陽電子とくれば〈ディラックの海Dirac sea〉だ。
一九二八年、理論物理学者のポール・ディラックは、量子力学に特殊相対性理論を組み込んだディラック方程式を導出し、その方程式の解として、負のエネルギーを持つ未知の粒子の存在を理論的に予言した。
だがエネルギーは基本的に負にならない。特殊相対性理論の公式E=mc^2から、エネルギーEと質量mは等価であるため、質量を持っている電子のエネルギーが〈ゼロ〉になることもない。加えて、量子力学の〈不確定性原理〉から、電子は完全に静止することができず振動し続けているため、〈零点エネルギー〉という非負のエネルギーも持っている。一般にエネルギーは――身長や体重のように――必ずゼロより大きな正(非負)であるはずなのだ。
もし負のエネルギーの状態がありうるなら、エネルギーの値は小さければ小さいほど安定な状態なので、正のエネルギーを持つ通常の電子は止めどなくエネルギーを失って――正よりもゼロよりも小さい――負のエネルギーを持つようになり、最終的にはこの世から正のエネルギーの電子はすべて消失するはずだが、そのような事実はない。ディラックは自らの理論内の矛盾を解消するため、仮説の海、〈ディラックの海〉を作り出したのだった。
細微の世界を記述する量子力学には、二つ以上の電子がまったく同じ状態に重なり合って存在することを禁じる、〈パウリの排他原理〉がある。こちらは一九二五年のヴォルフガング・パウリの業績で、ノーベル物理学賞を一九四五年に受賞している。電子は――量子力学に従って、位置やエネルギーの値などで指定される、整数のように飛び飛びに離散化した――いわゆる〈量子状態〉のいずれかにあるわけだが、パウリの排他原理によると、一つの状態には一つの電子しか入ることができない。それぞれの電子は一つの状態を〈占有〉し、他の電子を〈排他〉するのだ。
だから、すべての負のエネルギーの状態が全空間にわたって、無限個の観測不能の電子によって隙間なく〈占有〉されていると仮定すれば、正のエネルギーの電子がどれだけエネルギーを失っても――負のエネルギーの状態は既に「満席」なので、排他されてしまい――「空席」のある正のエネルギーにしか存在できないことになる。それゆえ正のエネルギーの電子しか観測されないのだ、とディラックは考えた。この、負のエネルギーの状態にある無限個の電子の総体が〈ディラックの海〉だ。見ることも触れることもできない、負の方向に無限に深い海が全空間に広がって、正のエネルギーの電子を負のエネルギーの状態から排他しているという仮定なのだ。
一見して自然現象と矛盾しているのだから、単に自らの方程式が間違っていると考えても良さそうなものだが、この方程式は一つの式で他の多くの現象を記述できたため、ディラックは排他原理とディラックの海という二つの仮定を自らの理論に導入して、負のエネルギーがあることを証明しようとしたのだった。
ただ、これで負のエネルギーの電子が観測されない理由は説明できたとしても、今度は〈ディラックの海〉が実在するのかという疑問が生じる。観測不可能なもので現象を説明するなら、すべてを〈神の御業〉と考えるのと同じだ。
ディラックは〈ディラックの海〉に対して――この〈海〉は観測できないけれど空間全体に広がっているという仮定なのだから、つまりは空間に対して――充分に大きい正のエネルギーを加えればどうなるか考えた。〈思考実験〉だ。ディラックの海のなかで負のエネルギーを持っていた電子は、その正のエネルギーを受け取ることで、単純な算数の結果、差の分だけの正のエネルギーを持つことになる。これはディラックの海の上に飛び出して、現実の普通の電子として観測されるはずだ。
と同時に、ディラックの海には、その電子があったところに空隙ができるだろう。負のエネルギーの電子が隙間なく充満しているのが、ディラックの海だからだ。電子の代わりに開いた空洞、〈海〉についた傷を、ディラックは〈空孔 hole〉と名付けた。〈空孔〉は、〈海〉から飛び出した電子と併せて電気的に中性になるため――電子の電荷はマイナスだから――プラスの電荷を持たねばならない。電荷を持つということはつまり、〈空孔〉はただの不在や空虚ではなく、何らかの素粒子なのだろう。そして素粒子である以上は――ディラックの海とは異なり――飛び出した電子と同様に、この〈空孔〉も現実的に観測することもできるはずだ。ディラックは紆余曲折を経てこれを未知の素粒子、〈陽電子〉であると予想した。一九三一年のことだ。陽電子が見つかれば、ディラックの海が実在する間接的な証拠になる。
そして翌一九三二年、アメリカの物理学者カール・デイヴィット・アンダーソンは、ディラックの理論のことなど知らないまま、宇宙線の観測中に偶然、〈空孔〉に相当する――電荷などのプラスマイナスが反転していること以外はすべて電子と等しい素粒子――〈陽電子〉を発見した。宇宙線とは宇宙から常に降り注いでいる様々な素粒子のことだが、アンダーソンはその観測のために特に大掛かりな観測装置ではなく、十九世紀末に開発された〈霧箱 cloud chamber〉を用いたのだった。霧箱とは、その名の通り、小さな箱のなかに霧を発生させるものだ。シャーレやペットボトルをドライアイスで冷やしたような簡易な装置でも――どんな実験にも付き物の〈コツ〉は色々とあるのだけれど――宇宙や地球から飛来する素粒子の姿を捉えることができる。
素粒子は〈霧箱〉のなかを通り抜けるとき、通過した近傍の気体分子をイオン化していく。このイオン化された分子の周りに水分子が凝結し、濃い霧となって、素粒子の飛跡が線状に人間の目に見えるのだ。毎秒数本の頻度で現れる飛跡の霧は、溶けるように崩れながら消えていく。
霧箱は非常にシンプルというか、簡素な〈仕組み〉の観測装置だが、現代の巨大な加速器だって――最先端技術がふんだんに投入されているとはいえ――根本的には素粒子と素粒子をぶつけているのだ。単純だからこそ、広く深く世界を探求し、真理を明らかにできるのだろう。アンダーソンは後に同じく霧箱を用いた観測によって、ミュー粒子という素粒子の一種も発見している。
理論は、現実を整理して表現するだけではなく、ありうる現象を予言することができる。また実験や観測は、科学を根本から支えると共に、理論が予言できなかった真実にまで到達することができる。この〈理論的想像力〉と〈実験的想像力〉は、科学のみならずSFにとっても、そしてすべての人間の知的営為にとっても、非常に重要だろう。ディラックは同じく理論物理学者のエルヴィン・シュレディンガーと共に一九三三年に、実験物理学者であるアンダーソンは一九三六年に、それぞれノーベル物理学賞を授与されている。
さて、結局のところ〈ディラックの海〉は実在するのだろうか。
ディラックの海に大きなエネルギーを与えると、電子が飛び出すと同時に空孔が生じ、空孔のほうは陽電子と見做すことができるという描像は――ディラック以後の多くの天才物理学者たちによって――空間に高エネルギーを加えて起こる〈対生成pair production〉だと解釈されていく。対生成とは、エネルギーから粒子と〈反粒子〉が生成する反応のことだ。粒子と質量などは同じで、電荷などのプラスマイナスが反転した〈反粒子〉の一つとしての陽電子が――電子と対になって――生成するのであり、現在では陽子と反陽子、ミュー粒子と反ミュー粒子など、様々な粒子と反粒子の対生成が確認されている。また逆反応として、粒子と反粒子がぶつかって膨大なエネルギーが生じる〈対消滅〉もある。これらの反応が起こりうるのが空間――正確には〈真空〉あるいは〈場〉――なのだと受け入れれば、ディラックの海という壮大な仮定は必要ない。ディラックの海は、より上位の理論(場の量子論)が確立していくまでの過渡期における〈理論的ガジェット〉だったのだ。
現代宇宙論における〈ダークマター〉や〈ダークエネルギー〉も、不可解な現象――銀河の回転速度や宇宙の大規模構造の成長速度が予測値と合わないことや宇宙が加速膨張していること――を説明するための〈理論的ガジェット〉と言えるだろう。ただ〈ディラックの海〉が理論上の矛盾点を解消するために強引に作られ、後から対応する現象が観測されたとの違って、〈ダークマター〉や〈ダークエネルギー〉は先に現象が観測されており、現象の原因として提案されているものだ。これらの名前にあるダークすなわち暗黒は、光では観測できない〈不可視〉のものであることに由来するが、これらの実在を示す現象は他にも多く発見されており、いずれ真相が明らかになって新たな名前が付けられることになろうとも、ディラックの海のように新しい理論に上書きされて消え去ってしまうことはなさそうだ。
