――パルタージュ partage とはフランス語で「分割」「共有」「分有」の意。
小林秀雄は〈美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない〉と書いたが、想像力というようなものはなく、あるのはただ、個々の想像だけだとも思う。
それでもなお、想像力(を分有すること)をこの文章の目的に置いて、インタビューを含む取材を始めたい。予定しているインタビュイーはそれぞれの領域の最前線におられる方たちであり、そこはまさに想像と想像力の境界線なのだから。そしてこれまで同様、これからのSFの言葉もまた、その線の上に存在するに違いない。
第17回 極小の世界からコンピュータを作り出す――理化学研究所より【後編】
高島 雄哉 yuya TAKASHIMA(量子ドット写真=大塚朋廣さん提供、他写真は著者撮影)
●これまでの高島雄哉「想像力のパルタージュ 新しいSFの言葉をさがして」を読む 【第1回】 【第2回】【第3回】【第4回】【第5回】【第6回】【第7回】【第8回】【第9回】【第10回】【第11回】【第12回】【第13回】【第14回】【第15回】【第16回】】【第17回】
今回インタビューした理化学研究所の大塚朋廣さんたちのグループが、量子コンピュータに実装可能な〈忠実度〉の量子ドットを実現したとのニュースが発表された。〈忠実度fidelity〉とは、理想的な性能をどれだけ示しているかの指数であり、オーディオ機器でHi-Fi(ハイファイHigh Fidelity)というと元の音や映像を高い精度で再現しているものを指す。今回のニュースについて、お忙しいなか大塚さんからコメントをいただいた。
「既存の半導体技術を活用した量子コンピュータの実現へ繋がる研究です。引き続き頑張りますので、よろしくお願いいたします」
この文章が読まれているコンピュータは〈古典コンピュータ〉に違いない。そして量子力学の特性を利用した〈量子コンピュータ〉は、実現のほんの数歩前の段階にある。
ミクロの世界を支配する量子力学のなかでも〈重ね合わせの原理〉と〈量子エンタングルメント〉を用いた量子アルゴリズムは、量子コンピュータでなければ物理的に実行できない。情報の表現の仕方からして両者は根本的に異なっている。古典コンピュータの〈古典ビット〉では情報は0か1のどちらかでしか表現できない。ところが量子ビットは0と1を重ね合わせたままの情報――量子情報を扱うことによって、〈量子アルゴリズム〉が有効な問題については古典コンピュータを遥かに超えた速度の計算ができるのだ。
いま世界中で〈量子ビット〉というアイデアを物理的に実現しようという研究が進んでいて、理化学研究所の大塚さんたちは〈量子ドット〉によって非常に高性能の量子ビットを作ることに成功した。高性能というのは、外部からの雑音に強く、操作に対して素早い応答をするということだ。
量子ドットは金属の細線で作った三次元の微小空間に一個の電子を閉じ込めたものだ。周囲の細線の電圧などを変えることで、電子の量子状態を操作することができる。その操作可能性こそは量子計算にとって不可欠のものなのだ。
この〈量子ドット〉だが、量子コンピュータの量子ドットとして用いられる以外に、他の量子ドットの状態を探るセンサーとしても用いられる。
上の写真は量子ドットを含む回路図の電子顕微鏡だ。電子顕微鏡は光の代わりに電子を使った顕微鏡だから、量子ドット内の電子一個を見ることはできない。写真の上二つの●はセンサー用の量子ドットが、下の四つの◎は量子ビット用の量子ドットが形成されている位置を示している。
電子の質量は9.1×10^-31キログラム。人間的なスケールから30桁以上も離れている。宇宙の果てとはまったく別の意味で、ぼくたちから遠い世界の話のように思えてくる。しかし、大塚さんは埼玉県和光市の理化学研究所にいて、日々研究を続けている。
「いたって普通の毎日ですよ」
