――パルタージュ partage とはフランス語で「分割」「共有」「分有」の意。
小林秀雄は〈美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない〉と書いたが、想像力というようなものはなく、あるのはただ、個々の想像だけだとも思う。
それでもなお、想像力(を分有すること)をこの文章の目的に置いて、インタビューを含む取材を始めたい。予定しているインタビュイーはそれぞれの領域の最前線におられる方たちであり、そこはまさに想像と想像力の境界線なのだから。そしてこれまで同様、これからのSFの言葉もまた、その線の上に存在するに違いない。
第22回 おそるべき対称性――南部陽一郎の卒業論文【後編】
高島 雄哉 yuya TAKASHIMA(カット=meta-a)
●これまでの高島雄哉「想像力のパルタージュ 新しいSFの言葉をさがして」を読む 【第1回】 【第2回】【第3回】【第4回】【第5回】【第6回】【第7回】【第8回】【第9回】【第10回】【第11回】【第12回】【第13回】【第14回】【第15回】【第16回】【第17回】【第18回】【第19回】【第20回】【第21回】
2008年にノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎(1921 - 2015)は、1942年の夏、東京帝国大学を卒業している。戦時中のため半年間の繰り上げ卒業だった。
前回書いたように、ぼくは昨年末ウィキペディアの〈南部陽一郎〉の項のなかに、彼が卒論をイギリスの詩人ウィリアム・ブレイク(1757 - 1827)で書いたという記載を見つけた。
ネット記事から始めた調査で、ちょうど年末年始だったこともあり、ぼくはネット上だけでどこまで調べられるかに挑戦することにした。
今回はネット検索についても色々と考える契機になった。〈Google検索〉や〈Google Scholar〉、〈CiNii〉を用いるのはネットの下調べをするときの基本だが、これを書いている4月中旬に〈CiNii〉が〈J-STAGE〉にサービスを移行してしまって、年末年始に閲覧できたファイルが今は読めなくなっている。日々サービスが生成消滅していくネットでは、調べ方はかなり流動的なものになるのだ。
とはいえネット検索そのものは今や情報収集の第一段階と言っていい。正確に言えば、ネットでも現実でも得られる情報もあれば、どちらかでしか得られない情報もある。〈南部陽一郎の卒論はウィリアム・ブレイク〉という情報は、おそらく活字化はされておらず、ネットでしか見ることのできない情報だった。
東京大学の物理学科では現在、卒業論文を書くことはなく、代わりに四年生の前期と後期に理論系と実験系の研究室に所属して論文を読んだり実験をしたりする。年末年始にかけてネット上で見つけた南部さんのエッセイには「卒業研究をした」とあった。どうやら当時も今と変わらないシステムだったようなのだ。
過去にさかのぼって東大物理学科の卒論制度を調べることにした。まとまった資料があればありがたかったのだが、そうしたものはネット上では見つからなかった。しかし一年度ずつ卒業生のことを調べていくと、大学教授になった人が多かったこともあり、有用な情報が集まっていった。ただネットでは書名や目次までしか見つからなかったものが多く、年が明けてから国会図書館等で確認した。以下お三方の調査結果を書いておく。
東京大学学生新聞会編『私の卒業論文』(同文館、1956年刊)には明治四十年1907年に理論物理学科を卒業した人が寄稿していて、もう半世紀も前のことだと前置きしつつ、「オルガン管と金管楽器の数理的理論」と題した「卒業論文」は「数十頁に渉る可なり大きな論文であった」という。
昭和八年(1933年)に帝国大学となるまえの東京大学物理学科を卒業し、大阪大学と名古屋大学で教授を勤めた伏見康治は「卒業論文というしかつめらしい制度はなかった。卒業期の論文というのはある。三年生のときに、理論と実験に分かれ、私は鳩山道夫君と組んで理論を選んだ。」と、かつて中央公論社から出ていた科学雑誌『自然』1964年1月号に書いている。ウィキペディアの〈伏見康治〉の項によれば、小松左京「物体O」に登場する三伏教授は伏見がモデルだという。