ただ、ディラックの〈想像〉の海が、それまで誰も想像しなかったものの存在の可能性を指し示したことは紛れもない事実だ。陽電子の発見以降、次々と新しい粒子や反粒子が見つかり、素粒子理論は大きく発展する。今では〈超対称性粒子〉というものの存在も予想されているし、どうしてぼくたちの宇宙が通常の粒子からなる〈物質〉ばかりで、反粒子からなる〈反物質〉が見当たらないのか、といった話にまで広がっていく原点に、ディラックの海があったのだ。
ちなみに、ディラックの海を満たす負のエネルギーの電子を、物理学者のジョージ・ガモフは〈驢馬(ろば)電子 donkey electron〉と名付けた。負のエネルギーを持っているため、力を加えた方向とは逆向きに動くなど、通常の電子とは異なる奇妙な振る舞いをすると予想されるから――素直じゃないということなのか――欧米では強情さや愚鈍さの象徴と考えられている驢馬になぞらえたようだ。ただ、ディラックの海が素粒子理論の歴史の中で語られ、今でもそのアイデアが物性物理の分野などで多く用いられているのに比して、驢馬電子という言葉はほとんど使われていない。物理学用語としては文学的すぎたのだろうか。
以上のようなことを、一九二〇年生まれのアシモフは当然リアルタイムで知っていたはずで、一九五〇年出版の短編集『わたしはロボット』でも陽電子頭脳は登場している。だがアシモフでロボットと言えば、なんといっても〈ロボット工学三原則 Three Laws of Robotics〉だ。
1.A robot may not injure a human being or, through inaction, allow a human being to come to harm.(ロボットが人間を傷つけることは許されない。また人間が傷つくのを看過することも許されない。)
2.A robot must obey the orders given it by human beings, except where such orders would conflict with the First Law.(ロボットは人間によって与えられた命令に従わなければならない。但しその命令が第一条と矛盾する場合を除く。)
3.A robot must protect its own existence as long as such protection does not conflict with the First or Second Laws.(ロボットは第一条と第二条に矛盾しない限り自らの存在を守らなければならない。)
今あるロボットは、ぼくの私見だけれど、二つの理由からロボット工学三原則を満たしていない。一つは、この三原則がかなり難しい判断を下すことをロボット(の人工知能)に求めていることだ。第一条に関して、現時点のペットロボットやお掃除ロボットが――偶然が重なったとしても――人間を傷つけるような状況はそうそう起こり得ないだろうが、仮に家人が怪我をしそうな状況になっても守ってくれはしないし、救急車を呼ぶこともできない。第二条にしても予め定められた数種類の命令以外は聞いてくれないし、第三条についても自分で充電器に接続することの他に自らを守る機能もない。その必要最低限の身体では世界を感じることなんてできないし、自意識も持っていない。掃除の意味すら知らないロボットが、どうして〈傷〉なんてものを理解できるだろう。
三原則が満たされないもう一つの理由は、特に軍事ロボットの分野においては、そもそも設計する人間がアシモフの三原則を守ろうとしていないことがすべてだろう。味方の人間の救命を主目的とした軍事ロボットも開発されているかもしれないが、多くの軍事ロボットはロボット工学三原則の第一条に真っ向から矛盾する。第二条や第三条は遵守されたとして、第一条を無視している以上ほとんど意味はない。
ぼくがAIの兵器転用について伺うと、三宅さんはその方向の研究が進んでいることを非常に懸念しておられた。
「現在のAIは自分自身で課題を作り出すことができません。これは極めて重要なAIの性質です。AIは人間が想定したフレーム(枠)の中で問題を解きます。そこから逸脱して、課題を作り出すこと、問題を新しく設定することはできません。ディープラーニングでも同様です。そして、戦闘という課題と目的を与えるのが、人間であることは明らかですから、武器としてのAIが人を殺すのではなくて、人が人を殺しているわけです。人工知能が知能を持っているからと言って、その責任を人工知能にすり替えることはできません」
人間が新しい問題を見つけられるのは、自分と異なる世界に触れられるからだ。そしてそれを可能にしているのは〈身体〉に他ならない。身体は知能のフレームとして機能しながら、フレームを超えて外界へと越境する機能をも有しているのだ。
塊としての〈身体〉を自己のものとして持てば、必然的に塊の外側には〈世界〉が非自己として立ち現れてくる。そして、〈身体〉と〈世界〉、すなわち自己と非自己の境界上に、〈自意識〉を伴った〈知能〉が生まれる。世界と繋がることなく〈与えられた課題〉の中に留まり続けていれば、新たな課題が生じることはないし、わざわざ課題を見つける必然性もない。世界も自意識も、倫理も行動も、〈身体〉なしには存在しない、ということだ。
三宅さんはおっしゃる。――蟻には蟻の身体があって、固有の環境があって、固有の知能があるはずだと。
そう考えると、知能にとって、世界は身体の拡張みたいなものに思えてくる。身体は〈拡張可能性〉を持ったフレームなのだと言ってもいいかもしれない。〈拡張可能性〉としての身体を持たないAIは、新たな課題を発見しない/できない代わりに、与えられた課題を解決する能力に長けている。
逆に言えば、身体を持つがゆえに人間は――自意識を得るのと引き換えに――否応なく世界に開かれている。人間の身体の〈拡張可能性〉は強力で、人間知性がどんなに〈内的宇宙〉たる自意識の内部に留まろうとしても、すぐに外部世界へと開かれてしまう。意識が集中せず、外に拡散してしまうのは、身体的な必然なのだ――というと、目の前の課題に専念できない言い訳になるだろうか。
そして、人間が主体的に関わる第一の外部は〈他者〉であり、複数の他者が織り成す〈社会〉だ。それゆえ社会のルールとしての〈倫理〉は、人間知性の自然な拡張と見做すことができる。ならば、〈人間とは異なる知性〉であるAIに対して、人間知性の拡張たる〈倫理〉を適用することには――軍事利用されるAIだけが倫理にそぐわないのではなく――そもそもの限界があるのかもしれない。
現時点のAIに倫理はありうるのだろうか。三宅さんに伺った。
「倫理はAIではなく、人間に対するものです。アシモフの三原則は、ロボットの行動を制限する倫理というよりは、人間にAIを悪用させないための、人間に対する抑止力としての原理だと思います。つまり第一原則はロボットの制限であると同時に、人間がAIを使って人間を傷つけないようにするための原理なのです」
ソクラテスはただ生きるのではなく善く生きることの重要性を説いた。身体なきAIはそもそも生きているとは言えない。生きていない存在者に善く生きるための倫理なんて必要ないのだ。
では〈丸ごとの知能〉に倫理はありうるのだろうか。あったとすればどのようなものになるだろうか。〈現実2.0〉では都市や地球全体を、〈丸ごとの知能〉が環境を理解した上で調整することになるだろうが――日常的な環境問題として街路の温度ひとつ考えてみても、個人や店舗それぞれの希望の温度があるはずで――ひどく複雑な応用倫理の問題を解かなければならなくなる。まして、地球や火星の惑星環境を丸ごと改変しようとするようなとき、人間は〈丸ごとの知能〉に対して倫理を与えることができるだろうか。むしろ〈丸ごとの知能〉が新しい倫理を――人間と共同か、あるいは単独で――作るかもしれない。その倫理が、人と人のあいだを超えて、人とAIと世界を融和するものになると良いのだけれど。
