――パルタージュ partage とはフランス語で「分割」「共有」「分有」の意。
小林秀雄は〈美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない〉と書いたが、想像力というようなものはなく、あるのはただ、個々の想像だけだとも思う。
それでもなお、想像力(を分有すること)をこの文章の目的に置いて、インタビューを含む取材を始めたい。予定しているインタビュイーはそれぞれの領域の最前線におられる方たちであり、そこはまさに想像と想像力の境界線なのだから。そしてこれまで同様、これからのSFの言葉もまた、その線の上に存在するに違いない。
第15回 サイボーグ化する世界で――理論編【前編】
高島 雄哉 yuya TAKASHIMA(写真=著者/カット=meta-a)
●これまでの高島雄哉「想像力のパルタージュ 新しいSFの言葉をさがして」を読む 【第1回】 【第2回】【第3回】【第4回】【第5回】【第6回】【第7回】【第8回】【第9回】【第10回】【第11回】【第12回】【第13回】【第14回】
ぼくは何かを書くときいつも事前にテーマに即した哲学書を読む。なぜ哲学書なのかといえば、それはぼくが哲学を信頼していて――あるいは端的に好きで――できるかぎり哲学的な最前線にたどり着いておきたいからだ。ならばということで、ずっと考えていたことではあったのだけれど、今回は哲学者ご本人にインタビューすることにした。
これまで読んできた哲学書の著者から探し始めて、存命で日本にいる研究者という条件で絞っても何十人といたのだけれど、今このタイミングで取材したいと真っ先に思ったのは、今回お願いした早稲田大学の高橋透(たかはし・とおる)教授だった。
今年はVR(virtual reality仮想現実)元年と言われていて、AR(augumeted reality拡張現実)、SR(substitutional reality代替現実)、MR(mixed reality複合現実)などの名称と共に、現実世界と情報空間の隔たりを〈越境〉するかのような体験のできる技術が次々と発表されており、それらを体験する機会も増えている。今年はまたGoogleの人工知能「アルファ碁」が、現在史上最強とされているイ・セドル棋士を四勝一敗で破るなど、AI研究もますます盛んだ。多くの職業がAIに奪われるという危惧も含めて、人間の存在の仕方についての認識を改めるときが来ているのかもしれない。
今ぼくたち人間にとって、外側たる世界も、内側たる知性も、大きく変わろうとしているのだ。かつては科学技術によって――負傷や疾病などの様々な事情に合わせて――人体を補綴(ほてつ)することがサイボーグ化と呼ばれていたが、今やぼくたちは世界と一体となって自らを拡張してサイボーグになろうとしていると言って良い。
高橋先生はサイボーグに関する哲学を研究していて、『サイボーグ・エシックス』『サイボーグ・フィロソフィー』などの著書と、ダナ・ハラウェイ『サイボーグ・ダイアローグ』などの訳書がある。ハラウェイはアメリカのサイボーグ研究者で、押井守監督のアニメ映画『イノセンス』冒頭には同じ名の技官が登場する。
ぼくはサイボーグ化していくこの世界をどのように見ればいいのか、あるいはもっと直截に、サイボーグ化する世界でどう生きていけばいいのかをうかがおうと考えたのだけれど、お話はぼくの想像を超えて哲学的な方向に進んでいった。
とはいえ、ひとまずサイボーグについて概観するために、インタビュー前にぼくが勉強したことをまとめておく。
まずサイボーグcyborgという言葉は、1960年にアメリカの病院に勤める二人の研究者が書いた論文「サイボーグと宇宙」“cyborgs and space”(http://web.mit.edu/digitalapollo/Documents/Chapter1/cyborgs.pdf)において初めて示された。論文のタイトルに「宇宙」とあるように、宇宙旅行に伴う多くの困難は人体をサイボーグ化することで解決しうるといった論旨になっている。
For the exogenously extended organizational complex functioning as an integrated homeostatic system unconsciously, we propose the term “Cyborg.”(無意識下の統合的恒常システムとして外的に拡張された組織的な複合機能に対して、我々は “サイボーグ”という用語を提案する。――“cyborgs and space”より拙訳)
