――パルタージュ partage とはフランス語で「分割」「共有」「分有」の意。
 小林秀雄は〈美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない〉と書いたが、想像力というようなものはなく、あるのはただ、個々の想像だけだとも思う。
 それでもなお、想像力(を分有すること)をこの文章の目的に置いて、インタビューを含む取材を始めたい。予定しているインタビュイーはそれぞれの領域の最前線におられる方たちであり、そこはまさに想像と想像力の境界線なのだから。そしてこれまで同様、これからのSFの言葉もまた、その線の上に存在するに違いない。


『想像力のパルタージュ 新しいSFの言葉をさがして』
第11回 おみくじをひくまえに――古典文学研究の現場から【後編】

高島 雄哉 
yuya TAKASHIMA(写真=著者/カット=meta-a)

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 新春に新しいことを始めるのとはいささか違うのだけれど、高校では結構マジメに読んでいた〈古典〉を今は読まないでいることが時々妙に気になって今年こそは読んでみようと思ったりする。
 七年ほど前のことだ。「鴨長明のあたたかさ」というタイトルだけを思いついて、いきなり本文を書き始めた。案の定すぐに行き詰まって、困ったぼくは岩波文庫の『方丈記』を手に取ったのだが、十数年ぶりの古典の読書体験はとても心地よいものだった。それはもちろん優れて音楽的な文体によるところが大きかったのだろう。

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

 方丈とは一丈四方のことだ。一丈はおよそ三メートルだから3×3=9平方メートルで、一畳はおよそ1.6平方メートルだから、方丈は六畳間より少し小さいくらいの広さになる。読み進めるにつれ、『方丈記』は隠遁した鴨長明による無常観に満ちた人生論だというぼくのそれまでの理解がひどく中途半端なものだったことに気づいた。引用した冒頭の二行目にもあるように、そしてそもそも題名にもあるように、これは〈すみか〉についての論考――住居論であり、建築論だったのだ。冒頭以降、長明は大火に竜巻そして地震という〈すみか〉が失われていく記述を続け、半ばを過ぎてようやく方丈のことを書いていく。簡潔にまとめれば、この世は無常だから方丈の家でひとりで生きていけば十分だという主張なのだが、長明は最後に自分の考えに疑問を抱きながら筆を措く。

――静かなる曉、このことわりを思ひつゞけて、みづから心に問ひていはく、世をのがれて山林にまじはるは、心ををさめて道を行はんとなり。しかるを汝、姿は聖人にて、心は濁りに染(し)めり。すみかはすなわち淨名居士(じょうみょうこじ)の跡をけがせりといへども、たもつ所はわづかに周梨槃特(しゅりはんどく)が行ひにだに及ばず。もしこれ貧賤の報(ほう)のみづからなやますか、はたまた妄心のいたりて狂(きょう)せるか、その時こゝろ更に答ふることなし。(中略)時に建暦の二年、彌生のつごもりごろ、桑門(そうもん)の蓮胤(れんいん)、外山の庵にしてこれを記す。