「〈丸ごとの知能〉が社会を認識しない限り、倫理は生成し得ないでしょう」
三宅さんによると『The Sims』という人生シミュレーションゲーム――2000年に第一作が発表され2014年の第四作が最新作の人気シリーズで、パソコンや様々な家庭用ゲーム機で遊ぶことができる――では、遊び手がシムと呼ばれるキャラクターたちに行動の指示を与えたり家を作ったりして楽しむのだが、シムたちはキャラクターAIによって自律的に動き回る。このAIの行動原理に、アメリカの心理学者アブラハム・マズローの仮説――〈欲求の階層hierarchy of needs〉が取り入れられているのだ。マズローは人間の欲求が、低次から高次に――生理的欲求、安全や生活の安定への欲求、愛情や社会的所属への欲求、承認欲求、自己実現欲求――五段階に分類できると考えた。
マズローの説は欲求についての一つの仮説あるいは意見に過ぎないが、AIは社会どころか目の前のコップすら認識できない段階であり、自らの倫理を作ることはまだまだ先のことだ。シムたちの倫理すなわち行動原理は、あらかじめプログラムしておくしかない。 半世紀も前の――今では多くの研究者から疑義を呈されてもいる――マズローの仮説が使われたのは、欲求を五つに階層化して数値的に人間の行動目標を表すため、キャラクターの制御に都合が良かったからだろう。簡単な行動パターンであれば、コンピュータの計算量を減らすこともできる。ただ、そのようなシンプルな意思決定AIなのだから当然のことだが、シムたちの行動はどうしても類型的だし、それゆえ状況にそぐわない振る舞いも多い。
いずれはシムたちがゲーム内の世界で、シム独自の倫理を作ることもあるのだろうが、三宅さんによれば、可能性は充分あるもののかなり先になるとのことだった。
前回少し考えた、映画の美しさや面白さを評価するAIが実現するとすれば、それは映画を自らの身体によって感取できる〈丸ごとの知能〉となるだろう。映画をデータ処理して機械的に特徴量を抜き出すなんて、実際に鑑賞せずにあらすじだけで評価するようなものだ。
まして倫理や美、そして世界を新たに作り出すような人工知能には、世界に確かに触れることのできる身体がどうしても必要だ。
科学哲学者のイアン・ハッキングは『表現と介入』(1983)において、理論は自然現象を擬似的に〈表現〉したものに過ぎないとし、実験や観測といった自然への〈介入〉の役割を分析した。ディラックの海が新しい理論に回収されていったように、理論は一時的に正しいと判断されても、新しい理論が登場するたび、常に上書きされる宿命にある。今ある理論はすべて暫定的な表現なのであり、せいぜい世界の不完全な鏡像に過ぎないのだ。ところが実験は――実験結果の解釈などは理論が変わるたびに変更されるけれど――変わることはない。世界への〈介入〉である実験こそが真の実在に触れうるのであり、介入なくしては世界は顕現しない。
これは多分〈理論的想像力〉と〈実験的想像力〉の、優劣というよりは、差異の問題なのだ。
たとえば未知の現象を〈予言〉することは、理論にも実験にも可能だ。理論は自然現象の〈表現〉を深化させることで未知の現象を予言し、実験は自然に〈介入〉することで未知の現象そのものを直に取り出す。
前回、三宅さんが人工知能のことを様々な業界の人たちに発信するなかで「誰もいない海に叫んでいるような気分」を感じたというお話があったが、その海もまた叫びという〈介入〉があったからこそ顕現したのだ。何もしなければ、〈海〉は現出しない。
どうして三宅さんは、そしてぼくたちは、世界に介入しようとするのだろうか。意を決して介入しても、まったく手応えがなくて虚しくなることもあるだろうし、思いがけずひどい目にあうこともあるだろう。
知能について――人工のものにしろ自然のものにしろ――ここまで書いてきて、今や答えは明確であるように思える。知るということは、未知の世界に――自分が知らないことに、そして誰も知らないことに――手を伸ばすことに他ならない。
アイザック・ニュートンが言ったとされる言葉がある。彼は数式で書かれた美しい理論をいくつも作り上げたけれど、多くの実験をしたことでも知られている。
I do not know what I may appear to the world, but to myself I seem to have been only like a boy playing on the seashore, and diverting myself in now and then finding a smoother pebble or a prettier shell than ordinary, whilst the great ocean of truth lay all undiscovered before me.(私は自分が世間にどう見えているかは知らないが、私自身にしてみれば自分は単に海辺で遊んでいる少年みたいなものだった。目の前には真理の大海がまるで知られぬまま広がっているのに、時折いつもよりなめらかな小石やきれいな貝殻を見つけては喜んでいるだけの)――Memoirs of the Life, Writings, and Discoveries of Sir Isaac Newtonより
これは光学の法則に名前を残す著名な物理学者ディヴィッド・ブリュースターが著したニュートンの伝記にある言葉だが、実際にニュートン本人が言ったのかは定かではない。ブリュースターが上の伝記を出版したのは一八五五年、ニュートンが亡くなったのは一七二七年だ。
しかし有名な林檎のエピソードと同様、実際にニュートンがそう語った可能性は充分にあるとぼくは思う。半世紀を経て、ニュートンが言った言葉として伝わり、ブリュースターが事実だと信じるくらいには、ニュートンらしい言葉だということだ。
ニュートンは力学の体系を作り上げ、光学などでも大きな業績をいくつも残したけれど、その彼だからこそ、世界の不可解さや人間の理性の限界について、そして自らの限界について、その当時の誰よりも知っていたはずだ。晩年まで精力的に、様々な分野の研究を続けていたことも傍証になるだろう。なかには十七世紀にはすでにオカルトと見做され、タブー視されていた〈錬金術〉も含まれていたが、彼は錬金術士たちの秘密主義などには否定的で、あくまでも自然を探求する実験科学として取り組んでいた。彼の私的な文書には、彼が当時としては極めて精密に――重さを四分の一グレーン(およそ0.01グラム)ほどの単位で測るなど――実験していた結果が遺されている。
ニュートンは「Hypotheses non fingo(私は仮説をたてない)」と述べた。それは実験を重視するという実証主義的な表明であり、説明のための無理な仮説は作るべきではないという彼の個人的な主張でもある。後年、彼も仮説を立ててはいるが、実験による検証をおろそかにすることはなかった。そんな彼が錬金術の神秘主義的な説明で納得したはずもない。彼はタブーに囚われることなく、時代の制約のなかで最も合理的に――それがつまりは科学的ということだろう――自らの知りたいことに近づこうとしていただけなのだ。 ニュートンの伝記は二十一世紀になっても書かれていて――これまでのものと同様イギリスの作家の手によるものが多いのは当然として――そのうちの一冊、James GleickのIsaac Newton(2004)によると、ニュートンは海で遊んだことはおろか見たこともなく、先の言葉はジョン・ミルトンによる叙事詩『復楽園』Paradice regain’d(1671)からの引用だという。そうかもしれない。一部引用する。
Uncertain and unsettl'd still remains,
Deep verst in books and shallow in himself,
Crude or intoxicate, collecting toys,
And trifles for choice matters, worth a spunge;
As Children gathering pibles on the shore.
