渡邊利道 toshimichi WATANABE
多くの点で高層住宅は、テクノロジーが真に〈自由〉な精神病理学の表現をどこまで可能にするかという見本であった。(本書五十五ページより)
そこはロンドン郊外に建てられた最先端の技術とコンセプトを有した高層住宅。四十階建、一千戸。十階にはスーパーマーケット、ヘアサロン、プール、リカーショップ、トレーニングジム、住人の児童たちのための小学校があり、三十五階にはもうひとつの小さなプールとサウナとレストランが設置された、至れり尽くせりの完璧な建物だ。
外界から隔絶されたこの高層住宅には、弁護士、医師、学者、広告代理店の重役といった知的な専門職に携わる、現代の選良とでもいった人々が住んでいる。建設されたばかりで、ダストシュートの不具合や停電などのアクシデントが頻発し、住人たちはその憂さを晴らすように毎日パーティに勤しんでいたが、しだいに階層ごとのグループに分かれ、暴力も辞さず激しく対立するようになる。退行現象を起こし、塵芥にまみれ恐るべき無秩序に陥った住人たちは、むき出しになった欲望の渦に巻き込まれ押し流されていく……。
本書は、SFのみならず二十世紀英国文学を代表する作家、ジェイムズ・グレアム・バラードが一九七五年に発表したHigh-Riseの全訳である。八〇年にハヤカワ文庫SFから刊行され長く品切れになっていたが、このたびめでたく創元SF文庫から新版の刊行となった。タイトル『ハイ‐ライズ』の「‐」が「・」に変更されているほか、本文も「アルセーシアン犬」を「ジャーマン・シェパード」にするといった名詞表現を現在のものに変更する程度で、作品内容に大きく関わる修正点はないようだ。
本文庫では『殺す』以来約五年ぶりの新刊でもあり、新しい読者のために、まずバラードという作家を紹介しよう。
一九三〇年、当時イギリスの植民地であった上海で生まれる。第二次世界大戦時に、日本軍の民間人捕虜収容所で三年を過ごす。四六年イギリスに帰国、はじめて見る「祖国」に強いカルチャーショックを受ける。四九年、大学に進学し最初は精神医学を志して解剖学、生理学、病理学を学ぶ。シュルレアリスム絵画に熱中し、小説に手を染める。五一年、コンテストに入選し学生新聞に掲載され、将来の目標を職業作家に変更。文学部に移るが、現代文学の授業がないことに失望してすぐに中退。コピーライターやセールスマンを経て、五四年にイギリス空軍入隊。飛行訓練中にSFと出会う。訓練終了後、五五年に除隊してイギリスに戻り結婚。雑誌編集者などをしながら、五六年〈サイエンス・ファンタジー〉誌に短編「プリマ・ベラドンナ」が掲載されデビュー。
やや詳しく経歴を述べたが、後に見るように、これらの経験のすべてが、バラードの作品の重要なバックグラウンドとなっている。また、さらに詳しく知りたい方は、自伝『人生の奇跡』(二〇一〇)を読まれたい。
バラードは、彼が愛してやまなかった画家ダリに似て、時代によって作風に顕著なスタイル的変化が現れる作家である。
まず第一期が、デビューから約十年。英国ニューウェーヴSFの旗手として〈ニュー・ワールズ〉誌を中心に活躍し、数多くの短編と、〈破滅三部作〉と呼ばれる『沈んだ世界』(一九六二)『燃える世界』(六四)『結晶世界』(六六)を上梓して、SF界にその名を轟かせた。
ニューウェーヴSFとは、戦後アメリカで大きく発展したSF小説が、それ以前の科学発明小説や宇宙冒険活劇から脱してなお、テクノロジー偏重、アイディア重視の明快で健全なストーリーと、個性的なキャラクターによるエンターテインメントだったのに対し、テクノロジーや人間性に対するシリアスな批判や、現代文学を意識した洗練された技法を前面に押し出した、六〇年代主にイギリスで勃興したSF界の一種の前衛文学運動である。
