4whiteboard.JPG  ただその肝心の〈量子アルゴリズム〉は、数個しか見つかっていない。
 最も有名なのは〈因数分解〉の量子アルゴリズムだ。因数分解のアルゴリズムは古代から様々に開発されており、この量子的因数分解はその最新のものと言える。
 15を因数分解すれば3×5だし、18は2×3×3となる。17は素数だから因数分解できない。もっと大きな数字だと因数分解は非常に難しくなる。たとえば4197377は二つの素数2017と2081の積だ。2017×2081はすぐにできるが、2017や2081という因数を見つけるのは時間がかかる。逆に因数を知っていれば、4197377を因数分解することは容易い。因数を知っているかどうかで、因数分解の計算量が大きく異なるのだ。これを〈計算量の非対称性〉という。
 因数分解が持つ〈計算量の非対称性〉を暗号として利用したのが〈RSA暗号〉だ。4197377を暗号とすれば、因数2017や2081という鍵を知っている人だけが因数分解でき、つまりは暗号解読できる。RSAは開発者の頭文字を並べたものだ。
 実際のRSA暗号ではもっと巨大な数を使うし、もう少し手間がかかるのだけれど、現在の情報セキュリティの数学的基盤をなしているものが因数分解の〈計算量の非対称性〉であることは間違いない。
 そのためコンピュータによる因数分解は盛んに研究されており、2010年にはNTT情報流通プラットフォーム研究所が232桁の整数を三年で因数分解し終えたことを発表した。桁数が増えると、因数分解にかかる時間は指数関数的に増える。つまり233桁になればかかる時間は数倍になり、234桁になればさらに数倍になる。現時点では300桁以上の整数が用いられているという。
 ところが、量子コンピュータを使った量子アルゴリズムによる因数分解では、桁数と時間は――指数関数的ではなく――比例の関係となるため、桁が増えたところで計算時間は劇的には増えない。逆に言えば、どれだけ桁数の多い整数でも、量子コンピュータならわずかな時間で因数分解できるということだ。情報セキュリティの根幹を揺るがしかねない量子アルゴリズムの発見によって、一時期下火になっていた量子コンピュータ研究が一気に盛んになった。
 量子コンピュータによる因数分解がどれくらい速いのか、具体的な数字で見てみよう。
 古典コンピュータでは一桁増えるたびに因数分解にかかる時間が二倍になるとする。そうすると5桁増えると、計算時間は2^5=32倍になる。ところが量子コンピュータでは5桁増えても、かかる時間は5倍程度になるだけなのだ。同様に30桁増やした場合、古典コンピュータなら計算時間は2^20=およそ10億倍になるが、量子コンピュータの計算時間は30倍程度にしか増えない。1秒の10億倍なら10億秒、およそ30年かかることになるが、量子コンピュータは1秒の30倍すなわち30秒で暗号を解いてしまう。量子コンピュータが完成すれば――因数分解以外の量子アルゴリズムも発見されているため――数学を基盤とした暗号システムは大きな変更を迫られることになるだろう。量子コンピュータでも解読できない〈量子暗号〉も開発されているが、長距離では使えないなど問題は多い。
 さて、量子コンピュータが素早く因数分解できるのは、並列コンピュータとして優れているからではないことに注意しよう。アルゴリズム自体が量子力学的で――そして量子アルゴリズムは量子コンピュータでなければ物理的に実行できず――つまるところ〈重ね合わせ〉と同時に〈量子エンタングルメント〉を利用しているからこそ、短時間の因数分解が可能になったのだ。
 かなり省略した解説は以下の通り。まず因数分解を素朴にしようとすれば、ひとつひとつの数で割れるかどうかを順番に試さねばならず、膨大な回数の割り算が必要となる。しかしそれらの割り算が持つある種の周期性を見つけられれば、圧倒的に短い手順で因数分解はできる。その周期性は〈フーリエ変換〉という演算で求められるのだが、古典的なフーリエ変換に比べて〈量子フーリエ変換〉が圧倒的に速いのだ。フーリエ変換はすべての波をいちいち比較して共通する周波数を抜き出すような計算だ。古典コンピュータではひとつひとつを別のものとして調べるしかない。ところが量子コンピュータが扱う量子情報はそもそも情報として〈重ね合わせ〉られ、絡み合って〈量子エンタングルメント〉状態にあるため、同時に調べることができる。それゆえ求めたい周期性は、何回か計算すれば、かなりの高確率で見つかることがわかっている。そしてその周期性を用いれば因数分解はすぐに終わる。もちろん〈量子フーリエ変換〉はどんなに速いスーパーコンピュータでも計算できない。使っている物理学自体が違うからだ。