 在家で仏道修業をする男性のことを居士といい、出家すると沙門や桑門と呼ばれる。鴨長明は出家して蓮胤と名乗っていた。淨名は維摩(ゆいま)の別称で、在俗の身でありながら、文殊菩薩と対等以上に議論したことなどで知られる、聡明な仏弟子だ。長明はこの維摩に敵わないのはもちろん、自分の名前も覚えられずに仏弟子のなかで最も愚かと言われた周梨槃特にすらも自分は遠く及ばないのだと言う。
 結局、『方丈記』を読み終えてから完成させたぼくの小説は例によって純文学の新人賞に送ったものの、一次で落選してしまった。それに懲りたわけではまったくないのだけれど、最近はまたも古典から離れている。とはいえ、頑張れば読める文章を――しかもきっと面白い文章を――読まないままでいるというのは、とても惜しいことだ。
 古典をあらためて読み始めるときのコツを、日本古典文学を研究されている成蹊大学文学部日本文学科の平野多恵(ひらの・たえ)先生にうかがった。
 まず初めに選ぶべき作品は、読み通しやすい短いものから。鎌倉時代以降のものが現代人には読みやすいという。偶然だが『方丈記』はこの二つの条件を満たしていて、確かにほとんど注を参照しなくてもどうにか読み通すことができた。他には説話――鎌倉時代なら『宇治拾遺物語』など――や、室町時代以降に書かれた短編である御伽草子――「一寸法師」「鉢かづき」など――がオススメだ。
 また文庫も手軽でいいけれど、原文を中央にして同じページの上下に注と現代語訳があるような全集で読み進めるほうが、深く味わいながら読むことができる。
 平野先生は〈おみくじ〉に書かれた和歌であれば学生たちが興味を持ちやすいと考えたのをきっかけに、おみくじの文化史についても研究している。成蹊大学の文化祭である欅祭(けやきさい)では、平野ゼミの学生たちによる占いの実演と展示の企画〈安倍晴明の歌占(うたうら)〉があり、ぼくは妻といっしょにお邪魔した。平野先生は毎年、自らのテーマを設定していて、2015年は〈応援〉がテーマとのことで、文化祭でも学生による占いを大いに応援されていた。
 先生は〈アクティブ・ラーニング〉という、実践的な活動を通じた学び方についても研究している。能動的〈学修〉と訳されるアクティブ・ラーニングは、座学で知識を教授されるだけの〈学習〉とは大きく異なる。今回の歌占企画では、来場者は学生の説明を受けながら、実際に江戸時代の歌占を体験できた。学生は占いや展示の準備をしながら主体的に学べただろうし、来場者からの突拍子もない質問に答えるといった、授業ではありえない経験は卒業後にも役立つだろう。ぼくが小説を書くために『方丈記』を読んだのも広義のアクティブ・ラーニングだと言えるのかもしれない。
 さて、歌占というのは和歌を使った占いのことだ。元々は巫女が神意を伝えるときに和歌を詠んでいたのだが、次第に詠まれる歌が定まっていって、それらの歌から一首を選ぶ方式になったという。
 占いが人智を超えたものとの連絡だとすると、その連絡手段に和歌が選ばれるのは理由のないことではない。『古今和歌集』の序文によると素戔嗚尊(すさのおのみこと)が初めて三十一文字で和歌を詠んだとある。和歌はそもそも神の言葉であり、だからこそ和歌はおみくじに書かれているのだ。
 室町時代の猿楽師である世阿弥の長男の観世元雅(かんぜ・もとまさ)が、その名も「歌占」という能の作品を残している。作中、巫者がもつ弓の弦に短冊型の籤がいくつか結ばれていて、占いたい人がその一つを引き、そこに書かれた和歌で運勢を占う。和歌の多くは『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』などの古歌で、その他に独自の歌もあったという。
 さらに江戸時代になると出版が盛んになり、占いの流行とあいまって、室町時代に行われていた籤形式の歌占が本にまとめられていく。また小倉百人一首も当時流行していて、同じ籤形式の歌占本として出版されている。
 今回の文化祭で使われた『晴明歌占』は、安倍晴明の名を冠しているものの、彼が詠んだ歌が使われているわけではなく、題名と序文に少し登場するだけなのだ。それなのになぜ晴明なのかと言えば、当時も今のように安倍晴明は平安時代の陰陽師として広く知られていたからだ。占いには時代ごとに影響力のあったものが柔軟に取り入れられる。江戸時代には晴明以外にも菅原道真や弘法大師などの和歌占いが作られたという。
 今回の文化祭の実演で用いられた『晴明歌占』には、他の多くの歌占本と同じように、易の六十四卦と同じ六十四首の歌が収録されている。歌にはそれぞれ一一一番から四四四番まで――4×4×4=64で六十四個の――三桁の番号が割り振られていて、挿絵つきの解説と共にそれぞれ一ページごとにまとめられている。
 歌占本の占い方は、易に比べると簡単ではあるが、作法はきちんとある。文化祭では学生たちが随時教えてくれた。
 まず精神集中の呪い(まじない)として呪歌(じゅか)を唱える。占いはただ漠然とするものではなく、自らの占いたいことを考えてから占うのだった。
 それから、一から四が書かれた籤を三度引き――文化祭では四面体のサイコロを三回振って――三桁の番号が決まると、対応するページの歌と解説を読んで運勢を占う。当日は、和歌の意味などわからないことがあれば学生たちから丁寧な解説を聞くことができた。『晴明歌占』は伝本が少ないとのことで、ぼくと妻は大変貴重な体験をしたのだった。