バラードはその中でもっとも洗練された文学性と、SFというジャンルに対する意識的な方法論を有した作家だった。五七年のロシアの人工衛星スプートニクの打ち上げ成功を機に、外宇宙への冒険は想像力の世界において真に冒険であることを終え、これからのSFは内宇宙への道を探らねばならないと宣言。エルンストやタンギーを思わせる異様に美しく変貌した世界と、その世界に適応し、破滅さえもやすやすと受け入れる人々のオブセッションを、濃密な描写力と高い構成力で描いた。ことに前述した長編『結晶世界』は、世界のすべての無機物・有機物が結晶化した永遠に凍りついた現在、という恐ろしくも美しい〈世界の終わり〉を、逃げ去った女性を追う男性主人公のオブセッションを視点の中心に据えながら、結晶化してゆくジャングルと、はるか銀河系の変容までをも視野に入れて描いた傑作である。
これらの作品の背景にあるのは、戦後の冷戦体制下での核戦争=世界の終わりのイメージだろう。放射能の影響によって変容した自然が、エコロジカルなアポカリプスのイメージとして作品化され、バラード自身の戦争(=収容所)体験が、破滅に魅惑され適応していく人間精神として反復される。バラードの作品は本質的にトラウマに似ている。
ところで、この戦後的な感性と文学的な前衛性には、世界文学的な同時代性とでもいったものがある。たとえば、フランスで文芸批評家ロラン・バルトが〈零度のエクリチュール〉の代表的な作家としたアルベール・カミュは、仏植民地であるアルジェリア出身だし、その後のヌーヴォーロマンとその周辺作家には、マダガスカル出身のクロード・シモン、戦時中にドイツ軍に徴用され戦後にはギニア、西インド諸島などの植民地を転々としたアラン・ロブ=グリエ、インドシナ出身のマルグリット・デュラスといった作家がいる。アメリカにはドイツで捕虜となり、収容所で自国の爆撃を受けたカート・ヴォネガット・ジュニア。日本でも満州出身の安部公房や、北朝鮮出身の後藤明生など、また、バラード自身がその同時代性を強く意識した発言をしている作家、戦地でアメリカ軍の捕虜となった大岡昇平がいる。みな戦争や植民地での体験によって古典的な人間性に強い懐疑を抱き、十九世紀風のオーソドックスな小説技法に積極的に揺さぶりをかけ続けた作家たちである。バラードの作品を、こうした作家たちの作品と比較してみればより理解は深まることだろう。
そして第二期。六〇年代後半から、〈濃縮小説〉と呼ばれるさらに過激な実験的短編群が発表される。それらはオーソドックスな物語記述を捨て、科学論文や実験の報告書、ニュース記事、さらにはモチーフやイメージの断片をコラージュした作品だった。第一期の作品がスプートニクをきっかけにして冷戦下の核戦争のイメージを背景にしていたように、これらの作品は、六三年のケネディ暗殺によってニュースがメディアを媒介として瞬時に伝わる情報化社会の到来をバラードが直感したのをきっかけとし、そこで日々伝えられていたベトナム戦争をはじめとする各地の代理戦争と、それらとはまったく無関係のように謳歌される、高度に発達した技術社会を背景としている。
内宇宙へ、とバラードは宣言したが、このバラードの描き出す世界はつねに内部と外部が溶け合ったメビウス的な空間であり、そこでは時間さえも通常通りには進まない。〈破滅三部作〉で、世界の終わりが環境の激変による異様な風景として描出され、その世界に生きる登場人物たちの心理状態とシンクロしていく様は、人類の無意識的な破滅への欲望そのものが世界を変容させているようにさえ読める。しかし、核による一瞬の滅亡におののく時代から、泥沼化するベトナム戦争を毎日テレビニュースでエンターテインメントのように消費する六〇年代には、この無意識と世界を人間の欲望の合わせ鏡のように捉えるバラードの眼差しが、シュルレアリスティックな終末のイメージから、ポップ・アートのように断片化する現実のコラージュによって生み出される幻惑的なイメージへと変化するのである。
