柱となるジョン・ブーンの恋愛と権力と理想が入り交じった複雑な三角関係。それに地球からの完全な独立を目指すアルカディイと、実務家で誰からも信頼されるナディアの恋。この五人はそれぞれ地球との関係に留意しつつ、みずからの理想を実現するためにさまざまな手段を講じ、時には思わぬ事態を招いては、その収拾のために奔走する。
次に火星のテラフォーミングをめぐって、火星の美とはそれを認識する人間の精神にこそ存在すると主張する緑化推進論者サックスと、逆に自然状態のままの火星に拘るアンの激しい対立がある。サックスの議論の進め方はいかにも科学者然としているが、対するアンはほとんど神秘的ともいえるようなアルカイックな火星への情熱をつねに沸きたたせていて、読むものをたじろがせずにはいない迫力がある。彼らの議論は「グリーンズ」と「レッズ」という二大陣営の深刻な対立へと発展する。
そして三つめのグループが、主導権争いや論争から距離を置き、とつぜん姿を消し、独自の精神的価値を説いて隠れコロニーを作るヒロコと、密航者コヨーテである。スピリチュアルでアナーキーな彼らの行動は、アメリカ西海岸的ユートピア志向の彩りを作品に与えている。謎めいたヒロコのコミュニティは次作『グリーン』で重要な役割を果たす。
国連の介入による急激なテラフォーミングと植民人口の流入、超国籍企業体による大規模な開発と搾取がはじまり、火星社会のありかたをめぐってジョンとフランクは対立し、ジョンが暗殺される。『レッド・マーズ』冒頭を飾るこの場面はエキゾチックな昏い情念に満ちた美しさが印象的だが、事件そのものは歴史化され、物語内でひとつの謎として機能し、それは本書『ブルー』でも登場人物たちの語りによって受け継がれる。地球で環境破壊と人口爆発が限界に達して世界戦争が発生、それが飛び火するかたちで二〇六一年に第一次火星革命が勃発する。宇宙エレヴェーターの崩壊などの壊滅的事態に陥り、地球の暫定統治機構(UNTA)による支配が確立する擾乱の中、アルカディイ、フランクは死亡。
続く『グリーン』では、地下に逃れた〈最初の百人〉の一部と、そこで生まれた第二世代が登場し、地球の支配に抵抗して「火星の自由」を獲得する闘いが描かれる。遺伝子工学を利用した長寿処置が発達し、〈最初の百人〉は百歳を超えて活動する。また第二世代の誕生にも遺伝子工学技術は用いられ、地球の家族制度とはまったく異質な母系制をモデルにした独特の様式が生まれており、ちょっとした文化人類学SFの趣がある。複数の登場人物の視点にまたがって物語が進行するのは前作と同じだが、時系列が前後することがなく、また展開も基本的に抵抗から独立へと一方向なので大変読みやすい。もっとも、人口が増え、また植民の歴史もそれなりに長くなった分だけさまざまな文化思想や利害関係が出来上がっていて、革命勢力の内部での調整や議論の描写は繁雑を極める。コミュニティの中心人物であったヒロコが、暫定統治機構の治安部隊によって襲撃され行方不明となり、それを契機に火星の植民者たちはレジスタンスから第二次革命へと突き進む。
新たな登場人物としては第三世代の女性で、権力志向で他人をコントロールしたがるジャッキィ、旅を好み穏やかな性格のニルガル、「レッズ」の中でも急進派に属するカセイ。「グリーンズ」の若きリーダーで、アンの遺伝子を持つピーター。地球の超国籍企業体のひとつプラクシスから送り込まれたエージェントで、ナディアと恋仲になり火星の独立に協力するアートなどが現れる。またマヤは元精神科医のミシェルに心を開く。アンはますますみずからの思想を強固なものにしていくが、レジスタンスの中で脳に損傷を負い瀕死の状態を経験したサックスはアンを理解したいと強く望み、反発する彼女を追いかけ続けるなど、〈最初の百人〉の関係性にも変化が起こる。