classic.jpg  研究室では『晴明歌占』など、多くの貴重な資料を見せていただいた。
 変体仮名が崩し字で書かれている。変体仮名とは、いま用いられている平仮名に漢字で当て字をして、さらに崩したものだ。一つの平仮名に対して、当て字の漢字は複数ある。たとえば「そ」は、「曽」「楚」「所」などを崩した文字で表記される。蕎麦店の看板で見かけるのは「楚」の崩し字だ。読むためにはまず元の漢字を知らなければならない。ぼくも東京芸術大学で『源氏物語絵巻』『竹取物語絵巻』などの絵巻物を読む授業で変体仮名を少しだけ勉強したけれど、すらすらと読めるようになるには日々のトレーニングが必須で、小説を書いてばかりいた当時のぼくは早々に挫折してしまった。
「文学研究の基礎には、原本を活字にする〈翻刻(ほんこく)〉という地味な作業があります。土ならしのようなものですね。読んで、ひたすらパソコンに打ち込んでいきます」
 古文書は無数にあって、データ化されていないものは多い。翻刻は実証研究にとって必須の第一歩なのだ。
 平野先生がおみくじの研究を始めたのは十年ほど前だ。
 おみくじは漢字で「御神籤」や「御仏籤」と書く。つまりおみくじとは、神や仏にお伺いを立てた上で籤を引いて――籤という偶然性を生じさせる仕組みによって人為を超えて神慮を導入し――籤に書かれた内容をお告げとして受け取る占いなのだ。
 だから――それぞれの寺社によって方針はまちまちだけれど――おみくじは神仏からのありがたい御言葉なのだから、吉凶によらず謹んで持ち帰って、折に触れて読み直すのが基本なのだ。
 ちなみに『古事記』などによると、高天原(たかまがはら)に住まう神々も占いをしていて興味深い。伊耶那岐(いざなぎ)と伊耶那美(いざなみ)が国生みのときに初め上手くいかず、高天原(たかまがはら)の神に相談したところ、天神(あまつかみ)は太占(ふとまに)をして伊耶那岐たちにアドバイスをする。太占とは、鹿の肩甲骨を焼いて生じた割れ目の形から運勢を読み取る占いだ。また、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸(あまのいわと)に隠れたとき、思兼神(おもいかねのかみ)が考えた案でうまくいくかどうかも太占で占われている。
 さて、この肝心のお告げの言葉がどう書かれているかで大きく三つ、和歌が書かれたもの、漢詩が書かれたもの、そしてそれ以外――たとえば石清水八幡宮のおみくじの凶には「清く/明(あか)く/直(なお)く/正しく」と短くお告げが書かれている――に分類できる。
 おみくじの最近の傾向として、十二支や七福神などの小さな人形のなかにおみくじの紙が入った「立体みくじ」が増えているのだという(「立体みくじ」は平野先生による暫定的な造語だ)。
 一方で、和歌が書かれたおみくじは減りつつあるという。
「わからないものはどんどんなくなっていくんです」
 と先生は指摘する。
 わからないものがなくなっていく例として、南宋時代の中国の占いの本である『天竺霊籤(てんじくれいせん)』と、それが江戸時代に『元三大師御籤(がんざんだいしみくじ)』として訳され大流行したという本を見せていただいた。元の挿絵には多くの鹿が描かれているのだが、邦訳書の挿絵には鹿がまったくいない。実は「鹿」は中国語でlù(ルー)と読み、同じ発音の「禄」を暗示している、掛詞のようなものなのだが、それを知らなかった当時の翻訳者は、鹿を削ってしまったのだ。
 和歌や鹿の絵がなくなっていく一方で「立体みくじ」が増えているのも、わかりにくさの問題であるような気もする。人形の立体感や表面の手触りはきわめて直接的で、そもそも読解するようなものではない。