 量子アルゴリズム以外の古典的な計算も、量子コンピュータで計算できるということは数学的に証明されている。とはいえ、今のパソコンがすべて量子コンピュータに置き換わるというような事態にはなかなかなりそうもない。
 大塚さんたちの実験室には希釈冷凍機という設備がある。それを使えば数百mK(ミリケルビン)という、ほとんど絶対零度にまで、試料の温度を下げることができる。その温度でなければ量子力学的な現象は見えてこない。量子状態は繊細で、そこまでの低温であってもほんのわずかしか同一の状態は保てず、次々に別の量子状態へと変わっていくのだ。
 つまり〈量子計算〉をするには、程度の差こそあれ、そのような環境が必要ということだ。古典コンピュータは数十年で驚くほど小型化したわけで、家庭用の小型量子コンピュータができる可能性もあるが、時間はかかるはずだ。温度を下げるにはそれなりに大掛かりな設備が必要となる。  「将来的には量子コンピュータと古典コンピュータの棲み分けが進むと考えています」
 しかし量子コンピュータ研究はようやく実験段階に入ったばかりで、将来どこまで発展するのかを予想するのは難しいという。これは実際に研究の最前線にいる大塚さんの肌感覚だろう。

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 電子を閉じ込めた微小領域である〈量子ドット〉は、〈量子コンピュータ〉の基礎技術となるということだけでも充分面白いのだが、大塚さんはさらに二つの研究課題を設定している。それは〈人工量子力学実験〉と〈量子プローブ〉だ。
 量子力学は極小の世界の物理学であるため――宇宙実験とはまた別の意味で――実験すること自体が難しかった。〈量子ドット〉は、電子ひとつを観察できる〈人工量子力学実験〉の場なのだ。〈量子ドット〉の研究を進めていく中で、〈重ね合わせ〉や〈量子エンタングルメント〉以外にも、まだまだ未知の不可思議な物理現象が見つかるのではないかと大塚さんは考えている。
 また〈量子ドット〉は、別の物体の量子状態を探る〈量子プローブ〉として使うこともできる。プローブ probe とは探針のことだ。〈量子ドット〉の特性はかなりわかってきている。他の物体と接続したときの〈量子ドット〉の変化を見れば、接続した微小領域をくわしく観測できるのだ。
 何を面白いと感じるか、あるいは何に意味を見出すかということは、人間にも人工知能にも決定できない問題だ。たとえば、ある研究の経済価値を計算しようとしても、そもそも研究の結果として何が発見されるかを予言しきることはできないのだから――研究成果の価値は計れても――研究行為が持つ価値を算定することは難しい。
 とはいえ研究には少なくない税金が使われていて、成果がまったく得られない研究というのは社会的にもなかなか認められない。しかし未知のものを発見するということは、この取材エッセイを引き合いに出すまでもなく、とてつもなく困難なことだ。
 「だいたいうまくいきませんね。頭のなかではうまくいくはずだったのに、現実世界ではいろいろな問題が出てきます。何か面白いことが見つかったときはうれしいですけど、基本的に苦労続きです」
 研究は未知の発見のためになされるものだが、闇雲に突き進むわけではない。〈量子ドット〉の研究が、量子コンピュータ・人工量子力学実験・量子プローブという三つを目的としているように、いくつもの〈保険〉をかけて――たとえば量子プローブとしては成果がなくとも量子コンピュータ研究としては成果が得られるように――研究を始める。最初に研究の〈デザイン〉をしているのだ。
 大塚さんたちは研究室と実験室を立ち上げるときに実験装置や配線設備などを自分たちでデザインしたという。研究内容や使用効率を考えて、あるいは予見し得ない事態にも対応できるように柔軟性も持たせた研究室であり実験室になっている。