そして、二一二七年、第二次火星革命の真っ只中。地球の治安部隊が宇宙エレヴェーター上端のステーションに撤退し、過激派の「レッズ」がそれを追撃しようとする緊迫した場面から、第三部の『ブルー』がはじまるのだ。
火星三部作最大の魅力は、なんといっても荘厳なまでに美しい火星の風景描写である。いうまでもなく、SFの長い歴史の中で、火星はつねに夢の大舞台だった。
大きさが地球の半分くらいで、月の約二倍。重力は地球の三十八パーセント。英語名Marsはローマ神話の軍神が由来となっており、月のすぐそばに不気味に赤く光るその姿にまつわる伝承は、古来戦いに関わる不吉なものが多い。
はじめて望遠鏡を使って火星を観測したのは十七世紀のガリレオ・ガリレイである。以後、極冠が発見されたり(カッシーニ)、地軸が傾いていて、季節の変化や大気が存在すると推測されたり(ハーシェル)と、望遠鏡による観測が続き、十九世紀には運河が発見されたという誤情報をもとに、「火星人論争」が巻き起こった(運河があるのなら、それを作った知的生物がいるに違いないというわけである)。そんな中、一八九七年にイギリスの作家H・G・ウェルズが、タコ型生物の火星人が地球を蹂躙する小説『宇宙戦争』を発表する。
火星を舞台とする作品の最初期の代表作品は、一九一二年からアメリカのパルプ雑誌ではじまったエドガー・ライス・バローズの《火星シリーズ》である。南軍の元軍人ジョン・カーターが、アリゾナの洞窟で幽体離脱して火星に移動し、火星人のプリンセスを助けて大冒険をくりひろげるヒロイック・ファンタジーに近いスペースオペラで、ここに登場する火星人は卵生だが人間型だ。
五〇年には、アメリカの作家レイ・ブラッドベリが『火星年代記』を刊行。地球人の探検隊が持ち込んだ伝染病のために火星人が絶滅して人類の植民が進むという未来史的な物語を、二十六の連作短編で構成した作品で、文明批評とメランコリックな情感が融合した幻想SFの古典的傑作だ。一方、リアルな科学考証に基づくハードな火星SFの嚆矢となるのが、五一年にアーサー・C・クラークが発表した『火星の砂』。地球―火星間を結ぶ定期連絡宇宙船に乗り込んだSF作家が火星の植民地を取材する物語で、人類初の人工衛星スプートニクをソビエト連邦が打ち上げたのが五七年のことであることを考慮すればそのリアリティは圧倒的だ。にもかかわらず、火星に高度な知性を持った固有生物が存在しているのが、この時代にSF作家が抱いていたイメージの強固さを物語っているだろう。
ロケットを使った火星探査計画がはじまるのは一九六〇年代である。金星・火星・水星の探査を目的に進行していたマリナー計画を横目に、アメリカの作家フィリップ・K・ディックは『火星のタイム・スリップ』(六四年)や『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』(六五年)といった幻想的な火星SFを発表。ディックの描く火星は意図的に時代錯誤なもので、現実の惑星探査計画への一般的な期待への皮肉を感じることができる。
そして六五年、マリナー4号が火星に到達、上空約一万キロメートルから二十二枚の写真撮影に成功する。クレーターしかない荒涼たる赤い地面には、生物はおろか水の一滴も見当たらなかった。さらに七一年のマリナー9号は、はじめて火星の人工衛星となって観測を開始。四つの大きな火山脈と氷河によって作られたと思しい地形、河川の痕跡を発見。火星にはかつて生命が存在したかもしれないと考えられるようになる。しかし、七六年のヴァイキング1号、2号が続けて火星の大地に降り立ち、生命の痕跡を探す実験をしたがいずれも失敗。リアルな火星人が存在する可能性は消滅した。八〇年代にはアメリカの宇宙開発がスペースシャトルに移行したこともあり、同時代の火星SFでは、十九世紀の英国人がタイムマシンで火星に飛ぶというクリストファー・プリーストの『スペース・マシン』(七六年)や、火星に生まれた街が消滅するまでを魔法に見紛う独特のSFガジェットと絢爛な文章で描いたイアン・マクドナルドの『火星夜想曲』(八八年)のような、きわめて文学的・幻想的な傑作が多く生まれた。