1941年時点でも卒論はなかったらしい。数学のノーベル賞と言われるフィールズ賞を日本人で初めて受賞し、スタンフォードや東大で教鞭をとった小平邦彦が――彼は1938年に帝大数学科を卒業したのち物理学科に入学しており――物理学科の「卒業研究」として素粒子物理学の論文を読んだと書いている。
ところで前回、1925年卒の中谷宇吉郎の卒業論文について言及した。ぼくがこれを知ったのは、Google Scholarで「中谷宇吉郎 卒業論文」と検索すると現在五番目あたりに出てくる雪氷研究大会講演要旨集のPDFを読んだからだ。その中に「卒業論文:飛行船の球皮の放電の研究」とあるのだが、ここしばらく中谷のエッセイを読んでいて、「寺田先生の追憶――大学卒業前後の思い出――」のなかに次の一節を見つけた。
私たちの大学時代には、東大の物理学科では、学生が三年になると、理論と実験とに分れて、実験を志望する連中は、各々その指導を願いたい先生の下で、一年間研究実験をして卒業することになっていた。
中谷の他のエッセイも読んだが、飛行船の球皮の研究にのめりこんだことは書いてあるが、この時期の文章には一言も「卒業論文」や「論文」が出てこない。仮に中谷が1925年に何かを書いていたとしても、1933年卒の伏見が言うような「卒業期の論文」であった可能性が高い。加えて、伏見は上の文中で「解答」を提出したとか「報告した」と書いていて、今で言うレポートに近いものだったと思われる。
さらに探していると、南部さんが林忠四郎先生と同窓だとわかった。林さんは天文学に原子核物理学や素粒子物理学を取り入れた研究者で、日本における宇宙物理学の第一人者と言われる。「林忠四郎 卒業」などで検索していくと、京都大学ウェブサイト内の学術情報リポジトリに「宇宙物理学事始」という林さんご本人による記事があった。
南部さんと同じクラスでございます。落合麒一郎先生のもとに、核理論と素粒子のゼミに参加したわけです。
このあと「卒業論文」についての記述はない。林さんが語る「核理論と素粒子のゼミ」は、現在でも続く研究室でのゼミのことだろう。
以上のほとんどはインターネット上に公開されている情報だ。これらをひとまず事実であると仮定すれば、南部さんはブレイクについての卒論はおろか、卒論自体を書いておらず、林さんと共に最終学年で原子核や素粒子についてのゼミをしたのだと推測できる。南部さんか林さんご自身が「卒論はなかった」と明らかに書いているものあれば、より確かな推論となるのだけれど、それは現時点まで見つかっていない。
もし卒論がなかったのなら、ウィキペディアの〈南部陽一郎の卒論はウィリアム・ブレイク〉という記載は、まったく根拠のない誤りにすぎないのだろうか。
この件の情報源はウィキペディアの注釈に書いてある。南部さんと対談したことのある人が最近書いた記事だ。対談は一九七八年。今から四十年ちかく前のことだから、多少の記憶違いはあるにしても、なぜブレイクで、なぜ卒論なのか。
もう一度「南部陽一郎 ブレイク」で検索したものの、ウィキペディアやその情報源の記事がひっかかるくらいで、それよりも深い情報にはたどりつけなかった(ちなみに、この文章を書いている時点では、同じ検索によって前回のパルタージュ記事が検索の上位に来るようになっている)。
次に日本語版ウィキペディアの〈ウィリアム・ブレイク〉の項を確認した。百字ほどにまとめてみよう。――ウィリアム・ブレイク(1757 - 1827)は詩人、画家、銅版作家。事実上のイングランド国歌のひとつ「エルサレム」は彼の詩にのちに曲がつけられたもの。彼の作品は今も多くの作品に引用され続けている。
南部さんの同僚の研究者たちが思い出を綴ったエッセイ集Memorial Volume for Y. Nambu(Brink他編、World Scientific Pub Co Inc,2016)の第十一章にもエピグラフとして、ブレイクの代表作のひとつ「Auguries of Innocence(無垢の予兆)」の冒頭の一連が引用されている。日本語は拙訳だ。
To see a World in a grain of sand,(一粒の砂に世界を見るために)
And a Heaven in a wild flower,(一輪の花に天国を見るために)
Hold Infinity in the palm of your hand,(手のひらのなかに無限を)
And Eternity in an hour.(一瞬のなかに永遠をつかまえて)

ミステリ、SF、ファンタジー、ホラーのWebマガジン|Webミステリーズ!