(不確かで落ち着かないまま、
書は深く、自らは浅く、
未熟なのか酔っ払っているのか、
海綿くらいの価値しかない物たちを大切そうに集めている;
まるで海辺で小石を集める子供のように。)
きっとぼくたちは世界を知りたいのではなく――たった一つだけでいいから、そしてささやかでいいから――未知の何かに触れてみたいのだ。世界と自分が出会い、理論と実験が相補的に発展して、異なる現実が重なり合う。その接触の場こそが〈丸ごとの知能〉なのではないだろうか。〈接触〉の場においては個別的な境界が消え、固有名が融解する。〈丸ごとの知能〉にこれといった名前がないのも当然だったのだ。それは指差せるようなものではなく、広がり続ける〈場〉なのだ。
アメリカの中華料理店で相席した女の子の名前は聞かなかったように思う。一回限りの相席の場で名乗り合うことは稀だろう。特に二人の場合は〈きみ〉と〈ぼく〉で事足りる。
偶然的な〈接触〉においては、名前のような言語的記号よりも、身振り手振りといった非言語的表象のほうを重視しなくてはならない。罰ゲームで寿司を食べるという彼女は快活に喋り、運ばれてくる中華料理をぱくぱくと食べていた。香辛料を多用した本格的な中華料理ではなく、日本化された中華でもなく、非常に平板で濃厚な味付けだったけれど、彼女が異文化の料理を「異文化だから」といった理由で嫌がっていたのではないのは明らかだった。
生魚やワサビを食べたことがないという彼女が空想し、かつ忌避していた味はきっと曖昧模糊としたものだったはずだ。味覚というものはかなり身体的なもので、舌で味を覚えるということはあるものの、初めての調理法や素材の味覚を想像することはひどく難しい。恐怖には対象があるが、不安には対象がないと言ったのはサルトルだったか――とにかく彼女はただの〈食わず嫌い〉で、未知のものに対する不安を「寿司を食べるなんて信じられない」という言い方で表現していたに過ぎないのであり、それに対して「寿司が罰なんて信じられない」と返したぼくは端的に言って愚かだったのだ。
今のぼくだったらどう話しただろうと考えてみる。
ちょっとした悪戯として、演劇めいた険しい顔で「寿司か。慣れていない人には厳しいかもしれない」とでも言っておけば、アメリカの寿司は当時も非常に水準の高いものだったから、いざ彼女が食べたとき、ぼくの脅かしの言葉を思い出して、にやりと笑ったかもしれない。当の中華料理店での会話も、もう少しは盛り上がったのではないだろうか。
とはいえ、ぼくはそれを確かめることはできない。
味を舌で〈直に〉感じることができるように、〈記憶の手触り〉みたいなものを脳で感じることはできるかもしれないけれど、記憶と現実世界は違う。残念ながら、記憶のなかの会話は、おぼろげに〈表現〉することはできても、実際に相手の反応を確かめるような〈介入〉はできない。ぼくたちが、世界と切れ目なく繋がった身体を用いて思考している以上、時間的かつ空間的に離れれば離れるほど〈介入可能性〉が減少するのは必定であり、世界を理解することからも遠ざかってしまう。
いつか実現する〈丸ごとの知能〉――現実2.0のどこかで自らの身体を持って、世界と自分を感じる知能――との最初の会話は、記号としての言葉だけでなく声色や身振りといった身体的表現を伴うものであるだろうが、それでもほとんど手がかりのない未知のものになるだろう。
新しい知性と語り合うためには、ぼくたち人間の側も――もしかすると〈丸ごとの知能〉の助けを借りてでも――自らの知性に介入し、知性を書き換え、あるいは自らを拡張しなくてはならないだろう。それは普段の学習とはまるで違う、知性に対する根源的な介入となるはずだ。
開発当初、一部屋を埋めるほど巨大だった機械式計算機は瞬く間に小型化し、個人用化してパソコン(PC:Personal Computer)となった。そろそろ「一家に一台」となりそうなロボットは、より高性能化しながら、個人用ロボット(Personal roBot)すなわちPBとして、ぼくたちの生活に入ってくるはずだ。それとほぼ同時に、現行のパソコン上で動くような情報処理ソフトとはまったく異なる新しいAIが、個人用人工知能(Personal Artificial intelligence)すなわちPAとして登場するだろう。
――と、言葉遊びをしながら、ようやく〆切直前になって新しい言葉を見つけた気分に浸っていたのだけれど、PBはともかく、PA(Personal AI)なんてありえないことに気がついた。新しい知能が今のAIとはまるで異なる〈丸ごとの知能〉で、つまり自分の身体を持っていて、自意識も持っていて、自分で世界を感じるような知能であるならば、それを――人工的に作ることは可能だとしても――個人用として所有することは避けるべきだろう。おそらくPAは限りなく奴隷に近いものだ。「バイセンテニアル・マン」のアンドリューは購入者の一家に家族の一員として扱われるけれど、それでもなお真の自由を求めたのだった。
もし〈PA〉がありうるとすれば、それは公共の(Public)AIか、相棒(Partner)としてのAIだろう。そうしたPAを〈PAi〉と名付けよう。〈PAi〉たちは自らの意志をもって、自由に行動する。倫理は自ら作り出すだろうし、性別などが必要になれば自らの身体性として獲得していくだろう。すべての生命が自らの環境を書き換えていくのとまったく同じように。
ぼくたちの現実が〈PAi〉によって2.0か2.1バージョンに書き換えられて、再びどこかの中華料理店であの彼女に会えたとしたら、そのときにはぼくの知性や言葉はいくらか新しくなっているだろうし、PAiからの優れたアドバイスも貰えるだろうから、この前よりも少しは上手く話ができるのではないだろうかと考えてみる。世界が書き換えられなければ話せないなんて〈壮大すぎる仮定〉だけれど、そうしないと達成できないことだってあるだろう。
しかしぼくも、第4回の将棋ソフトと前回と今回のゲームAIについて最前線の方々にお話を伺ってきて、AIの可能性と限界について、ある程度は理解しているつもりだ。どれだけAIが進化しても、そして何度、世界が書き換えられても――ぼくたちが〈身体〉を持ち、そこから必然的に生じる自己と〈世界〉との境界を〈知能〉によって調整する、この存在の仕方を選択し続ける以上は――ぼくたちは必ず境界上に立ち、境界の外の未知と向き合うことになる。
だから、見知らぬ誰かとの〈相席〉は、すべての知性にとって不可避のものだ。いつか、PBやPAiに導かれて〈相席〉することになるだろう相手は、PBやPAiとも異なる、まったく未知の誰かであり、またしてもぼくはほとんど徒手空拳で、即興の会話をすることになる。そんな〈シンギュラリティ〉みたいな相席に対して、何か準備ができるはずもない。どんな相手が来るのか、どんな話になるのか、〈想像〉もつかないけれど、〈食わず嫌い〉をしたりしないで、いつかの相席を楽しみにすることにしよう。
(次回は仏教がテーマです。先日、友人が住職をしている寺で坐禅を組む機会があり、仏教では〈想像をしない〉という話になりました。もう少し詳しく聞いてきます。)
三宅陽一郎(みやけ・よういちろう/ゲームAI研究者、開発者)
1975年兵庫県生まれ。京都大学で数学を専攻、大阪大学(物理学修士)、東京大学工学系研究科博士課程(単位取得満期退学)。国際ゲーム開発者協会(IGDA)日本ゲームAI専門部会代表、日本デジタルゲーム学会(DiGRA JAPAN)理事、CEDECアドバイザリーボード、人工知能学会会員。デジタルコンテンツシンポジウム第4回 船井賞受賞(2008)、CEDEC AWARDS 2010 プログラミング・開発環境部門優秀賞。日本デジタルゲーム学会2011年若手奨励賞受賞。大手ゲーム会社でデジタルゲームにおける人工知能技術の理論的確立と実際のゲームタイトルへの具体的導入に従事。共著『デジタルゲームの教科書』『デジタルゲームの技術』、 翻訳監修『ゲームプログラマのためのC++』『C++のためのAPIデザイン』(以上、ソフトバンク クリエイティブ)、『はじめてのゲームAI』(WEB+DB PRESS Vol.68、技術評論社)。論文、講演資料はブログ「y_miyakeのゲームAI千夜一夜」にて公開中。