 こうしたことを含めた〈デザイン〉は研究という分野特有のものではない。多かれ少なかれ、どのような仕事にも未知の領域はあるからだ。
 このエッセイを書く時もあらかじめ〈デザイン〉をする。まず時間をかけて大方針としてのテーマを決め、それからインタビュイーを探し始める。テーマが間違っていると、そこに最前線がないからか、適切なインタビュイーが見つからない。それから依頼をして日時を相談していく。インタビュイーは基本的に――駒場寮の先輩後輩である松本博文さんと小池龍之介くん以外は――初対面だから、どんな人かもわからないし、どのような話になるかもわからない。
 ぼくも相手も面白く感じる方向に話が進めば大成功だが、そうなる保証はない。だから最低限の〈保険〉として取材テーマはぼくの興味で選んでいるのだけれど、幸いなことにこれまでのインタビューではいつも〈保険〉を超えて面白いお話をうかがえている。
 今回も例によって〈想像力〉についてうかがった。
 「実験では現実世界を使えますからね。頭の中だけで考えるよりも圧倒的に有利なんです」
 大塚さんはにこやかに言う。
 現実こそが〈実験的想像力〉の源泉なのだ。頭のなかでは想像できなかったことが現実では起こる。そのせいで実験が失敗することもあるけれど、未知のものを発見することができるのも、現実世界が人間の想像を超えているからなのだ。

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 大塚さんは学生の頃から実験が好きで、大学院の進学先も充実した実験がしやすい物性研究所――東京大学附置全国共同利用研究所として1957年設立――にある研究室を選んだ。
 研究成果は論文として世界に公開される。論文執筆も研究の重要な過程なのだ。
 「他の分野の人と話すのは刺激になります」
 と大塚さんは言ってくれたけれど、それはむしろぼくが言うべきことだった。
 試行錯誤を最終的に文章のかたちで世に問うという点で、研究者と作家は似ている。というのはいささか強すぎる仮定のような気もするけれど、作家にとっての実験とは何なのかを考えてみることに少しくらいは意味があるだろう。〈思考実験〉は、物理学がガリレオ・ガリレイの時代から伝統的に得意とするところであり、物理学科にいたとき明に暗に叩き込まれた思考の形だ。
 およそいかなる文章も誰かに読まれることを前提としている。読者がどれほど少なくとも、今こうして書いている瞬間、自身によって読まれている。
 大塚さんは、実験では現実世界を使えると言ったのだった。
 実験では物理的対象に対して〈介入〉する。そうしてその対象が持つ物理を探っていくのだ。  作家にとっての対象は、自らの思考であり言葉だ。それらに対する〈実験〉は、〈思考実験〉では不十分だ。思考を思考しても仕方ない。
 だがここで肉体的にどうこうしたところで、それは脳や身体的健康に影響はあっても、思考や言葉にどのような〈介入〉ができたか判然としない。探針はそれ自体の挙動が確かめられているからこそ探針となる。
 自らの思考に直接関わってきて、しかもその影響を最低限把握できるのは、他者の思考だろう。そして最も生々しく他者の思考に触れられるのは、他者との〈対話〉だ。
 このエッセイはタイトルにある通り〈新しいSFの言葉〉を探しているから、最先端の情報を得るための取材は必要不可欠なのだけれど、インタビュイーとの対話は、ぼくの思考を試す〈実験〉にもなっていると思う。特に、ぼくが想像していたことが間違っているとき――そんなことはしょっちゅうだ――ぼくの想像力そのものの形が見えてくる。
 思考に対する〈実験〉は他にもたくさんある。映画や彫刻を見てもいいし、建築の中を歩いても、本を読んでも、他者の思考に触れることができる。中でも読書は、〈介入〉の程度を確かめながら、自らの思考を揺り動かすことができるという点で、思考ないし想像力に対する〈実験〉として優れていると言えるかもしれない。