 占いには――言語的な理解に先立って――籤を引いたり、折りたたまれた小さな紙を開いたりといった様々な非言語的行為の段階がある。何かを占おうとする人々は〈意味〉よりも先に様々な〈感触〉に出会う。立体みくじは、人形内から取り出すという動作が付け加わっているという点で、おみくじよりも〈感触〉を強化した占いなのだ。
 あるいは、易者が筮竹(ぜいちく)を選り分け、占い師が水晶玉に手をかざしたりタロットカードを並べたりするのも、不可視のものを〈可視化〉し、偶然性を〈可触化〉しようとする試みであるようにも思えてくる。
 そして以前は和歌の読解も、多くの人にとって、今よりも遥かに身近で身体的な行為だったはずなのだ。ぼくたちが――かつてのように――確かな感触を持ちながら和歌を読み取れるようになれば、おみくじから和歌が消えてしまうようなことにはならないだろう。
 過去にも社会情勢によっておみくじの傾向が変わったことがある。江戸時代に流行した中国伝来の元三大師みくじは五文字四行の五言絶句の漢詩が書かれているものだが、明治政府による神仏分離政策が進むにつれ、特に神社で和歌みくじが増えていったという。
 いつの世も、和歌は――そしてすべての文学は――あらゆる人間的な営為に関係している。
 平野先生は鎌倉時代の僧侶〈明恵〉の研究を進め、和歌と宗教の関係を調べている。
「蓄積はまだまだ足りませんが、〈和歌とは何か〉を自分なりの切り口で明らかにできればと思います」
 ここでの〈蓄積〉とは、関連すると思われる周辺資料を集めていって、それらを一つ一つ翻刻したうえで丹念に読んでいくといった調査的な研究段階のことだ。
 パズルのピースが増えていけば、いずれ〈全体像〉が見えてくる。点と点をつないで線にして、線を並行移動して面にして――新しい世界が見えてくる。
 そして知らないことを〈幻視〉あるいは〈予知〉するためには――逆説的にも思えるけれど――あらかじめ多くのことを知る必要があるのだった。何かに出会って、これは〈未知〉だと判断するとき、ぼくたちは判断基準に〈既知〉の知識を用いている。自らの未来を占うためには、自らの過去に向き合わねばならない。
 これは前々回、駒場寮で同室だった僧侶の小池龍之介くんと話した、〈諸行無常の事実〉にも通じる話じゃないだろうか。未知はいずれ既知になるだろうし、既知も実は未知だったと判明することだってある。現実と可能性のあいだで、真相は幻のように現れては消える。未来と過去は、多くの物理学の方程式においては、単に時間変数が〈t〉か〈-t〉かの違いにすぎない。ぼくたちは時間を超えて、〈パラレルワールド〉全体を見なければならないのだ。
 だから、おみくじや易は〈パラレルワールド〉の地図と言ってもいいかもしれない。現実があって、これから起こりうる世界が複数あって、そしてぼくたちがどこにいるのかを示す、そういう地図だ。
 地図を〈読む〉ためには、自らの位置と目印となる地点をいくつか、正しく認識しておく必要がある。でなければ方向もわからないし、目的地にたどり着けるはずもない。〈幻視〉を確実なものにするためには、ピースを一つ一つ手にとって確かめていくしかないのだ。
(2016年2月5日)



■ 高島 雄哉(たかしま・ゆうや)
1977年山口県宇部市生まれ。徳山市(現・周南市)育ち。東京都杉並区在住。東京大学理学部物理学科卒、東京藝術大学美術学部芸術学科卒。2014年、「ランドスケープと夏の定理」で第5回創元SF短編賞を受賞(門田充宏「風牙」と同時受賞)。同作は〈ミステリーズ!〉vol.66に掲載され、短編1編のみの電子書籍としても販売されている。





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