つい先日の梅雨の晴れ間、今回のインタビュー前に取材させていただいた一龍斎貞水先生の講談は『鏡ヶ池操松陰(かがみがいけ・みさおのまつかげ)』より「江島屋怪談」という〈立体怪談〉の演目だった。
貞水先生は高座に上がって五年目の一九六〇年頃から、この〈立体怪談〉を始められた。釈台の前に張り扇を持って座るのは普通の講談と同じだが、舞台にはあばら屋の襖や囲炉裏などのおどろおどろしい大道具が置かれている。
先生の声と張り扇を叩く音。そこに吹雪の効果音と舞台照明が重なって、大道具に内蔵された電灯も赤く明滅して、確かにその名の通り、舞台上に、そしてホール全体に〈立体〉としての怪談が立ち上がる。また、先生が始めるより以前に「大道具立体怪談」と看板に書いて講談を演っていた人がいたという。実際は行灯一個と障子一枚があるだけというような「ちゃちな」ものだったそうだが、寄席に来る人はそれをも遊びとして楽しんでいたのだった。
貞水先生の立体怪談は今日まで半世紀以上にわたって改良され続けてきた。高校生たちは――もちろんぼくも――暗い客席で息を潜めて、舞台から目を離すことは出来ない。
江戸は芝日影町(現在の新橋付近)にある古着屋の江島屋に、一人の母親が地方から娘の婚礼衣装を買いに来る。江島屋の主人は古びた布に糊をつけただけのまがい物を売る。当時はなかなか上京することが難しいから、文句を言って来ることはないだろうと考えての詐欺だ。運悪く嫁入り行列中に大雨が降ったために腰から下の布が千切れ、心ない列席者たちに大笑いされた娘は利根川に身を投げて死んでしまう。母親は江島屋を呪いながら目が不自由になるまで泣き続け、主人や番頭の前に幽霊となって姿を現す。店は蔵の古着から出火で全焼、主人は錯乱した番頭に両目を潰され、娘が身を投げたのと同じ利根川に転げ落ちて死ぬことになる。
「怖いのは最後の化けて出てくる場面じゃなくてね。呪いが生まれる過程で、聞いている人にも思い当たることが必ずあるんです。何か悪いことをしたってね。それが怖い。何の因果もないのに化けて出られても、びっくりするだけで怖くないよね」
悪いことをしたと思っている人の前にしか幽霊は現れない。幽霊は庶民の恨みを晴らす正義の味方なのだ。怪談には〈モラル〉が必要なんだよと先生は続けた。モラルすなわち倫理であって、それは〈人と人のあいだの理(ことわり)〉に他ならない。モラルを無視して見境なく化けて出るような幽霊はいないし、語り手も聞き手もモラルを知らなければ怪談は成立しない。
だから〈芸〉にもモラルが必要だ。単なる物真似をしても、目の肥えた寄席の客はすぐに見抜いてしまうし、二番煎じになってしまうだけだ。他の講談師にも失礼だし、客にも失礼になる。
「自分の〈芸風〉を確立した上で語るのが大切なんだよ。肝心な講談を上手く喋れないのに、喋る中身だけ新しくしてもね。せっかくの中身も、表す方法がなければアイデア倒れになる。一つじゃだけダメなんだよね、一つだけじゃ。いくつかのものが身について、ものになるんだから」
〈芸〉は無数の要素で構成されている。〈一つ〉しか出来ないというのは、本当は一つだって出来ていないのだ。孤立した技術など存在しない。一つのことは――たとえば家族的類似性によって――どこまでも結ばれていて、無数の要素によって形作られる多元的な全体なのだ。
また〈芸〉は種々の技術の単純な総和とも異なっている。そもそも全技術のリストなどというものはない。自らが開発しなければならない技術だってある。技術を開発するための技術というものもありうるだろう。
つまり〈芸〉とは手に取れるような一個のものではなく、広がりを持つ場のようなものであり、そのものが〈世界〉なのだ。そして〈世界〉とは、ほとんど定義不可能な言葉だ。世界はその境界線を指し示すことも出来ない。