現代人の生活はその隅々までが先端技術によって規定されており、それらが実現した新しい世界に合わせて、人間の生活様式も変容する。そこでバラードが注目するのが、メディアの存在だ。政治家や芸能人などの有名人が、憧れの人間のイメージとして大量に流布し、あらゆる深刻なはずの問題も、テレビのチャンネルを変えれば瞬時に違う文脈に切り替わってしまう新たな情報社会。
そこでは、人間社会のあらゆる〈問題〉が、テレビによって日常生活の風景の片隅に差し挟まれるものとなる。日々発生する交通事故による死者と、ベトナム戦争のそれとのあいだの境界は溶解し、どちらもメディアで報告される映像と数字に還元される。メディアによって憧憬を集める有名人たちを誰もがつねに意識せずにはいられず、彼らが事件や事故によって被るさまざまな〈決定的瞬間〉を、誰もが目撃したいと願っている。そこで求められているのは、もはやエモーションではなく、センセーションだけだ。科学技術によって作り出された新たな〈自然〉の風景が、メディアに媒介されたイメージと渾然となって無意識の欲望を暴走させる。
もっともこのような形式的な実験は長続きせず、戦後社会を席巻した革命への情熱が七〇年代に入って一気に沈静化していったのと同期するように、ふたたびバラードの作風は変貌する。
その第三期を代表するのが、『クラッシュ』(七三)『コンクリート・アイランド』(七四)そして本作『ハイ・ライズ』(七五)からなる〈テクノロジー三部作〉である。モチーフそのものは第二期とほぼ同じで、テクノロジーとメディアによって作られた環境によって生み出された新たな無意識の欲望だ。違っているのは表現技法である。すなわち、〈濃縮小説〉の過激な実験性が影を潜め、ふたたびオーソドックスな登場人物と物語というスタイルに回帰して書かれているのだ。他の三部作同様、モチーフやテーマに連続性があるだけで、物語はそれぞれに独立したもので、順番に、交通事故、高速道路、高層住宅を題材に、そこで生まれる常軌を逸した欲望の暴走を描く。いわば形式の実験から実験の物語へとでもいった変貌であり、それにともなって、メディアからテクノロジーへと作品の重点も移動している。
本書『ハイ・ライズ』については詳しく後述するが、三部作の劈頭(へきとう)を飾る『クラッシュ』は、第一期の『結晶世界』と並んでバラードの最高傑作と評する人も多い作品だ。
七〇年代後半に入り、資本主義が高度化して、あらゆる技術がブラックボックス化する、また経済の主体が生産から消費へと移動する。それに伴い、商品の実用的・機能的な価値から、そのメディアでの配置による「記号的価値」へと、価値の基準が移動する。いわゆる「ポストモダン」とか「後期近代」と呼ばれる時代がやってきていた。
そこでは、それまでの大衆的な表現に抵抗する尖鋭的で「モダン」な作品や、体制を撹乱する「カウンター・カルチャー」などの表現はすべてメディアの中でカタログ化され、その前衛性や過激さは、あらかじめそのように期待された「役割」としての意味しか持たない。バラードが形式的実験を書かなくなったのは、そのような時代認識があったからかもしれない。六〇年代的な「革命」の幻想は潰え、所得の分配による福祉の充実が謳われ、世界が資本主義に閉じられていったように見える時代。しかしまた一方では、ますます過激化していくテロリズムが、世界の〈外部〉をつねに意識させ続け、高度化する技術はそれに伴って事故の巨大化をもたらし、リスクという言葉が一般化する。世界はいわば不安定なままに宙づりになったのだ。〈テクノロジー三部作〉は、オーソドックスな語りの技法を用いながら、円環構造や停滞する時間が描かれるのだが、それはこういったポストモダンの時代感覚と無関係ではないだろう。