一方、七〇年代の惑星探査計画による飛躍的な知見の増大を受けて、科学者たちはさまざまな研究を進める。とくにSFに強い影響を与えたのが、七三年にカール・セーガンが発表した「長い冬」仮説である。これは自転軸の傾きのために火星では寒冷期と温暖期が五万年単位で繰り返されており、極冠の二酸化炭素の氷が解けることで温室効果が生じ火星の気温が上昇するという説で、現在ではいろいろな面で無理があることがわかっているものの、多くの科学者たちを刺激し、次々に火星をテラフォーミングするアイディアが考案されていった。それらのアイディアは少しずつSFに反映されるようになり、九〇年代に入ると、ハリウッドが映画撮影のために火星への有人宇宙飛行を計画する『赤い惑星への航海』(テリー・ビッスン、九〇年)、火星への植民と宇宙での戦争を描くハードSF長編『火星の虹』(ロバート・L・フォワード、九一年)といった、惑星探査での詳細な情報や、テラフォーミングに関する新しい研究を貪欲に消化したリアルな火星SFが次々登場した。
ロビンスンの火星三部作は、そうした九〇年代の火星SFを代表する作品なのだ。さまざまなテラフォーミングのアイディアに、SF的な飛躍を加えて大胆に投入した、変容する火星の風景描写は、緻密かつ荘厳な美しさに満ちていて読者を魅了する。風車で風を熱に変え、遺伝子を組み換えた藻を繁殖させ、ミラー衛星で太陽光を集め、水の小惑星を大気面に接触させる。空が、大地が色を変え、新たな生態系が生まれ、氷が解け出して海を作る。その変容を仕掛け見届けるのが、火星に移住しそこで生活する空間をみずから確保すべく格闘する〈最初の百人〉と呼ばれる科学者たちであることによって、自然科学的な認識の対象である風景が、生と死に直面する身体的な体験を通して生々しく立ち現れてくるのだ。とくに本作では、そこにサックスとアンという正反対の個性による相互理解と融和というロマンティックな展開が加わって、小説的なハイライトになっている。
また火星三部作を特徴付けるもうひとつの大きな要素が「政治」である。もともとアメリカSFには、みずからの建国の歴史に重ねあわせた、植民星の独立を描くロバート・A・ハインライン『月は無慈悲な夜の女王』(六六年)という傑作がある。また前述のブラッドベリ『火星年代記』のように、植民惑星をいわば鏡面にして、地球人類の問題点を描き出すアイロニカルな文明批評という方法も、ひとつのパターンとして確立されている。
火星三部作では、いかにも九〇年代のアメリカに相応しく、西欧社会のみならず、イスラームや東洋などの価値観を尊重する多文化主義に貫かれた、自由と多様性を奉じる民主主義的な信念と、企業中心の資本主義社会を脱し、贈与と協同による新しい経済システムを模索する「革命」が描かれる。次々に襲いかかる困難や挫折を乗り越え、力強く立ち上がっていく人々の姿は感動的だ。しかしまた、地球では既成のさまざまなしがらみによって難しいが、火星ならば新しい世界を作ることができるという発想そのものがどこかアイロニカルであるのは間違いない。それに物語が展開するにしたがい、困難の深刻さが増しているのではないか(たとえば結局は〈最初の百人〉に頼り切りになっていて、第二世代以降があまり役に立っていないなど)といった疑問も率直に言って拭えない。この見通しの暗さは、八九年からはじまった東欧の自由化が期待させた政治的な夢が、九二年から九五年のボスニア紛争の泥沼によって徹底的な幻滅を被ったことも、同時代的な背景として存在しているのだろう。