そのように大塚さんはさらりと言う。とはいえ、量子ドットを作り出す理化学研究所の日々は、とてもとても普通とはいえない。研究はぼくたちと未知とのあいだの〈距離〉を縮めてくれるものだが、同時に研究それ自体もぼくたちにとっては未知なるものだ。
前編では主に大塚さんの研究内容をうかがった。今回の後編では研究行為について取材していこう。
大塚朋廣さんは、ぼくの物理学科時代の友人に紹介してもらった。ぼくの友人が大塚さんと同じ大学院の研究室で研究をしていたのだ。
ぼくが東京芸術大学に通いながら小説を書いていた頃、友人は大学院に毎日泊まり込んでいた。六時間おきに実験装置を調整するためだ。
それは彼がしていた実験の内容や装置の構造上しかたなかったのだが、逆に言えば六時間のあいだは装置が勝手に実験してくれているということでもある。実験は温度や圧力などの条件を少しずつ変えながら何十回何百回と繰り返される。かつては人間がそれらの条件をいちいち調整していたのだが、今では実験装置が自動的に条件を変化させて観測までしてくれるというわけだ。
自動化できる時間は実験ごとに大きく異なる。宇宙物理関連であれば何ヶ月も何年も実験装置だけで観測がつづくことも多い。そしてそのあいだの装置の操作はプログラミングによって細かく制御される。
ぼくの友人は学部生のときからプログラミングが得意だったが、大学院に入ってますます鍛えられたという。
「実験ではプログラミングは必須になっています。私たちの研究室の院生も今がんばっていますよ」
実験で得られた電子データは自動的に記録され、リアルタイムでグループに共有される。
「AIでデータを解析しようというグループも海外にはいます」
人間では気づかない特徴的なデータをAIに探させようというわけだ。大塚さんたちも取り入れようかと考えているという。
大塚さんはこれまでいくつかの研究所に所属していて、量子力学のメッカであるコペンハーゲンでも研究していた。ミクロの世界の〈量子状態〉は複数の状態が重ね合わせられているのだが、しかし人間が観測できるのはそのうち一つだけ、というのが現代の量子力学の基本的な考え方、〈コペンハーゲン解釈〉だ。コペンハーゲン解釈では、観測されなかった残りの状態について何も語ろうとしない。観測できないものについてあれこれ考えてもしかたないという合理的な判断と言えるかもしれない。
一方、〈コペンハーゲン解釈〉に対し、複数の状態は並存していて、観測されるたびに世界が分岐して、そのうちの一つに観測者が所属すると考える〈多世界解釈〉がある。多世界解釈は壮大な仮定ではあるが、論理的な整合性は持っているため、物理学者のなかにファンは多い。とはいえ、実質的にはコペンハーゲン解釈で計算上の不都合は生じないため、大学の量子力学の講義は基本的にコペンハーゲン解釈で進み、多世界解釈は簡単に紹介されるだけだ。
コペンハーゲンの研究所では、人がフレンドリーでオープンマインドで、いろんな国の研究者、学生が仲良く一緒に研究していたという。ヨーロッパらしく自転車が広く使われていて、みんな他の交通手段よりも自転車を信じているフシがある。
デンマークの冬は寒く、すぐ暗くなって、雪も積もる。香川県出身の大塚さんはデンマークで初めてブーツを履いたという。
研究室と実験室につづいて、別棟の一階にあるクリーンルームを見学させてもらうことになった。理研のいろいろなグループが使っている共用の施設だ。
大塚さんたちのグループはクリーンルームで〈量子ドット〉を作っている。〈量子ドット〉は半導体の表面上に、金属の細線で取り囲んだ領域として形成される。金属細線も〈量子ドット〉の領域も、数十から数百ナノメートルという極めて微小なサイズだ。わずかなほこりも許されない。
事務室で見学の許可を得て、ぼくも専用の作業服に着替える。初体験だったから、大塚さんに着方を細かくレクチャーしてもらった。
まず帽子を被って髪を隠す。それから首元まで隠れる一体型の服をまとって、帽子の後ろの垂れを内側に入れながらチャックを閉める。マスクをかけて、専用の靴を履き、手袋をすれば準備完了だ。