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一九二八年、理論物理学者のポール・ディラックは、量子力学に特殊相対性理論を組み込んだディラック方程式を導出し、その方程式の解として、負のエネルギーを持つ未知の粒子の存在を理論的に予言した。
だがエネルギーは基本的に負にならない。特殊相対性理論の公式E=mc^2から、エネルギーEと質量mは等価であるため、質量を持っている電子のエネルギーが〈ゼロ〉になることもない。加えて、量子力学の〈不確定性原理〉から、電子は完全に静止することができず振動し続けているため、〈零点エネルギー〉という非負のエネルギーも持っている。一般にエネルギーは――身長や体重のように――必ずゼロより大きな正(非負)であるはずなのだ。
もし負のエネルギーの状態がありうるなら、エネルギーの値は小さければ小さいほど安定な状態なので、正のエネルギーを持つ通常の電子は止めどなくエネルギーを失って――正よりもゼロよりも小さい――負のエネルギーを持つようになり、最終的にはこの世から正のエネルギーの電子はすべて消失するはずだが、そのような事実はない。ディラックは自らの理論内の矛盾を解消するため、仮説の海、〈ディラックの海〉を作り出したのだった。
細微の世界を記述する量子力学には、二つ以上の電子がまったく同じ状態に重なり合って存在することを禁じる、〈パウリの排他原理〉がある。こちらは一九二五年のヴォルフガング・パウリの業績で、ノーベル物理学賞を一九四五年に受賞している。電子は――量子力学に従って、位置やエネルギーの値などで指定される、整数のように飛び飛びに離散化した――いわゆる〈量子状態〉のいずれかにあるわけだが、パウリの排他原理によると、一つの状態には一つの電子しか入ることができない。それぞれの電子は一つの状態を〈占有〉し、他の電子を〈排他〉するのだ。
だから、すべての負のエネルギーの状態が全空間にわたって、無限個の観測不能の電子によって隙間なく〈占有〉されていると仮定すれば、正のエネルギーの電子がどれだけエネルギーを失っても――負のエネルギーの状態は既に「満席」なので、排他されてしまい――「空席」のある正のエネルギーにしか存在できないことになる。それゆえ正のエネルギーの電子しか観測されないのだ、とディラックは考えた。この、負のエネルギーの状態にある無限個の電子の総体が〈ディラックの海〉だ。見ることも触れることもできない、負の方向に無限に深い海が全空間に広がって、正のエネルギーの電子を負のエネルギーの状態から排他しているという仮定なのだ。
一見して自然現象と矛盾しているのだから、単に自らの方程式が間違っていると考えても良さそうなものだが、この方程式は一つの式で他の多くの現象を記述できたため、ディラックは排他原理とディラックの海という二つの仮定を自らの理論に導入して、負のエネルギーがあることを証明しようとしたのだった。
ただ、これで負のエネルギーの電子が観測されない理由は説明できたとしても、今度は〈ディラックの海〉が実在するのかという疑問が生じる。観測不可能なもので現象を説明するなら、すべてを〈神の御業〉と考えるのと同じだ。
ディラックは〈ディラックの海〉に対して――この〈海〉は観測できないけれど空間全体に広がっているという仮定なのだから、つまりは空間に対して――充分に大きい正のエネルギーを加えればどうなるか考えた。〈思考実験〉だ。ディラックの海のなかで負のエネルギーを持っていた電子は、その正のエネルギーを受け取ることで、単純な算数の結果、差の分だけの正のエネルギーを持つことになる。これはディラックの海の上に飛び出して、現実の普通の電子として観測されるはずだ。
と同時に、ディラックの海には、その電子があったところに空隙ができるだろう。負のエネルギーの電子が隙間なく充満しているのが、ディラックの海だからだ。電子の代わりに開いた空洞、〈海〉についた傷を、ディラックは〈空孔 hole〉と名付けた。〈空孔〉は、〈海〉から飛び出した電子と併せて電気的に中性になるため――電子の電荷はマイナスだから――プラスの電荷を持たねばならない。電荷を持つということはつまり、〈空孔〉はただの不在や空虚ではなく、何らかの素粒子なのだろう。そして素粒子である以上は――ディラックの海とは異なり――飛び出した電子と同様に、この〈空孔〉も現実的に観測することもできるはずだ。ディラックは紆余曲折を経てこれを未知の素粒子、〈陽電子〉であると予想した。一九三一年のことだ。陽電子が見つかれば、ディラックの海が実在する間接的な証拠になる。
そして翌一九三二年、アメリカの物理学者カール・デイヴィット・アンダーソンは、ディラックの理論のことなど知らないまま、宇宙線の観測中に偶然、〈空孔〉に相当する――電荷などのプラスマイナスが反転していること以外はすべて電子と等しい素粒子――〈陽電子〉を発見した。宇宙線とは宇宙から常に降り注いでいる様々な素粒子のことだが、アンダーソンはその観測のために特に大掛かりな観測装置ではなく、十九世紀末に開発された〈霧箱 cloud chamber〉を用いたのだった。霧箱とは、その名の通り、小さな箱のなかに霧を発生させるものだ。シャーレやペットボトルをドライアイスで冷やしたような簡易な装置でも――どんな実験にも付き物の〈コツ〉は色々とあるのだけれど――宇宙や地球から飛来する素粒子の姿を捉えることができる。
素粒子は〈霧箱〉のなかを通り抜けるとき、通過した近傍の気体分子をイオン化していく。このイオン化された分子の周りに水分子が凝結し、濃い霧となって、素粒子の飛跡が線状に人間の目に見えるのだ。毎秒数本の頻度で現れる飛跡の霧は、溶けるように崩れながら消えていく。
霧箱は非常にシンプルというか、簡素な〈仕組み〉の観測装置だが、現代の巨大な加速器だって――最先端技術がふんだんに投入されているとはいえ――根本的には素粒子と素粒子をぶつけているのだ。単純だからこそ、広く深く世界を探求し、真理を明らかにできるのだろう。アンダーソンは後に同じく霧箱を用いた観測によって、ミュー粒子という素粒子の一種も発見している。
理論は、現実を整理して表現するだけではなく、ありうる現象を予言することができる。また実験や観測は、科学を根本から支えると共に、理論が予言できなかった真実にまで到達することができる。この〈理論的想像力〉と〈実験的想像力〉は、科学のみならずSFにとっても、そしてすべての人間の知的営為にとっても、非常に重要だろう。ディラックは同じく理論物理学者のエルヴィン・シュレディンガーと共に一九三三年に、実験物理学者であるアンダーソンは一九三六年に、それぞれノーベル物理学賞を授与されている。
さて、結局のところ〈ディラックの海〉は実在するのだろうか。
ディラックの海に大きなエネルギーを与えると、電子が飛び出すと同時に空孔が生じ、空孔のほうは陽電子と見做すことができるという描像は――ディラック以後の多くの天才物理学者たちによって――空間に高エネルギーを加えて起こる〈対生成pair production〉だと解釈されていく。対生成とは、エネルギーから粒子と〈反粒子〉が生成する反応のことだ。粒子と質量などは同じで、電荷などのプラスマイナスが反転した〈反粒子〉の一つとしての陽電子が――電子と対になって――生成するのであり、現在では陽子と反陽子、ミュー粒子と反ミュー粒子など、様々な粒子と反粒子の対生成が確認されている。また逆反応として、粒子と反粒子がぶつかって膨大なエネルギーが生じる〈対消滅〉もある。これらの反応が起こりうるのが空間――正確には〈真空〉あるいは〈場〉――なのだと受け入れれば、ディラックの海という壮大な仮定は必要ない。ディラックの海は、より上位の理論(場の量子論)が確立していくまでの過渡期における〈理論的ガジェット〉だったのだ。
