松本さんにお好きなSFを伺うと、ダグラス・アダムズの『銀河ヒッチハイクガイド』を挙げられた。

150704.jpg  チェスチャンピオンのカスパロフは、IBMが作ったスーパーコンピューターのディープ・ブルーに敗れた。ちなみにブルーは、IBMのコーポレートカラーだ。ディープ・ブルーの原型となったコンピュータの名前はディープ・ソートDeep Thought(深い思考)だが、その名は『銀河ヒッチハイクガイド』に登場するコンピュータに由来する。きっと研究者たちの中にファンがいたのだろう。
 作中のディープ・ソートは、生命と宇宙そして万物についての究極の問いthe Ultimate Question of Life, the Universe, and Everythingの回答を求められ、七五〇万年かけて答えを出す。「四十二」と。すぐさま人間たちは不満を言うが、ディープ・ソートはそもそも人間たちがこの究極の問いを理解していないのだと反論する。きちんと問うことができていないから、四十二という答えの意味もわからないのだ、と。
 適切に問うことは難しい。
 将棋ソフトの開発者のみなさんに、自分のソフトに知性を感じるかと尋ねてみたが、ほとんどの方はそもそもそんな問いに関心すら持っておられないようだった。彼らが追求しているのは将棋における強さであって、知性ではないのだ。これは広義の〈AI効果〉――機械で再現できた行為は知能とは見なされなくなる心理上の効果――なのかもしれない。
 人間を超えた強さのソフトを作るとき、もはや人間の知性はほとんど手がかりにならないというのが開発者のみなさんの一致した意見のようだ。これまでソフトはプロ棋士つまり人間の指した将棋のデータから、勝利に近づくための〈特徴〉を取り込むことで強くなってきたのだが、もはやその方向ではほとんど強くならないという。今やソフトはソフト同士の対戦を通じて強くなろうとしている。これは人工知能自体が人工知能を研究するようになる技術的特異点にも似た状況なのではないか。
 そしてシンギュラリティのその先においても――知性とは何かではなく――強さとは何かというような適切な〈問い〉を見出すことができれば〈解〉は見つかるかもしれないということだ。その解や解き方が万人にとって愉快なものとは限らないけれど。
 この文章は、解としての〈新しいSFの言葉〉を求める問いかけと言えるだろう。しかし闇雲に解を求めてもディープ・ソートに笑われてしまうだけだ。哲学でも数学でも、あるいはどんな知的営為においても、〈問いの設定〉は解を求めること以上に重要なことだろう。そして適切に問いかけるためには無数の試行錯誤が必要となる。

 日本将棋連盟の本部ビルである将棋会館は、地上五階地下一階のすべてが将棋のために存在する、人間の試行錯誤の最前線だ。十五世名人である大山康晴が建設委員長として尽力し、一九七六年に千駄ヶ谷に建てられた。
 一階と二階は見学自由となっており、一階の販売部では将棋の盤駒や書籍などを購入することができる。二階は将棋道場と教室で、ぼくが写真撮影に行った日も三十人ほどが熱心に対局していた。やや手狭な感はあり、来年には築四十年となることもあって、建て替えの話も出ているようだ。