中にデジタルカメラを持って入る前に、ストラップを外すように言われた。繊維系のゴミがクリーンルームの一番の大敵なのだという。
それから入り口にある小さなスペースに入った。ぼくたち二人が立って少し窮屈なくらいだ。入ってきたドアを閉め、左右の壁からのエアーシャワーを浴びる。作業服の上からでも感じられるほどの風圧だ。壁に頭上から足元まで多くの孔が開いていて、そこからエアーが吹き出ているのだ。カメラにもしっかりエアーをあてる。
クリーンルーム全体は広めの体育館ほどもあった。なかには屋根付きの十畳ほどのスペースが四つあって、それぞれ化学薬品を使ったり電子顕微鏡用だったりと用途ごとに使い分けられている。
ぼくたちは〈量子ドット〉を作る工程順に巡っていった。まずは金属細線を配置するための基盤となる半導体表面を洗浄する。大きさは10mm*10mm*0.5mmほど。劇薬を用いるので、化学薬品用のブースのあるスペースが使われる。半導体表面の酸化膜(二酸化ケイ素)――出荷時から自然に形成されてしまう《錆》――をフッ化水素で溶かすのだ。フッ化水素は皮膚から簡単に吸収されて、体内のカルシウムと化合して蛍石(ほたるいし、CaF2)という鉱物を形成する。蛍石は激痛を引き起こす。なので大塚さんたちのグループではフッ化水素を使うときは完全防備はもちろんのこと、必ず二人一組になって互いの安全を確認しながら作業することにしている。スペースの奥には緊急洗浄用のシャワーが設置されている。幸い、大塚さんたちのグループでは、三年前に研究室を立ち上げて以来、一度も使ったことはないとのことだった。
つづいて半導体表面に回路図を描くため、まずイエロールームに入る。紫外線に反応する感光剤を用いるから、照明や窓に紫外線を遮断する黄色いフィルムが貼られているのだ。半導体一面に感光剤を塗り、回路図のパターンの覆いをしてから紫外線を当てると、紫外線が当たった部分の感光剤だけが固化する。残りの部分の感光剤を洗い流すと、半導体表面に感光剤で回路図が描かれることになる。そして感光剤で保護されていない表面を化学的に腐食させたり、イオンなどで物理的に削ったりして、実際の回路の凹凸を作っていく。
ここからさらに微細な回路図を描き込んでいく。クリーンルームの一番奥には電子線描画装置用のスペースがある。ナノメートル以下に絞り込めるほどの高エネルギーを電子に与えるため、十万ボルト以上の高電圧が装置にはかかる。緊急停止用ボタンがあり、それは人が感電した場合などに装置を破壊してでも電圧を一気に落とすためのものだという。初めに充分な研修を受けるとのことで、こちらのボタンもこれまで使われたことはない。
使っている装置は現代物理学の最先端技術が用いられているが、装置の操作は思った以上に人の手によって進められていた。もう少し自動化されているのかと勝手に想像していたのだけれど、思えばぼくが訪ねた理化学研究所はまだ世界の誰も見たことのないものを見つけようとしているのだ。初めて試みられる実験の過程が自動化されるはずもない。
さて、クリーンルームで作られた〈量子ドット〉は、最終的には周囲に電極がついた半導体のチップのようなものとして小さなケースのスポンジの上に数個並べられて、慎重に理研本館地下にある実験室に運ばれる。ひとつひとつは1mm*1mm*0.5mmほど。そのうち〈量子ドット〉部分の大きさは100nm~1μm四方で、その他の部分はほとんど電気配線だ。
一旦〈量子ドット〉ができても安心はできない。落とせば衝撃で壊れてしまうのはもちろん、気づかないほどの静電気でも細線は溶けてしまう。
本館に戻り、大塚さんの実験室を見学させてもらった。
実験室には静電気防止スプレーがいくつも立っていた。作業用テーブルには、アースされたコードに結ばれている静電気防止用の金属製のバンドが備え付けられている。〈量子ドット〉を扱う際にはずっとバンドを手首にはめておくのだという。
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