現代宇宙論における〈ダークマター〉や〈ダークエネルギー〉も、不可解な現象――銀河の回転速度や宇宙の大規模構造の成長速度が予測値と合わないことや宇宙が加速膨張していること――を説明するための〈理論的ガジェット〉と言えるだろう。ただ〈ディラックの海〉が理論上の矛盾点を解消するために強引に作られ、後から対応する現象が観測されたとの違って、〈ダークマター〉や〈ダークエネルギー〉は先に現象が観測されており、現象の原因として提案されているものだ。これらの名前にあるダークすなわち暗黒は、光では観測できない〈不可視〉のものであることに由来するが、これらの実在を示す現象は他にも多く発見されており、いずれ真相が明らかになって新たな名前が付けられることになろうとも、ディラックの海のように新しい理論に上書きされて消え去ってしまうことはなさそうだ。
ただ、ディラックの〈想像〉の海が、それまで誰も想像しなかったものの存在の可能性を指し示したことは紛れもない事実だ。陽電子の発見以降、次々と新しい粒子や反粒子が見つかり、素粒子理論は大きく発展する。今では〈超対称性粒子〉というものの存在も予想されているし、どうしてぼくたちの宇宙が通常の粒子からなる〈物質〉ばかりで、反粒子からなる〈反物質〉が見当たらないのか、といった話にまで広がっていく原点に、ディラックの海があったのだ。
ちなみに、ディラックの海を満たす負のエネルギーの電子を、物理学者のジョージ・ガモフは〈驢馬(ろば)電子 donkey electron〉と名付けた。負のエネルギーを持っているため、力を加えた方向とは逆向きに動くなど、通常の電子とは異なる奇妙な振る舞いをすると予想されるから――素直じゃないということなのか――欧米では強情さや愚鈍さの象徴と考えられている驢馬になぞらえたようだ。ただ、ディラックの海が素粒子理論の歴史の中で語られ、今でもそのアイデアが物性物理の分野などで多く用いられているのに比して、驢馬電子という言葉はほとんど使われていない。物理学用語としては文学的すぎたのだろうか。
以上のようなことを、一九二〇年生まれのアシモフは当然リアルタイムで知っていたはずで、一九五〇年出版の短編集『わたしはロボット』でも陽電子頭脳は登場している。だがアシモフでロボットと言えば、なんといっても〈ロボット工学三原則 Three Laws of Robotics〉だ。
1.A robot may not injure a human being or, through inaction, allow a human being to come to harm.(ロボットが人間を傷つけることは許されない。また人間が傷つくのを看過することも許されない。)
2.A robot must obey the orders given it by human beings, except where such orders would conflict with the First Law.(ロボットは人間によって与えられた命令に従わなければならない。但しその命令が第一条と矛盾する場合を除く。)
3.A robot must protect its own existence as long as such protection does not conflict with the First or Second Laws.(ロボットは第一条と第二条に矛盾しない限り自らの存在を守らなければならない。)
今あるロボットは、ぼくの私見だけれど、二つの理由からロボット工学三原則を満たしていない。一つは、この三原則がかなり難しい判断を下すことをロボット(の人工知能)に求めていることだ。第一条に関して、現時点のペットロボットやお掃除ロボットが――偶然が重なったとしても――人間を傷つけるような状況はそうそう起こり得ないだろうが、仮に家人が怪我をしそうな状況になっても守ってくれはしないし、救急車を呼ぶこともできない。第二条にしても予め定められた数種類の命令以外は聞いてくれないし、第三条についても自分で充電器に接続することの他に自らを守る機能もない。その必要最低限の身体では世界を感じることなんてできないし、自意識も持っていない。掃除の意味すら知らないロボットが、どうして〈傷〉なんてものを理解できるだろう。
三原則が満たされないもう一つの理由は、特に軍事ロボットの分野においては、そもそも設計する人間がアシモフの三原則を守ろうとしていないことがすべてだろう。味方の人間の救命を主目的とした軍事ロボットも開発されているかもしれないが、多くの軍事ロボットはロボット工学三原則の第一条に真っ向から矛盾する。第二条や第三条は遵守されたとして、第一条を無視している以上ほとんど意味はない。
ぼくがAIの兵器転用について伺うと、三宅さんはその方向の研究が進んでいることを非常に懸念しておられた。
「現在のAIは自分自身で課題を作り出すことができません。これは極めて重要なAIの性質です。AIは人間が想定したフレーム(枠)の中で問題を解きます。そこから逸脱して、課題を作り出すこと、問題を新しく設定することはできません。ディープラーニングでも同様です。そして、戦闘という課題と目的を与えるのが、人間であることは明らかですから、武器としてのAIが人を殺すのではなくて、人が人を殺しているわけです。人工知能が知能を持っているからと言って、その責任を人工知能にすり替えることはできません」
人間が新しい問題を見つけられるのは、自分と異なる世界に触れられるからだ。そしてそれを可能にしているのは〈身体〉に他ならない。身体は知能のフレームとして機能しながら、フレームを超えて外界へと越境する機能をも有しているのだ。
塊としての〈身体〉を自己のものとして持てば、必然的に塊の外側には〈世界〉が非自己として立ち現れてくる。そして、〈身体〉と〈世界〉、すなわち自己と非自己の境界上に、〈自意識〉を伴った〈知能〉が生まれる。世界と繋がることなく〈与えられた課題〉の中に留まり続けていれば、新たな課題が生じることはないし、わざわざ課題を見つける必然性もない。世界も自意識も、倫理も行動も、〈身体〉なしには存在しない、ということだ。
三宅さんはおっしゃる。――蟻には蟻の身体があって、固有の環境があって、固有の知能があるはずだと。
そう考えると、知能にとって、世界は身体の拡張みたいなものに思えてくる。身体は〈拡張可能性〉を持ったフレームなのだと言ってもいいかもしれない。〈拡張可能性〉としての身体を持たないAIは、新たな課題を発見しない/できない代わりに、与えられた課題を解決する能力に長けている。
逆に言えば、身体を持つがゆえに人間は――自意識を得るのと引き換えに――否応なく世界に開かれている。人間の身体の〈拡張可能性〉は強力で、人間知性がどんなに〈内的宇宙〉たる自意識の内部に留まろうとしても、すぐに外部世界へと開かれてしまう。意識が集中せず、外に拡散してしまうのは、身体的な必然なのだ――というと、目の前の課題に専念できない言い訳になるだろうか。
そして、人間が主体的に関わる第一の外部は〈他者〉であり、複数の他者が織り成す〈社会〉だ。それゆえ社会のルールとしての〈倫理〉は、人間知性の自然な拡張と見做すことができる。ならば、〈人間とは異なる知性〉であるAIに対して、人間知性の拡張たる〈倫理〉を適用することには――軍事利用されるAIだけが倫理にそぐわないのではなく――そもそもの限界があるのかもしれない。
現時点のAIに倫理はありうるのだろうか。三宅さんに伺った。
「倫理はAIではなく、人間に対するものです。アシモフの三原則は、ロボットの行動を制限する倫理というよりは、人間にAIを悪用させないための、人間に対する抑止力としての原理だと思います。つまり第一原則はロボットの制限であると同時に、人間がAIを使って人間を傷つけないようにするための原理なのです」
ソクラテスはただ生きるのではなく善く生きることの重要性を説いた。身体なきAIはそもそも生きているとは言えない。生きていない存在者に善く生きるための倫理なんて必要ないのだ。
では〈丸ごとの知能〉に倫理はありうるのだろうか。あったとすればどのようなものになるだろうか。〈現実2.0〉では都市や地球全体を、〈丸ごとの知能〉が環境を理解した上で調整することになるだろうが――日常的な環境問題として街路の温度ひとつ考えてみても、個人や店舗それぞれの希望の温度があるはずで――ひどく複雑な応用倫理の問題を解かなければならなくなる。まして、地球や火星の惑星環境を丸ごと改変しようとするようなとき、人間は〈丸ごとの知能〉に対して倫理を与えることができるだろうか。むしろ〈丸ごとの知能〉が新しい倫理を――人間と共同か、あるいは単独で――作るかもしれない。その倫理が、人と人のあいだを超えて、人とAIと世界を融和するものになると良いのだけれど。