だから〈芸〉は――総体ないしは雰囲気atmosphereとして――伝えることしか出来ないのだ。
ぼくがかつて通った二つめの大学、東京藝術大学では〈芸術〉について話し合うことは日常的に行われていて、いま思うとそれはそれで悪くない環境であったようにも思うのだけれど、そういう会話は個人的な芸術観を主張し合って物別れに終わることが常だった。稀に奇跡のような対話によって友人とわかりあい、芸術についての新しい見解が得られたと思っても、翌日一人で思い返してみると、何のことはない、たまたま持論が一致したことがうれしかっただけのことで、辿り着いたはずの新たな地平はどこかに消え去ってしまっていた。
どの宇宙でも会話なんて所詮そういうものかもしれない。それでもいつか何かが見えてくると楽観的に考えるのか、前回の結末を忘れるのか、性懲りもなく再び何かについて話し始める。
実質的に小説を書き始めたこの頃、ぼくは自分の言葉が――芸術を語るときのみならず――多くの事象を掬い取れないことがもどかしかった。今だって事態は大して変わっていないのだけれど。言葉にしようとしたものが、あたかも幽霊みたいに、手応えなくすり抜けてしまうのだ。これは芸術一般、言語一般の性質であり、仕方のないことなんだと思考停止して安堵する可能性もあったかもしれない。
しかしぼくは四年前の修善寺で、幽霊を、恨みを、怖さを立体的に語り出す貞水先生の〈芸〉を目の当たりにした。それはぼくにとって驚きだったし、率直な励ましになった。そして今回、姿も形もない〈新しい言葉〉を探しているぼくは「怪談の貞水」の異名をとる一龍斎貞水先生にインタビューをお願いしたのだった。お忙しい中ありがたいことに、貞水先生は御快諾された。
講談師は優柔不断だというお言葉の通り、貞水先生は常に優しく柔らかく包むようにお話しになり、断じることなく〈芸〉について教えてくださった。〈優柔不断〉でなければ、客も幽霊も理解することはできない。相手に合わせて融通無碍に自分の語りを変化させることが肝心なのだ。
「肝心なものは一番苦労しなきゃ身につかない、だから一番最後にしちゃうってのは違うよね」
今も毎日が修行だとおっしゃる貞水先生の笑顔は、おだやかだった。
ぼくにとってこうしてこの文章を書くことが修行になっているのかどうかはいささか疑問だが、他の人の言葉を感受して自分の言葉を紡ぐ以外に、ぼくに出来ることはない。別の宇宙では別のやり方があるのかもしれないけれど。
ここまで書いてきて、〈パラレルワールド〉はSFが物理学に先行して提案したガジェットだったことに気がついた。当時まだ物理の大学院生だったヒュー・エヴェレット3世による、多世界解釈に関する世界初の論文「‘相対状態’量子力学の定式化」“"Relative State" Formulation of quantum mechanics”は一九五七年に書かれた。そしてパラレルワールドを扱った先駆的SFとされるフレドリック・ブラウンの『発狂した宇宙』は、その八年前、一九四九年に発表されたものだ。作品の冒頭、主人公はロケットの爆発に巻き込まれて、別の歴史を歩んでいる地球に飛ばされる。
もっとも、ブラウンがパラレルワールドを発明したとまでは言えないだろう。一八九五年発表のH・G・ウェルズ『タイムマシン』からして、主人公が異なる時間の世界に移動するパラレルワールドものと見做すことは可能だろうし、極言すれば、あらゆる〈物語〉はパラレルワールドを舞台としているのではないだろうか。
持病の胃潰瘍のために修善寺の宿で八百グラムの血を吐いた漱石は、それから六年のあいだ入退院を繰り返して、一九一六年に同じ胃潰瘍で永眠する。漱石の初小説『吾輩は猫である』が一九〇五年の発表だから、十一年の活動期間のうち半分以上は闘病していたことになる。前期の『坊っちゃん』と後期の『こゝろ』とでは死の濃度が違いすぎる。『こゝろ』の最終部は「先生の遺書」であり、つまり死者が生前のことを語っているのだ。〈死後の世界〉の亡霊として。