ここで「無意識下」というのは、サイボーグが何らかの操作を必要とするような装置ではなく、身体の一部として拡張された「機能」であることを示している。ただでさえ忙しいであろう宇宙空間で、自らの身体をわざわざ意識的に調整しなくて済むように、ということだ。
サイボーグはCYBernetic ORGanismの二単語の頭三文字を繋げたものだが、サイバネティクス(cybernetics)というのは、アメリカの数学者ノーバート・ウィーナー(1894―1964)が創始した科学に由来する。ウィーナーはその名も『サイバネティクス』という本を著しており、その副題である「動物と機械における制御と通信」こそがサイバネティクスの定義となっている。
制御と通信のためには情報技術の発展が不可欠だ。彼は第二次世界大戦中に対空兵器の研究をしており、サイバネティクスはそれをきっかけに考えられたものらしい。サイバネティクスは非常に広範な学際領域で、現在の情報技術に多大な影響を与えている。
よってサイボーグとは、サイバネティクス的に――生物と機械を情報技術によって――統合あるいは拡張した有機体organism、ということになるだろう。
それぞれの環境や状況から取り出した情報を元に、自らの身体を拡張ないしは補綴することは古代から行われてきた。
長い歴史があるためか、サイボーグという言葉の適用範囲は広く、そして曖昧だ。
メガネをかけているだけでも――視力という情報を元にレンズの度数が選ばれているのだから――サイボーグと言えなくもないだろうし、その一方でDNA情報を書き換えた遺伝子組み換え作物をサイボーグとする見方もある。AIやVRに関する情報技術も、今後サイボーグに転用されていくだろう。
ぼくがまず高橋先生にうかがったのは――つまり最もうかがいたかったのは――こうしたサイボーグ化の行き着く先についてだった。サイボーグ化が進む世界のなかで人間はどのように生きていけばいいのだろうか。
お話は早稲田大学の一室でうかがった。昼過ぎで、駅から大学までの道はにぎわっていたが、キャンパス内は読書をする学生たちが多く、静寂さが広がっている。
高橋先生は早稲田大学の文化構想学部に所属されている。かつてあった第一文学部と第二文学部が2007年に文学部と文化構想学部に再編された。文学部では専門性を重視するの対して、文化構想学部では様々な人文科学を学際的に横断しながら学んでいくという。
先生は第一文学部から大学院にかけてドイツ文学を専攻していて、ニーチェやハイデガーといった著名な哲学者についての論文を書かれていたという。サイボーグの哲学を始めたきっかけとなったのは学生時代から読み進めていたフランスの哲学者ジャック・デリダ(1930―2004)だった。デリダは〈他者性〉の問題を――たとえば西洋にとっての他者であるイスラム圏とどのように関わっていけばいいのかなどを――哲学的な観点から論じている。
高橋先生はデリダ研究を進める中で、イギリスのサイバネティクス研究者ケヴィン・ワーウィクKevin Warwichのドキュメンタリ番組を見る機会があったという。彼は百個の電極を自らの腕の正中神経に埋め込み、インターネットを介して神経の電気信号を送って人工の腕を遠隔操作したり、逆に人工の腕からの信号によって自分の腕が遠隔操作されたりといった、自己をサイボーグにする実験を繰り返しており、プロトタイプのサイボーグであると自称している。
「その頃から人間にとっての究極の他者とは何かと自問していって、それは動物と機械だろうと思ったんですね。デリダの議論のなかにも動物と機械の問題はきちんと組み込まれた部分はあるんですが、どちらかというと人間同士の他者性について論じる部分が多くて、ぼくとしてはもっと動物と機械あるいは自然とテクノロジーのほうに考えを広げてみたいと思ったんです。十五年くらい前になりますね」
哲学的な〈他者〉とは、単なる他人の意味ではなく、決して理解できない存在者のことだ。理解ができないのだから言い表すこともできない。永遠に〈表象不可能〉なもの、それが〈他者〉なのだ。
過去の哲学は「~とは何か」という問いによって本質を追求してきたが、ニーチェが『善悪の彼岸』の副題を「未来の哲学の序曲」としたように、ニーチェ以降の哲学では固定された本質などは問わず、絶えず変化していく未来について「~は何になろうとしているのか」と問う。
高橋先生の考える〈サイボーグ〉は人間と機械のハイブリッドというような定義に留まらない。サイボーグは「技術の発展に合わせて変容を続ける、〈未規定性〉を本性とした未来的存在」なのだ。未来に本質はなく、規定しようとしても、そもそも未だ来ていない。そのような〈未規定性〉こそがサイボーグなのだ。
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