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 大山名人は今ぼくが暮らしている荻窪に居を構えていた人で、はす向かいには井伏鱒二の家があった。荻窪界隈には井伏鱒二を慕って、太宰治ら多くの小説家たちが集まったという。井伏は大の将棋好きで、井伏の随筆『荻窪風土記』には将棋という言葉が五十ヶ所以上も出てくるし、阿佐ヶ谷将棋会という「文学青年窶れ」たちによる将棋の会にも所属していた。阿佐ヶ谷将棋会は――井伏の記憶によれば――昭和四年頃に発足し、昭和十五年の暮れに「世間態が悪くなっていったよう」で、阿佐ヶ谷文芸懇話会と名前を変えたが、翌年には元に戻している。ただ、以降は戦局の悪化によって会はほとんど開催されなかった。
 井伏の別の随筆集『人と人影』に入っている「大山名人のこと」で井伏は、名人の帰宅時の物音から対局結果を推測する。門の閉まった音を聞き分けようというのだ。翌朝の新聞で確認するが一向に的中しない。名人は勝っても負けても常に静かなのだ。それから井伏は名人の散歩を見て、将棋の新手を考えながら歩いているのだろうと推測する。これも的外れで、後に名人と話したところ、散歩をすることで将棋のことを忘れようとしているのだと判明する。前の将棋を忘れて、次の将棋に立ち向うためだというのだ。
 大山名人や井伏鱒二が歩いたであろう道を、ぼくも散歩してみた。「大山名人」は一九六四年の作品だから家並みは随分変わったに違いないが、二人が住んでいた辺りは環八通りから少し入ったところにあって、今もおだやかな住宅街が広がっている。
 大山名人に倣って〈新しい言葉〉のことを忘れようとしてみるものの、そう簡単に通算一四三三勝の大名人の真似ができるはずもなく、ぼくはずっと考え続ける。〈想像できないもの〉も、問い方によっては捕まえることができる。そこまではいい。前回の「地球外生命の兆候」も、現代科学の知見と技術によって発見できたのだった。
 しかし――まさにこのように科学が大きく発展した二十一世紀において――適切に問いかけるだけで〈タイムマシン〉〈ロボット〉〈サイバースペース〉に匹敵するような、SFが科学側に刺激を与え得る〈新しい言葉〉を見つけることができるのだろうか。
 あるいはSFにおけるシンギュラリティは気付かない内にとっくに過ぎていて、〈新しい言葉〉を取り巻く環境や考え方が激変し、それゆえ〈サイバースペース〉以降は、何度も反復されるようなガジェットが――見かけ上――減少していったのだと見ることも可能だろう。ぼくが探している〈新しい言葉〉は、〈タイムマシン〉とも〈サイバースペース〉とも似ていないのかもしれない。
 梅雨の切れ目の今日は、明るく晴れているものの、ひどく蒸し暑い。短絡的に、将棋会館で売られていた扇子を思い出す。歴代の棋士たちの言葉が印刷されたもので、大山名人のものもあった。将棋ファンにはよく知られた言葉だ。
「助からないと思っても助かっている」
 大山名人は防御に優れた棋士として有名で、苦しくなって潔く勝負を投げることを良しとしなかった。助かる道を探すことなく、自分で勝手に負けだと決めつけては勝負にならない。
 想像することすら拒絶する強さを持つ将棋ソフトは、明確にシンギュラリティの向こう側にあって、その全貌は圧倒的に強固な不可視性に覆われている。
 しかし棋士も将棋記者も――あるいは開発者たちやソフトだって――想像することを諦めない。
 一般に、取材しようとする者は取材対象について完璧な理解をしているわけではない。完璧な理解などというもの自体が幻想だろうが、とはいえ、完璧さのかなり手前で取材は立ち止まらざるを得ない。取材とは常に特異点に向き合うものなのだ。
 松本さんはそれでも将棋は面白いとおっしゃった。これは強がりでも何でもない。イーガンを読んでいても、あるいは世界のあらゆる小説を読んでいても、不可知なものは必ずあって、それでも小説は面白い。ぼくたちは何かを理解することだけを面白がるわけではない。
 取材は特異点に向き合い、特異点の存在を受け入れ、特異点の彼方に手を伸ばす。
 それゆえ〈新しい言葉を探す〉という、最も古くから為されているであろう言語的試みも――適切な問い方ないしは助け方があれば――シンギュラリティを超えることができるはずだ。
 ブラックホールから――特異点である中心ではなく表面から――情報を取り出すホログラフィック原理の考え方が手がかりになるかもしれない。情報を求めるとき、すなわち取材のときに重要となるのは、情報の在り処であり、そこから情報を取り出す方法なのだ。

150706.jpg  情報が取材対象の中心にあるとは限らない。そこは情報の取り出せない特異点だ。取材対象の周縁部にこそ、欲しい情報はあるかもしれない。
 これはほとんど散歩みたいなものだ。大山名人が〈忘却〉のための散歩をしていたように、散歩の目的は何かを周縁に散らすことであって、中心的な目的がある場合は散歩とは言わない。
 もっともっとSFから遠く離れて、不可知の領域の境界線に立ったとき、〈新しいSFの言葉〉がホログラムのように立ち上がれば、それはきっと崇高な光景だろう。ぼくたちはそれを適切に写し取らなければならない。

(来月は幽霊について取材してきます)


松本博文(まつもと・ひろふみ/将棋観戦記者)
1973年、山口県生まれ。東京大学将棋部OB。在学中より将棋書籍の編集に従事。同大学法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力し、「青葉」の名で中継記者を務める。日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継にも携わる。著書に『ルポ 電王戦 人間vs.コンピュータの真実』(NHK出版)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)。

(2015年7月6日)



■ 高島 雄哉(たかしま・ゆうや)
1977年山口県宇部市生まれ。徳山市(現・周南市)育ち。東京都杉並区在住。東京大学理学部物理学科卒、東京藝術大学美術学部芸術学科卒。2014年、「ランドスケープと夏の定理」で第5回創元SF短編賞を受賞(門田充宏「風牙」と同時受賞)。同作は〈ミステリーズ!〉vol.66に掲載され、短編1編のみの電子書籍としても販売されている。



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