「〈丸ごとの知能〉が社会を認識しない限り、倫理は生成し得ないでしょう」
三宅さんによると『The Sims』という人生シミュレーションゲーム――2000年に第一作が発表され2014年の第四作が最新作の人気シリーズで、パソコンや様々な家庭用ゲーム機で遊ぶことができる――では、遊び手がシムと呼ばれるキャラクターたちに行動の指示を与えたり家を作ったりして楽しむのだが、シムたちはキャラクターAIによって自律的に動き回る。このAIの行動原理に、アメリカの心理学者アブラハム・マズローの仮説――〈欲求の階層hierarchy of needs〉が取り入れられているのだ。マズローは人間の欲求が、低次から高次に――生理的欲求、安全や生活の安定への欲求、愛情や社会的所属への欲求、承認欲求、自己実現欲求――五段階に分類できると考えた。
マズローの説は欲求についての一つの仮説あるいは意見に過ぎないが、AIは社会どころか目の前のコップすら認識できない段階であり、自らの倫理を作ることはまだまだ先のことだ。シムたちの倫理すなわち行動原理は、あらかじめプログラムしておくしかない。 半世紀も前の――今では多くの研究者から疑義を呈されてもいる――マズローの仮説が使われたのは、欲求を五つに階層化して数値的に人間の行動目標を表すため、キャラクターの制御に都合が良かったからだろう。簡単な行動パターンであれば、コンピュータの計算量を減らすこともできる。ただ、そのようなシンプルな意思決定AIなのだから当然のことだが、シムたちの行動はどうしても類型的だし、それゆえ状況にそぐわない振る舞いも多い。
いずれはシムたちがゲーム内の世界で、シム独自の倫理を作ることもあるのだろうが、三宅さんによれば、可能性は充分あるもののかなり先になるとのことだった。
前回少し考えた、映画の美しさや面白さを評価するAIが実現するとすれば、それは映画を自らの身体によって感取できる〈丸ごとの知能〉となるだろう。映画をデータ処理して機械的に特徴量を抜き出すなんて、実際に鑑賞せずにあらすじだけで評価するようなものだ。
まして倫理や美、そして世界を新たに作り出すような人工知能には、世界に確かに触れることのできる身体がどうしても必要だ。
科学哲学者のイアン・ハッキングは『表現と介入』(1983)において、理論は自然現象を擬似的に〈表現〉したものに過ぎないとし、実験や観測といった自然への〈介入〉の役割を分析した。ディラックの海が新しい理論に回収されていったように、理論は一時的に正しいと判断されても、新しい理論が登場するたび、常に上書きされる宿命にある。今ある理論はすべて暫定的な表現なのであり、せいぜい世界の不完全な鏡像に過ぎないのだ。ところが実験は――実験結果の解釈などは理論が変わるたびに変更されるけれど――変わることはない。世界への〈介入〉である実験こそが真の実在に触れうるのであり、介入なくしては世界は顕現しない。
これは多分〈理論的想像力〉と〈実験的想像力〉の、優劣というよりは、差異の問題なのだ。
たとえば未知の現象を〈予言〉することは、理論にも実験にも可能だ。理論は自然現象の〈表現〉を深化させることで未知の現象を予言し、実験は自然に〈介入〉することで未知の現象そのものを直に取り出す。
前回、三宅さんが人工知能のことを様々な業界の人たちに発信するなかで「誰もいない海に叫んでいるような気分」を感じたというお話があったが、その海もまた叫びという〈介入〉があったからこそ顕現したのだ。何もしなければ、〈海〉は現出しない。
どうして三宅さんは、そしてぼくたちは、世界に介入しようとするのだろうか。意を決して介入しても、まったく手応えがなくて虚しくなることもあるだろうし、思いがけずひどい目にあうこともあるだろう。
知能について――人工のものにしろ自然のものにしろ――ここまで書いてきて、今や答えは明確であるように思える。知るということは、未知の世界に――自分が知らないことに、そして誰も知らないことに――手を伸ばすことに他ならない。
アイザック・ニュートンが言ったとされる言葉がある。彼は数式で書かれた美しい理論をいくつも作り上げたけれど、多くの実験をしたことでも知られている。
I do not know what I may appear to the world, but to myself I seem to have been only like a boy playing on the seashore, and diverting myself in now and then finding a smoother pebble or a prettier shell than ordinary, whilst the great ocean of truth lay all undiscovered before me.(私は自分が世間にどう見えているかは知らないが、私自身にしてみれば自分は単に海辺で遊んでいる少年みたいなものだった。目の前には真理の大海がまるで知られぬまま広がっているのに、時折いつもよりなめらかな小石やきれいな貝殻を見つけては喜んでいるだけの)――Memoirs of the Life, Writings, and Discoveries of Sir Isaac Newtonより

しかし有名な林檎のエピソードと同様、実際にニュートンがそう語った可能性は充分にあるとぼくは思う。半世紀を経て、ニュートンが言った言葉として伝わり、ブリュースターが事実だと信じるくらいには、ニュートンらしい言葉だということだ。
ニュートンは力学の体系を作り上げ、光学などでも大きな業績をいくつも残したけれど、その彼だからこそ、世界の不可解さや人間の理性の限界について、そして自らの限界について、その当時の誰よりも知っていたはずだ。晩年まで精力的に、様々な分野の研究を続けていたことも傍証になるだろう。なかには十七世紀にはすでにオカルトと見做され、タブー視されていた〈錬金術〉も含まれていたが、彼は錬金術士たちの秘密主義などには否定的で、あくまでも自然を探求する実験科学として取り組んでいた。彼の私的な文書には、彼が当時としては極めて精密に――重さを四分の一グレーン(およそ0.01グラム)ほどの単位で測るなど――実験していた結果が遺されている。
ニュートンは「Hypotheses non fingo(私は仮説をたてない)」と述べた。それは実験を重視するという実証主義的な表明であり、説明のための無理な仮説は作るべきではないという彼の個人的な主張でもある。後年、彼も仮説を立ててはいるが、実験による検証をおろそかにすることはなかった。そんな彼が錬金術の神秘主義的な説明で納得したはずもない。彼はタブーに囚われることなく、時代の制約のなかで最も合理的に――それがつまりは科学的ということだろう――自らの知りたいことに近づこうとしていただけなのだ。 ニュートンの伝記は二十一世紀になっても書かれていて――これまでのものと同様イギリスの作家の手によるものが多いのは当然として――そのうちの一冊、James GleickのIsaac Newton(2004)によると、ニュートンは海で遊んだことはおろか見たこともなく、先の言葉はジョン・ミルトンによる叙事詩『復楽園』Paradice regain’d(1671)からの引用だという。そうかもしれない。一部引用する。
Uncertain and unsettl'd still remains,
Deep verst in books and shallow in himself,
Crude or intoxicate, collecting toys,
And trifles for choice matters, worth a spunge;
As Children gathering pibles on the shore.