さて〈テクノロジー三部作〉のあと、それまでのバラードの作品のモチーフや特徴が、自己批評的に統合された長編『夢幻会社』(七九)を発表。また第二次世界大戦下の上海で暮らすイギリス人少年の成長を描いた自伝的長編『太陽の帝国』(八四)は、ブッカー賞候補となり、ジェイムズ・テイト・ブラック記念賞を受賞。バラードは一躍現代英国文学を代表する作家に押し上げられる。この第四期では、バラードはいわば自分自身を実験の場として新たな探究を行っていたと言えるだろう。
そして九〇年代。郊外に作られた理想的コミュニティで起こった惨劇を解明するノヴェラ『殺す』(八八)を先駆として、『コカイン・ナイト』(九六)『スーパー・カンヌ』(二〇〇〇)『千年紀の民』(〇三)の、〈病理社会の心理学三部作〉が発表される。これらの作品では、「サイコのスタイルでリメイクされたカフカ」と『コカイン・ナイト』の登場人物が自己批評的に語っているように、オーソドックスなニューロティック・スリラーやサスペンスを思わせる文体で、高度なテクノロジーと民主主義的な合意に基づく、完璧を期した管理社会を完成させる最後のピースとしての犯罪が描かれる。かつてバラードは「未来は退屈なものとなるだろう」と発言していたが、この三部作では、登場人物の役割や事件、コミュニティの性質などがほぼ同一で、反復と順列組み合わせによって語り直されるポストモダンな形式に収まっている。バラードの作品はこれまで見てきた通り、スタイルは変遷しながらもモチーフやテーマには強い反復性があり、その反復性そのものを形式的な主題とするようなこの三部作は、一種独特な読解の誘惑を感じさせるものである。第五期とでもいうべきこの時期の作品はあまり世評が高くないが、いま一度読み直されるべき謎がまだ隠されているように思える。また最後の長編Kingdom Comeの翻訳刊行も期待したい。
以上、駆け足でバラードの足跡をたどってみた。本作読解の、あるいは本書読了後の読書の参考にでもしていただければと思う。
さて本書『ハイ・ライズ』だ。
前述した通り、七〇年代後半の〈テクノロジー三部作〉の掉尾を飾る一編である。
生活のすべてに配慮した完璧な高層住宅が住人たちを狂わせる物語だが、まずこの建物自体が、建設中の都市開発計画の一部であるという設定が秀逸だ。それは川岸一マイル平方の土地に、人工湖に臨んで建つ五棟の高層住宅で構成される一種の実験都市とでもいった存在になる予定で、まず一棟だけ完成した建物に入居した人々によって起こされる事件なのである。ロンドンは川向こうに幻のように隔絶されてあり、高層住宅の周辺には何もなく、建材が整然と置かれた空地であり、整備されているのはだだっぴろい駐車場だけというひたすら孤立した閉鎖環境。登場人物は、屢々そこをまるで夢のなかのように奇妙に宙づりにされた場所として生きている。この設定は、本作が九〇年代以降のバラード作品の先駆としての意味を持っていることを表しているだろう。
そもそも初期作品からバラードは、閉鎖環境での特異なシチュエーションが人間の無意識を刺激し、世界の変容に順応しつつさらにそれを暴走させていく過程を緻密に描くことが多い。イギリス人らしく、そこにはかならずある種の階級関係が見いだされるのだが、視点人物となるのは大抵、それらのグループの利害対立から少し離れた傍観者的人物である。それが本作ではめずらしく、上層・中層・下層でそれぞれを代表する三人の視点人物が存在し、それぞれの内面と行動を記述していくことで、高層住宅の「階層関係」と、その崩壊を描き出す構成がとられている。