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 同期の友人から大塚さんの趣味が釣りだと聞いていたぼくは、釣りと実験に関係があるのかと訊いてみた。釣りは短気な人のほうが向いているという話もある。
 大塚さんはただの趣味ですよと笑いつつ、
 「もしかすると関係あるかもしれないですね。たとえば海釣りだと、船は自分で動かせないので二次元方向の自由度はないんですよ。調整できるのは深さだけで。魚がいる深さを探るために、釣れるまでどんどん深さを変えて釣り糸を垂らすんです。実験でも似たようなところはあって、失敗してもどんどんパラメータを変えてチャレンジしていったほうがうまくいくと思います。短気のほうがいい面もあるでしょうね」
 むろん全体としては同じテーマで実験しているのだし、結果が出るまで根気よく続けていかねばならないのだから、単に短気なだけではうまくいかないはずだ。
 じっくり気長に考えるべきときと、短気にあれこれ試みるべきときがあるのだ。今どちらの態度を取るべきかは、自分の行為を外部から見つめ直さないと決定できない。魚の位置を予想するだけでは充分ではなく、釣りという行為の外部に立ち、自らの行為の構造全体を把握しなければならないのだ。
 ぼくは古典コンピュータで執筆している。量子コンピュータを研究している大塚さんとは、使っている物理からして違う。相手のことを細部まで理解することはなかなか難しいけれど、話していけば、自分との差異には気づくことができるし、自分とは違う世界が存在することを改めて確認できる。互いが互いにとって、自らの行為を見つめ直す観測装置になったのかもしれない。量子力学ができたことで古典力学とはまるで違う物理学があることがわかり、双方の比較からそれぞれの論理構造がより鮮明に見えてきたように。
 これは確かに自分一人の頭のなかだけでは不可能なことだ。相互作用は一人ではできないのだから。

(※次回は9月5日頃公開です。世界に介入する実験について、さらに深くうかがいます。)

大塚朋廣(おおつか・ともひろ/理化学研究所研究員・東京大学客員研究員)
1982年香川県出身。東京大学大学院理学系研究科物理学専攻博士課程修了、博士(理学)。2010年~2013年東京大学工学系研究科特任研究員。2012年~2013年理化学研究所客員研究員。2012年~2013年IARPA交換プログラムでコペンハーゲン大学ニールス・ボーア研究所。2013年~2015年理化学研究所特別研究員。2013年より東京大学工学系研究科客員研究員(物理工学専攻樽茶・山本研究室)2016年より理化学研究所研究員(創発物性科学研究センター量子機能システム研究グループ)。ウェブサイトはhttp://tomootsuka.net

(2016年7月5日)



■ 高島 雄哉(たかしま・ゆうや)
1977年山口県宇部市生まれ。徳山市(現・周南市)育ち。東京都杉並区在住。東京大学理学部物理学科卒、東京藝術大学美術学部芸術学科卒。2014年、「ランドスケープと夏の定理」で第5回創元SF短編賞を受賞(門田充宏「風牙」と同時受賞)。同作は〈ミステリーズ!〉vol.66に掲載され、短編1編のみの電子書籍としても販売されている。2016年10月劇場公開の『ゼーガペインADP』のSF設定考証を担当(『ゼーガペイン』公式ページはhttp://www.zegapain.net)。



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