そして現在の目から振り返って三部作を読み返せば、宇宙エレヴェーターの崩壊に二〇〇一年九月十一日の世界貿易センタービル崩壊を重ねずにはいられない。『ブルー』では、火星の自由のためには、地球からの植民を太陽系全域に進めていかねばならないという展開になるのだが、作者が三部作完結から十六年も経過した二〇一二年に、太陽系全域に植民した人類が地球から完全に自由になるという『2312 太陽系動乱』(邦訳は創元SF文庫から一四年)を発表しているのも、本作でやり残したことがあるという作者の意識の現れのように見える。
しかし、そういった作者の意識への推測はべつにして、本作には、やはりその暗さもふくめて強烈な魅力がある。それは前述した自然描写の比類のない美しさであり、二百年に及ぶ時間を超えて生き続ける人間の認識や関係の変化といったSF的な変容の感覚の生々しさと、西海岸的なユートピア志向に忍ばせたどうしようもなく暗い感覚の魅力である。そしてそれは、ロビンスンが博士論文で論じたというカリフォルニアのSF作家の先達フィリップ・K・ディックの作品に通底した感覚であるように思えるのだ。リアルな科学考証が生み出した構築的想像力が、幻想的な実存の暗さに突き抜ける文学的達成をぜひ読者には味わっていただきたい。
なお、本作発表後の火星に関する科学的なトピックとしては、まず一九九六年、火星から飛来した隕石の中に生命の痕跡らしきものを発見したというビッグ・ニュースによって、ふたたび火星がクローズ・アップされることになったことが挙げられる。九七年にはマーズ・グローバル・サーベイヤー計画により火星の地図作製に成功。二〇〇四年には二台の探査車が火星の大地に降り立った。日本やヨーロッパなども火星探査に参入し、一六年には当時のオバマ米大統領が、三〇年までに火星に人類を派遣し、無事地球に帰還させる計画があると発表。これまで何度も言われてきたことだが、火星三部作が「SFではない」といわれる日が待ち遠しい。
二十一世紀に入ってからの火星SFでは、火星の最高峰であるオリュンポス山を、古代ギリシア世界のそれに重ね、量子力学や並行世界に神話の英雄たちをからめたダン・シモンズの超絶技巧が炸裂する『イリアム』(〇三年)『オリュンポス』(〇五年)連作、火星探検隊の一員が、事故で火星に置き去りにされ科学知識と勇気を駆使してサバイバルする『火星の人』(アンディ・ウィアー、一二年)などがある。それぞれ幻想的路線、リアル路線の火星SFを徹底させた傑作だ。
最後に、作者に関する詳しいプロフィールは前述の『2312』解説にあるので興味のある方は参照して欲しい。また、本書は『レッド』『グリーン』とともに原書ハードカバー初版(九二~九六年)を原本にして邦訳されている。三部作の原書は二〇〇九年のペーパーバック新版で全体的に相当量の改稿が行われ(一部登場人物の名前が変更されているなど。ただし大筋や作品内の科学的事実に修正はほとんどないらしい)、現在流通している電子書籍版はこの新版に基づいており、邦訳とは差異があることを了解されたい。
また、『グリーン』から登場する「環境詩学(ecopoesis/エコポエシス)」という単語は、内容的には明らかに「エコポイエシス(生態系創成/ecopoiesis)」を指していると思われるが、新版をふくめ原書で一貫してこの綴りが使われており、作者の意図的な改変であろうと訳者および編集者が協議の上判断し、「環境詩学」のママにしてあるとのこと、これも重ねて原書に親しむ読者にはご了解いただきたい。
■ 渡邊利道(わたなべ・としみち)
1969年生まれ。作家・評論家。2011年、「独身者たちの宴 上田早夕里『華竜の宮』論」で第7回日本SF評論賞優秀賞を受賞。2012年、「エヌ氏」で第3回創元SF短編賞飛浩隆賞を受賞。