修善寺から何事もなく帰ってきたぼくは考える。いや、何事もなかったわけではない。貞水先生の〈芸〉によって怪しく談じられた世界に触れたのだ。あれは生と死が交錯する世界だった。
すべての物語はパラレルワールドを描き出すための仕掛けなのだ。そしてSFは広義の科学的思考によって、〈ありうる〉パラレルワールドを構築する。そして、幽霊のいる夏といない夏――複数の異なる夏を同時に認識することによって、ようやく幽霊は立体的に立ち現れてくる。幽霊のいる世界だけでも、幽霊のいない世界だけでも、足りない。 時間も空間も越えて、ぼくたちがパラレルワールドを求めるのは、ぼくたちが自らとは異なる存在を求めているからだろう。
きっと「一つだけじゃダメ」なのだ。
(次回は世界を感じる人工知能です)
一龍斎貞水(いちりゅうさい・ていすい/講談師、重要無形文化財保持者(人間国宝))
1939年東京湯島天神坂下生まれ。1955年五代目一龍斎貞丈に入門し初高座。1966年真打ち昇進、六代目貞水を襲名。1975年文化庁芸術祭優秀賞。2003年講談師として初の人間国宝に認定。寄席の定席をはじめ、自治体主催のホール寄席、ディナーショー、海外公演、学校公演など幅広い公演活動を展開。著作に『一龍斎貞水の歴史講談』(フレーベル館)、『心を揺さぶる語り方―人間国宝に話術を学ぶ 』(生活人新書)、CD「赤穂義士本伝」「四谷怪談」など。多くのTV、ラジオ番組の他、諸星大二郎原作の映画『奇談』にも出演。最新の公演情報はこちら
ミステリ、SF、ファンタジー、ホラーの月刊Webマガジン|Webミステリーズ!
貞水先生は高座に上がって五年目の一九六〇年頃から、この〈立体怪談〉を始められた。釈台の前に張り扇を持って座るのは普通の講談と同じだが、舞台にはあばら屋の襖や囲炉裏などのおどろおどろしい大道具が置かれている。
先生の声と張り扇を叩く音。そこに吹雪の効果音と舞台照明が重なって、大道具に内蔵された電灯も赤く明滅して、確かにその名の通り、舞台上に、そしてホール全体に〈立体〉としての怪談が立ち上がる。また、先生が始めるより以前に「大道具立体怪談」と看板に書いて講談を演っていた人がいたという。実際は行灯一個と障子一枚があるだけというような「ちゃちな」ものだったそうだが、寄席に来る人はそれをも遊びとして楽しんでいたのだった。
貞水先生の立体怪談は今日まで半世紀以上にわたって改良され続けてきた。高校生たちは――もちろんぼくも――暗い客席で息を潜めて、舞台から目を離すことは出来ない。
江戸は芝日影町(現在の新橋付近)にある古着屋の江島屋に、一人の母親が地方から娘の婚礼衣装を買いに来る。江島屋の主人は古びた布に糊をつけただけのまがい物を売る。当時はなかなか上京することが難しいから、文句を言って来ることはないだろうと考えての詐欺だ。運悪く嫁入り行列中に大雨が降ったために腰から下の布が千切れ、心ない列席者たちに大笑いされた娘は利根川に身を投げて死んでしまう。母親は江島屋を呪いながら目が不自由になるまで泣き続け、主人や番頭の前に幽霊となって姿を現す。店は蔵の古着から出火で全焼、主人は錯乱した番頭に両目を潰され、娘が身を投げたのと同じ利根川に転げ落ちて死ぬことになる。
「怖いのは最後の化けて出てくる場面じゃなくてね。呪いが生まれる過程で、聞いている人にも思い当たることが必ずあるんです。何か悪いことをしたってね。それが怖い。何の因果もないのに化けて出られても、びっくりするだけで怖くないよね」
