――パルタージュpartageとはフランス語で「分割」「共有」「分有」の意。
 小林秀雄は〈美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない〉と書いたが、想像力というようなものはなく、あるのはただ、個々の想像だけだとも思う。
 それでもなお、想像力(を分有すること)をこの文章の目的に置いて、インタビューを含む取材を始めたい。予定しているインタビュイーはそれぞれの領域の最前線におられる方たちであり、そこはまさに想像と想像力の境界線なのだから。そしてこれまで同様、これからのSFの言葉もまた、その線の上に存在するに違いない。


『想像力のパルタージュ 新しいSFの言葉をさがして』 
第1回 反復されるガジェット――瑠璃光寺より

高島 雄哉 
yuya TAKASHIMA (写真撮影も著者)


 SFが死んだ――そう誰かが言ったという。滅んだ、だったかもしれない。伝聞なのでよくわからない。
 二〇一五年になっても有限の時間を生きている我々にとって、死や滅びは身近な深淵と言えるだろう。すぐそこにある、不可視の存在。
 ジャンルや様式には盛衰がある。しかし同時に、それが成立したからには、ある期間に作り手がいなくなったとしても、消失したりはしない。
 過去や他ジャンルとの比較ではなく、今ぼくが感じることを率直に言えば、SFはとても元気だと思う。新しい賞がいくつも生まれ、多くの書き手によってより多くの作品が書かれている。まさに今この瞬間も。そして古典的なSFは新たな読み手を獲得し、新訳されることで新たな視点での読み直しも活発に行われている。SFの他ジャンルへの浸透と拡散はますます盛んだ。
 だから二〇一五年の現時点でSFが死んだとか滅んだとか感じる人がいるとすれば、それはSFが衰退しているからではなく――なぜなら事実として衰退していないから――いまSFが元気であるがゆえにSFへの欲求が強く刺激されて「死んでいるのか? 早く次のSFを!」と言いたいのかもしれない(違うかもしれませんが、話を進めます)。
 死から始まったこの文章は、生を求めるものになるだろう。
 SFはいつも新しい生を求めてきた。そして新しさには無限の種類があって、有限の字数という制限のなかで、ぼくは目標を限定したほうが良いだろう。
 これが言葉による探求である以上、最も根源的な新しさとは、新しい言葉を生み出すこと以外にはないだろう。
 そして、SFにとっての新しい言葉とは、ウェルズの〈タイムマシン〉やチャペックの〈ロボット〉、そしてギブスンの〈サイバースペース〉の次の言葉に他ならない。
 そんな言葉を、ぼくは言葉と自分の足を使って、探し始める。

 と書いてから、もう一週間だ。そのあいだにぼくは妻と共に山口県の祖父を訪ねた。
 帰郷の前の高揚だったということもないだろうが、つい筆が滑って〈タイムマシン〉に匹敵する言葉を見つけ出すと書いてしまった。東京に戻り、今やすっかり意気消沈しているぼくは、さっきから旅の写真をぼんやりと見直しているのだった。
 当日はよく晴れていた。ディスプレイには山口市にある瑠璃光寺の五重塔が映っている。手前の大きな池の水面にも塔の姿が浮かぶ。

takashima150401.jpg  国宝に認定されている五重塔は十五世紀のものだという。池を迂回しながら近づくと、途中には司馬遼太郎の「街道をゆく」の一節を刻んだ石碑があった。〈長州は、いい塔をもっている〉。
 塔と言えば〈凍れる音楽〉という言葉を思い出す。フェノロサが薬師寺東塔のことを評した言葉――というのは俗説で、シェリングやシュレーゲル、ゲーテが用い、さらには古代ギリシアの詩人の言葉にもあるというが、この辺りは耳学問でしかないので切り上げる。
 ともかくも建築と音楽のあいだにはジャンルを超えた類縁性があり、二者を結びつけているのはおそらく数学ないしは物理学であるということは、さほど突飛な議論ではないだろう。
 越境すること――きっとそれは新しい言葉を見つけるための重要な手がかりとなるはずだ。新しい言葉は必ずしも新しい概念というわけではなく、新しい語り方によっても見つかるだろう。既に別のジャンルで用いられている概念をSF的に語り直すことができれば、あるいはそれこそが新しいタイムマシンとなるかもしれない。
 瑠璃光寺の回廊を巡っていると、資料館の看板が見えた。全国の五重塔を百分の一に縮小した模型が五十五基も展示されているとある。ぼくと妻は早速行くことにした。入場料を払って引き戸を入ると、六畳間ほどの広さの一部屋いっぱいに貴重な資料が展示されて、解説映像がリピート再生されていた。

 それらを堪能した後で、五十五の塔が見当たらないことに気付いた。日本全国の五重塔の写真は壁にかかっているし、瑠璃光寺の五重塔の模型ならいくつかあるのだけれど、どう見ても五十五はない。
 ぼくたちはしばらく部屋をうろうろしてから、液晶モニターの隣のスライドドアを開けることにした。特にどこに通じるという掲示もない。大抵そういうドアはスタッフの出入口で、無闇に開けないのがマナーなのだが致し方ない。
 そろりと覗いた向こうには平然と順路がもう一つの展示室に繋がっていた。そこの四方と中央に置かれたガラスケースに、日本最古の法隆寺の塔から二十世紀末の塔までが並んでいるのだった。
 塔は視線を自然に上へ上へと導き、一方で背丈ほどの二段のケースは横方向に広がっているから、足早に流して見ることができない。
 観念して一塔ずつ見ていくうちに、塔の専門家ではないぼくにでも何となくわかる造形上の違いは次第に消失していって、すべての塔が――わずかに変奏された――単一の〈五重塔〉であるかのように思えてくる。
 百分の一の縮尺だから、メートルがセンチメートルに変換されている。実際の塔は、時代が下ると高いものも建てられるが、だいたい三十数メートルのものが多く、だから模型の塔も似た高さのものがほとんどだった。資料館には他にも断面構造模型や五円玉で作ったものがあり、さらに山門のそばには大理石製の塔が建ち、境内の池のなかにも小さな石塔があって、ぼくと妻は結構がんばって探してみたけれど、きっと何塔も見落としたに違いない。

(2015年4月6日)



■ 高島 雄哉(たかしま・ゆうや)
1977年山口県宇部市生まれ。徳山市(現・周南市)育ち。東京都杉並区在住。東京大学理学部物理学科卒、東京藝術大学美術学部芸術学科卒。2014年、「ランドスケープと夏の定理」で第5回創元SF短編賞を受賞(門田充宏「風牙」と同時受賞)。同作は〈ミステリーズ!〉vol.66に掲載され、短編1編のみの電子書籍としても販売されている。



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