高層階を代表するのが建築家アンソニー・ロイヤル。彼はこの建物の設計者であり、また工事で事故にあった最初の被害者である。その後遺症から杖(知恵の象徴である)をつき、最上階に住んで文字通り全住人の頂点に立つ。下層階を代表するのはテレビ・プロデューサーのワイルダー。マッチョな肉体とジャーナリスティックな知性を兼ね備えた彼は、饒舌で精力に溢れ、高層住宅の異様さに最初に気づき、ドキュメンタリー番組の企画を立て、バリケードで封鎖された上層階に向かって階段を上りはじめる。そして中層階を代表するのが、冒頭から登場するドクター・ラングだ。彼は、前述した他のバラード作品に登場する傍観者的存在の典型的な人物として造型されている。医師だが、臨床ではなく大学で理学と解剖を教えている。離婚し、孤独を求めて既婚の姉に勧められこの住宅に入居し、進行する事態にひたすら魅惑され続ける。
これら三人の視点人物は、その性格や職業、肉体の特徴などのキャラクター付けがそれぞれきわめて明快で、いささか図式的すぎるくらいである。そしてそれぞれの人物には、性的に関係する異性がきちんと配置され、彼女らも物語の中でかなりはっきりした役割が与えられている。(一四九ページでラングの義兄がチャールズとなっているのが、二二五ページではアランに、ワイルダーの妻ヘレンが二五三ページではジューディスとなっているのは、バラードのミスなのか意図的なものなのかわからないが原書の通りである)。
物語の叙述は、すでにかなり事態が進んでいる場面が唐突に描かれ、はじまりに遡るかたちで進行する。それはきわめて円環に近い螺旋状の時空間である。登場人物たちがある役割に沿って図式的に配置されていること、叙述の時間構造が螺旋状になっていること。これらは本作が十九世紀的なリアリズム小説ではなく、より神話的な世界を描いた作品である印象を与える。イギリスの伝統でいえば、サタイアの系譜に属するといってもよいかもしれない。
そしてまたバラードは、通常の道徳的な意味での善悪を無視した、おぞましくも魅惑的なものとしてこの世界を描き出している。原始的な社会への退行は、新しい人類社会への進化と区別がつかないとでもいうかのように。その文体は、暗澹(あんたん)たる朗らかさとでもいった不思議な明るさとアイロニーに満ちていて、作品に喜劇的な彩りを添え、すべてを肯定する力強さとなって読むものを感動させ、そして自分はいったい何に感動しているのかと驚かされる。
しかしそれにしても、ゴミだらけの高層住宅の、なんと親密で居心地が良さそうなことだろう!
さて、本作は二〇一五年ベン・ウィートリー監督で映画化された。主演はハリウッド映画『マイティ・ソー』シリーズでソーの弟ロキ役で知られるトム・ヒドルストン。バラードの映画化作品と言えば、スティーブン・スピルバーグ監督の『太陽の帝国』(一九八七)、デイヴィッド・クローネンバーグ監督の『クラッシュ』(九六)と、傑作ぞろいだが、この映画もいかにもイギリス的なシニカルなブラック・ユーモアとエロティシズムに満ちた、エレガントな作品に仕上がっている。原作に強いリスペクトを感じさせる映画なので、原作ファンも「どこがどう変えられているか」などと思いながら見る楽しみがある(もちろん映画を先に見て原作を読んでも、同じように楽しめるだろう)。
最後に、この解説を書いているときに、訳者村上博基氏の訃報を知った。映画『ハイ・ライズ』の試写会で挨拶させていただいたときにはとてもお元気そうだったのに、驚きに言葉もない。アリステア・マクリーン『女王陛下のユリシーズ号』やジョン・ル・カレの諸作などの冒険小説はもちろん、個人的にはジョイス・キャロル・オーツの短編集『愛の車輪』が忘れがたい。謹んで哀悼の意を表します。
■ 渡邊利道(わたなべ・としみち)
1969年生まれ。作家・評論家。2011年、「独身者たちの宴 上田早夕里『華竜の宮』論」で第7回日本SF評論賞優秀賞を受賞。2012年、「エヌ氏」で第3回創元SF短編賞飛浩隆賞を受賞。
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