悪いことをしたと思っている人の前にしか幽霊は現れない。幽霊は庶民の恨みを晴らす正義の味方なのだ。怪談には〈モラル〉が必要なんだよと先生は続けた。モラルすなわち倫理であって、それは〈人と人のあいだの理(ことわり)〉に他ならない。モラルを無視して見境なく化けて出るような幽霊はいないし、語り手も聞き手もモラルを知らなければ怪談は成立しない。
だから〈芸〉にもモラルが必要だ。単なる物真似をしても、目の肥えた寄席の客はすぐに見抜いてしまうし、二番煎じになってしまうだけだ。他の講談師にも失礼だし、客にも失礼になる。
「自分の〈芸風〉を確立した上で語るのが大切なんだよ。肝心な講談を上手く喋れないのに、喋る中身だけ新しくしてもね。せっかくの中身も、表す方法がなければアイデア倒れになる。一つじゃだけダメなんだよね、一つだけじゃ。いくつかのものが身について、ものになるんだから」
〈芸〉は無数の要素で構成されている。〈一つ〉しか出来ないというのは、本当は一つだって出来ていないのだ。孤立した技術など存在しない。一つのことは――たとえば家族的類似性によって――どこまでも結ばれていて、無数の要素によって形作られる多元的な全体なのだ。
また〈芸〉は種々の技術の単純な総和とも異なっている。そもそも全技術のリストなどというものはない。自らが開発しなければならない技術だってある。技術を開発するための技術というものもありうるだろう。
つまり〈芸〉とは手に取れるような一個のものではなく、広がりを持つ場のようなものであり、そのものが〈世界〉なのだ。そして〈世界〉とは、ほとんど定義不可能な言葉だ。世界はその境界線を指し示すことも出来ない。
だから〈芸〉は――総体ないしは雰囲気atmosphereとして――伝えることしか出来ないのだ。
ぼくがかつて通った二つめの大学、東京藝術大学では〈芸術〉について話し合うことは日常的に行われていて、いま思うとそれはそれで悪くない環境であったようにも思うのだけれど、そういう会話は個人的な芸術観を主張し合って物別れに終わることが常だった。稀に奇跡のような対話によって友人とわかりあい、芸術についての新しい見解が得られたと思っても、翌日一人で思い返してみると、何のことはない、たまたま持論が一致したことがうれしかっただけのことで、辿り着いたはずの新たな地平はどこかに消え去ってしまっていた。
どの宇宙でも会話なんて所詮そういうものかもしれない。それでもいつか何かが見えてくると楽観的に考えるのか、前回の結末を忘れるのか、性懲りもなく再び何かについて話し始める。
実質的に小説を書き始めたこの頃、ぼくは自分の言葉が――芸術を語るときのみならず――多くの事象を掬い取れないことがもどかしかった。今だって事態は大して変わっていないのだけれど。言葉にしようとしたものが、あたかも幽霊みたいに、手応えなくすり抜けてしまうのだ。これは芸術一般、言語一般の性質であり、仕方のないことなんだと思考停止して安堵する可能性もあったかもしれない。
しかしぼくは四年前の修善寺で、幽霊を、恨みを、怖さを立体的に語り出す貞水先生の〈芸〉を目の当たりにした。それはぼくにとって驚きだったし、率直な励ましになった。そして今回、姿も形もない〈新しい言葉〉を探しているぼくは「怪談の貞水」の異名をとる一龍斎貞水先生にインタビューをお願いしたのだった。お忙しい中ありがたいことに、貞水先生は御快諾された。
講談師は優柔不断だというお言葉の通り、貞水先生は常に優しく柔らかく包むようにお話しになり、断じることなく〈芸〉について教えてくださった。〈優柔不断〉でなければ、客も幽霊も理解することはできない。相手に合わせて融通無碍に自分の語りを変化させることが肝心なのだ。
「肝心なものは一番苦労しなきゃ身につかない、だから一番最後にしちゃうってのは違うよね」
今も毎日が修行だとおっしゃる貞水先生の笑顔は、おだやかだった。
