塔が時代を超えて作られているのと同じように、〈タイムマシン〉も〈ロボット〉も〈サイバースペース〉もまた、様々な形式で反復されている。そして〈タイムマシン〉以外は、フィクションにも現実社会にも変奏されながら反復され、拡散し続けているのだった。
 反復されるために必要な条件はおそらく〈塔〉と同様の概念的明晰さであり、変奏を含む度重なる反復にも耐えうる概念的強度だろう。
 学生時代の教官がコピー機による複写可能回数の上限を調べる実験をしていた。ある図像を用意して、それをコピーする。今度はそのコピーをコピーする。これを繰り返していくと少しずつ黒いノイズが増えて、最終的には元の図像は見えなくなる。残念ながら回数は失念してしまったが、それほど多くはなかったと思う。もちろん今は性能が上がっているだろうが、物理的な複写にノイズはつきものだろう。
 言語芸術である小説においてもノイズと言えるものはあって〈タイム・マシン〉〈タイムマシーン〉といった表記上の揺れもあれば、意味的なゆらぎも少なからず存在する。共通するのはせいぜい時間移動というアイデアだけで、移動する主体も移動時間も各種制約も書き手ごとに異なる。〈ロボット〉や〈サイバースペース〉も事情は同じだ。
 そしてこの文章が求めているのはそれぞれの変奏の多様性ではなく、変奏されない部分だった。それはタイムマシンでは〈時間軸上の自由な移動〉であり、ロボットでは〈人間の代わりに労働するもの〉であり、サイバースペースの〈情報による仮想空間〉という、それぞれの概念の本質を成しているものだ。
 時間移動や代替労働や仮想空間が幾度も反復されているのは、それが魅力的であるからだというのは、何の分析にもなっていないどころか、きっと誤りだろう。
 魅力的な概念は無数にあって、ぼくが幼少の頃から大好きな『ドラえもん』はその宝庫と言っていいだろう。毎回登場するひみつ道具は一つ一つが素晴らしい。
 しかしそれらは――どこでもドアやタケコプターといった常連以外は――反復されることはない。『ドラえもん』における最高のアイデアはドラえもん以外にないからだ。この〈同居する友だち〉は様々に変奏されながら反復されているアイデアだ。ホームズにおけるワトソンもそうだし、堀晃さんの『遺跡の声』におけるトリニティ、岩明均さんの『寄生獣』のミギーもこれに近いと言えるだろう。
 祖父への見舞いも懐かしい旧友たちとの会食もした次の日は朝から雨だった。
 いま地方都市では映画館が次々と閉まっているようだが、駅前の商店街を歩いていると一度閉館したが有志によって再開した映画館があって、ぼくと妻はそこへ入ることにした。二階の待合室のこちらに倒れてくるような斜めの壁には見覚えがあった。その壁に触れると、よく祖母に連れて来られた小学生の頃を思い出した。

takashima150402.jpg  かかっていたのは『君の名は』だった。タイトルや内容こそ知っていたがスクリーンで見るのは初めてで、すぐに映画に没入した。氏家真知子と後宮春樹のつかず離れずの恋にやきもきしているのはぼくだけではなかったらしく、客席からは笑い声やすすり泣き、それから「あらまあ」などという呟きが聞こえて、とても素敵な上映時間(三時間五分)だった。
 ラジオドラマ『君の名は』が放送されたのは一九五二年、その翌年には三部作で映画化されている。ぼくたちが見たのは一九五四年上映の総集編だ。『君の名は』の〈愛し合う二人が出会えない〉設定は他の数多く作品でも使われているが、ぼくを含む観客たちが強く反応したのはもっと細部――真知子の姑のいびりや、失恋した春樹がなぜか北海道に行って出会うアイヌの美女の高らかな歌声、そして終始一貫して思わせぶりな真知子の態度と彼女の真知子巻きなのだった。
 小説において〈タイムマシン〉や〈同居する友だち〉は――起承転結や三幕構成といった基本構造とも違う――物語を動かす根本原理であり、ガジェットと呼ばれるものだ。ゲームにおけるルール、あるいは数学における公理に似ていて、それ単独では大して面白くもない(こともないと思いますが、先に進みます)。そこから展開されるものが豊かであることが肝要なのだ。
 一組の公理系から――非論理的とも言えるだろう思索と論理的な手続きによって――無数の定理が証明されていく。公理系は人間が自由に選択するものだ。ユークリッド幾何学の公準を少し変更すると非ユークリッド幾何学という別の豊饒な宇宙が立ち現れる。あるいは矛盾し合う公理を選んだりすれば、その数学は無内容なものになってしまう。
 映画館はあと数日で閉館だった。この映画館にとっては二度目の閉館だ。密やかな歴史の終焉を見届けるためか、ぼくたちと同じく偶然立ち寄っただけなのか、客の入りは上々だった。
 もしすべての映画館がなくなっても――もう一度ここが再開することがあるだろうか――それは映画の死や滅亡を意味しない。
 映画館を出ると、朝からの冷たい雨は弱まっていて、曇り空が白く光っていた。
 次のガジェットは見つけるものなのか、作り出すものなのか。そんなことも今はわからないけれど、キーボードを叩き、あちこちを歩き回り、色々な人に会っていく中で、部品一つ設計図一枚くらいは手に入るかもしれない。

(来月は小石川植物園です)
(2015年4月6日)



■ 高島 雄哉(たかしま・ゆうや)
1977年山口県宇部市生まれ。徳山市(現・周南市)育ち。東京都杉並区在住。東京大学理学部物理学科卒、東京藝術大学美術学部芸術学科卒。2014年、「ランドスケープと夏の定理」で第5回創元SF短編賞を受賞(門田充宏「風牙」と同時受賞)。同作は〈ミステリーズ!〉vol.66に掲載され、短編1編のみの電子書籍としても販売されている。



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