(不確かで落ち着かないまま、
書は深く、自らは浅く、
未熟なのか酔っ払っているのか、
海綿くらいの価値しかない物たちを大切そうに集めている;
まるで海辺で小石を集める子供のように。)

アメリカの中華料理店で相席した女の子の名前は聞かなかったように思う。一回限りの相席の場で名乗り合うことは稀だろう。特に二人の場合は〈きみ〉と〈ぼく〉で事足りる。
偶然的な〈接触〉においては、名前のような言語的記号よりも、身振り手振りといった非言語的表象のほうを重視しなくてはならない。罰ゲームで寿司を食べるという彼女は快活に喋り、運ばれてくる中華料理をぱくぱくと食べていた。香辛料を多用した本格的な中華料理ではなく、日本化された中華でもなく、非常に平板で濃厚な味付けだったけれど、彼女が異文化の料理を「異文化だから」といった理由で嫌がっていたのではないのは明らかだった。
生魚やワサビを食べたことがないという彼女が空想し、かつ忌避していた味はきっと曖昧模糊としたものだったはずだ。味覚というものはかなり身体的なもので、舌で味を覚えるということはあるものの、初めての調理法や素材の味覚を想像することはひどく難しい。恐怖には対象があるが、不安には対象がないと言ったのはサルトルだったか――とにかく彼女はただの〈食わず嫌い〉で、未知のものに対する不安を「寿司を食べるなんて信じられない」という言い方で表現していたに過ぎないのであり、それに対して「寿司が罰なんて信じられない」と返したぼくは端的に言って愚かだったのだ。
今のぼくだったらどう話しただろうと考えてみる。
ちょっとした悪戯として、演劇めいた険しい顔で「寿司か。慣れていない人には厳しいかもしれない」とでも言っておけば、アメリカの寿司は当時も非常に水準の高いものだったから、いざ彼女が食べたとき、ぼくの脅かしの言葉を思い出して、にやりと笑ったかもしれない。当の中華料理店での会話も、もう少しは盛り上がったのではないだろうか。
とはいえ、ぼくはそれを確かめることはできない。
味を舌で〈直に〉感じることができるように、〈記憶の手触り〉みたいなものを脳で感じることはできるかもしれないけれど、記憶と現実世界は違う。残念ながら、記憶のなかの会話は、おぼろげに〈表現〉することはできても、実際に相手の反応を確かめるような〈介入〉はできない。ぼくたちが、世界と切れ目なく繋がった身体を用いて思考している以上、時間的かつ空間的に離れれば離れるほど〈介入可能性〉が減少するのは必定であり、世界を理解することからも遠ざかってしまう。
いつか実現する〈丸ごとの知能〉――現実2.0のどこかで自らの身体を持って、世界と自分を感じる知能――との最初の会話は、記号としての言葉だけでなく声色や身振りといった身体的表現を伴うものであるだろうが、それでもほとんど手がかりのない未知のものになるだろう。
新しい知性と語り合うためには、ぼくたち人間の側も――もしかすると〈丸ごとの知能〉の助けを借りてでも――自らの知性に介入し、知性を書き換え、あるいは自らを拡張しなくてはならないだろう。それは普段の学習とはまるで違う、知性に対する根源的な介入となるはずだ。
開発当初、一部屋を埋めるほど巨大だった機械式計算機は瞬く間に小型化し、個人用化してパソコン(PC:Personal Computer)となった。そろそろ「一家に一台」となりそうなロボットは、より高性能化しながら、個人用ロボット(Personal roBot)すなわちPBとして、ぼくたちの生活に入ってくるはずだ。それとほぼ同時に、現行のパソコン上で動くような情報処理ソフトとはまったく異なる新しいAIが、個人用人工知能(Personal Artificial intelligence)すなわちPAとして登場するだろう。
――と、言葉遊びをしながら、ようやく〆切直前になって新しい言葉を見つけた気分に浸っていたのだけれど、PBはともかく、PA(Personal AI)なんてありえないことに気がついた。新しい知能が今のAIとはまるで異なる〈丸ごとの知能〉で、つまり自分の身体を持っていて、自意識も持っていて、自分で世界を感じるような知能であるならば、それを――人工的に作ることは可能だとしても――個人用として所有することは避けるべきだろう。おそらくPAは限りなく奴隷に近いものだ。「バイセンテニアル・マン」のアンドリューは購入者の一家に家族の一員として扱われるけれど、それでもなお真の自由を求めたのだった。
もし〈PA〉がありうるとすれば、それは公共の(Public)AIか、相棒(Partner)としてのAIだろう。そうしたPAを〈PAi〉と名付けよう。〈PAi〉たちは自らの意志をもって、自由に行動する。倫理は自ら作り出すだろうし、性別などが必要になれば自らの身体性として獲得していくだろう。すべての生命が自らの環境を書き換えていくのとまったく同じように。
ぼくたちの現実が〈PAi〉によって2.0か2.1バージョンに書き換えられて、再びどこかの中華料理店であの彼女に会えたとしたら、そのときにはぼくの知性や言葉はいくらか新しくなっているだろうし、PAiからの優れたアドバイスも貰えるだろうから、この前よりも少しは上手く話ができるのではないだろうかと考えてみる。世界が書き換えられなければ話せないなんて〈壮大すぎる仮定〉だけれど、そうしないと達成できないことだってあるだろう。
しかしぼくも、第4回の将棋ソフトと前回と今回のゲームAIについて最前線の方々にお話を伺ってきて、AIの可能性と限界について、ある程度は理解しているつもりだ。どれだけAIが進化しても、そして何度、世界が書き換えられても――ぼくたちが〈身体〉を持ち、そこから必然的に生じる自己と〈世界〉との境界を〈知能〉によって調整する、この存在の仕方を選択し続ける以上は――ぼくたちは必ず境界上に立ち、境界の外の未知と向き合うことになる。
だから、見知らぬ誰かとの〈相席〉は、すべての知性にとって不可避のものだ。いつか、PBやPAiに導かれて〈相席〉することになるだろう相手は、PBやPAiとも異なる、まったく未知の誰かであり、またしてもぼくはほとんど徒手空拳で、即興の会話をすることになる。そんな〈シンギュラリティ〉みたいな相席に対して、何か準備ができるはずもない。どんな相手が来るのか、どんな話になるのか、〈想像〉もつかないけれど、〈食わず嫌い〉をしたりしないで、いつかの相席を楽しみにすることにしよう。

三宅陽一郎(みやけ・よういちろう/ゲームAI研究者、開発者)
1975年兵庫県生まれ。京都大学で数学を専攻、大阪大学(物理学修士)、東京大学工学系研究科博士課程(単位取得満期退学)。国際ゲーム開発者協会(IGDA)日本ゲームAI専門部会代表、日本デジタルゲーム学会(DiGRA JAPAN)理事、CEDECアドバイザリーボード、人工知能学会会員。デジタルコンテンツシンポジウム第4回 船井賞受賞(2008)、CEDEC AWARDS 2010 プログラミング・開発環境部門優秀賞。日本デジタルゲーム学会2011年若手奨励賞受賞。大手ゲーム会社でデジタルゲームにおける人工知能技術の理論的確立と実際のゲームタイトルへの具体的導入に従事。共著『デジタルゲームの教科書』『デジタルゲームの技術』、 翻訳監修『ゲームプログラマのためのC++』『C++のためのAPIデザイン』(以上、ソフトバンク クリエイティブ)、『はじめてのゲームAI』(WEB+DB PRESS Vol.68、技術評論社)。論文、講演資料はブログ「y_miyakeのゲームAI千夜一夜」にて公開中。
(2015年10月5日)
■ 高島 雄哉(たかしま・ゆうや)
1977年山口県宇部市生まれ。徳山市(現・周南市)育ち。東京都杉並区在住。東京大学理学部物理学科卒、東京藝術大学美術学部芸術学科卒。2014年、「ランドスケープと夏の定理」で第5回創元SF短編賞を受賞(門田充宏「風牙」と同時受賞)。同作は〈ミステリーズ!〉vol.66に掲載され、短編1編のみの電子書籍としても販売されている。ミステリ、SF、ファンタジー、ホラーの月刊Webマガジン|Webミステリーズ!