ぼくにとってこうしてこの文章を書くことが修行になっているのかどうかはいささか疑問だが、他の人の言葉を感受して自分の言葉を紡ぐ以外に、ぼくに出来ることはない。別の宇宙では別のやり方があるのかもしれないけれど。
ここまで書いてきて、〈パラレルワールド〉はSFが物理学に先行して提案したガジェットだったことに気がついた。当時まだ物理の大学院生だったヒュー・エヴェレット3世による、多世界解釈に関する世界初の論文「‘相対状態’量子力学の定式化」“"Relative State" Formulation of quantum mechanics”は一九五七年に書かれた。そしてパラレルワールドを扱った先駆的SFとされるフレドリック・ブラウンの『発狂した宇宙』は、その八年前、一九四九年に発表されたものだ。作品の冒頭、主人公はロケットの爆発に巻き込まれて、別の歴史を歩んでいる地球に飛ばされる。
もっとも、ブラウンがパラレルワールドを発明したとまでは言えないだろう。一八九五年発表のH・G・ウェルズ『タイムマシン』からして、主人公が異なる時間の世界に移動するパラレルワールドものと見做すことは可能だろうし、極言すれば、あらゆる〈物語〉はパラレルワールドを舞台としているのではないだろうか。
持病の胃潰瘍のために修善寺の宿で八百グラムの血を吐いた漱石は、それから六年のあいだ入退院を繰り返して、一九一六年に同じ胃潰瘍で永眠する。漱石の初小説『吾輩は猫である』が一九〇五年の発表だから、十一年の活動期間のうち半分以上は闘病していたことになる。前期の『坊っちゃん』と後期の『こゝろ』とでは死の濃度が違いすぎる。『こゝろ』の最終部は「先生の遺書」であり、つまり死者が生前のことを語っているのだ。〈死後の世界〉の亡霊として。
修善寺から何事もなく帰ってきたぼくは考える。いや、何事もなかったわけではない。貞水先生の〈芸〉によって怪しく談じられた世界に触れたのだ。あれは生と死が交錯する世界だった。
すべての物語はパラレルワールドを描き出すための仕掛けなのだ。そしてSFは広義の科学的思考によって、〈ありうる〉パラレルワールドを構築する。そして、幽霊のいる夏といない夏――複数の異なる夏を同時に認識することによって、ようやく幽霊は立体的に立ち現れてくる。幽霊のいる世界だけでも、幽霊のいない世界だけでも、足りない。 時間も空間も越えて、ぼくたちがパラレルワールドを求めるのは、ぼくたちが自らとは異なる存在を求めているからだろう。
きっと「一つだけじゃダメ」なのだ。
(次回は世界を感じる人工知能です)
一龍斎貞水(いちりゅうさい・ていすい/講談師、重要無形文化財保持者(人間国宝))
1939年東京湯島天神坂下生まれ。1955年五代目一龍斎貞丈に入門し初高座。1966年真打ち昇進、六代目貞水を襲名。1975年文化庁芸術祭優秀賞。2003年講談師として初の人間国宝に認定。寄席の定席をはじめ、自治体主催のホール寄席、ディナーショー、海外公演、学校公演など幅広い公演活動を展開。著作に『一龍斎貞水の歴史講談』(フレーベル館)、『心を揺さぶる語り方―人間国宝に話術を学ぶ 』(生活人新書)、CD「赤穂義士本伝」「四谷怪談」など。多くのTV、ラジオ番組の他、諸星大二郎原作の映画『奇談』にも出演。最新の公演情報はこちら
(2015年8月5日)
■ 高島 雄哉(たかしま・ゆうや)
1977年山口県宇部市生まれ。徳山市(現・周南市)育ち。東京都杉並区在住。東京大学理学部物理学科卒、東京藝術大学美術学部芸術学科卒。2014年、「ランドスケープと夏の定理」で第5回創元SF短編賞を受賞(門田充宏「風牙」と同時受賞)。同作は〈ミステリーズ!〉vol.66に掲載され、短編1編のみの電子書籍としても販売されている。ミステリ、SF、ファンタジー、ホラーの月刊Webマガジン|Webミステリーズ!