本作が発表されたのは昭和八年(一九三三年)。昭和六年(一九三一年)からの満州事変は始まっている。だから物語の中で戦争をしているというだけで、未来架空戦記SFとは言い切れない。もっとも、作の末尾に(昭和五年十月十九日脱稿)とあるので、書いた段階では満州事変も始まっていなかったのだが。
 ここでポイントとなるのは、物語中の主要な戦場である「珠霊山(しゅれいさん)」だ。色々と調べてみたが、このような戦地は見つけることができなかった(もし万が一あったら、是非とも御教示下さい)。
 日露戦争の戦場「二〇三高地」という名前は、よく知られているだろう。この二〇三高地、その読みから「爾霊山(にれいさん)」とも称される。珠霊山というのは、この爾霊山をもじったものなのではないだろうか。さしずめ「四〇三高地」といったところか。
 かといって、単なる日露戦争の再現ではないことは、近代戦=空中戦が行われていることでわかる。日露戦争(一九〇三~〇四年)は、ライト兄弟が初飛行に成功した一九〇二年十二月の直後。まだまだ飛行機は戦争の道具として実用に耐えない。戦闘機が戦争に登場するのは、第一次世界大戦になってからなのだ。
 というわけで、正体不明の敵と開戦し、架空の土地で、架空の戦闘を繰り広げている本作は、未来架空戦記SFと認定できるのであります。
 本書を買った翌日、用事があって新宿へ出たので、京王百貨店の古書市へもう一度行ってみた。わたしがリリースした残りの〈つはもの叢書〉は、影も形もなかった。初日に行っておいて、ほんとに良かった。
 この〈つはもの叢書〉、版元「つはもの発行所」の住所は奥付によると「帝国在郷軍人会本部内」にあることになっているし、編集は「陸軍省つはもの編輯部」だし、軍の肝煎りで出た叢書ということらしい。
田中中尉 血の叫び
〈時事パンフレット〉版『血の叫び』著者近影
 『血の叫び』の作者・田中軍吉は、明治三十九年(一九〇六年)生まれの軍人。二・二六事件の際には、連座して拘禁されたこともあるが解放され、最終的には歩兵第四十五聯隊第三大隊第十二中隊長とまでなった人物。だが彼は終戦後、いわゆる「南京大虐殺」の加害者として裁判にかけられる。本人は否定していたにもかかわらず、彼の刀を紹介した写真に「悲願三百人斬り」云々というキャプションがあったばっかりに、それが証拠だとして死刑判決が出されたのだという。裁判の内容についてどうこう言うのが目的ではないのでここまでにしておくが、とにかくそういう意味で歴史に名を残した人物だったのである。
 「田中中尉」「血の叫び」でネット検索してみたら、わたしが買ったのよりも少し安く売っている古書店を見つけた。ちぇっ、でも送料を加えれば同じぐらいだ(←と、心の中で負け惜しみ)。
 更に国会図書館の検索サイトを使って、田中軍吉に他にも著作がないか確認する。……『血の叫び』しかないなあ。複数収蔵されているようだけど。……あれっ。版元表記の違うモノがあるぞ。あわててチェックしてデータを整理すると、少なくとも二種類あることになっている! 同年同月の刊行のため同じ本だと思い込んでしまったが、念のため本のサイズを調べると、確かに判型の違うものが存在するようだ。同じ年、同じ月に二種類の版元から同じ作品が出るとはどういうことか。おかげで、危うく見逃すところでしたよ。
 で、先のネット古書店に戻ってみると、こりゃ違う方のバージョンじゃないですか! ここは「負け惜しみ」じゃなくて「バンザイ」するところだったんだ!
田中中尉 血の叫び
〈時事パンフレット〉版『血の叫び』貼付挿画
 ソッコーで注文し、到着を待つ。やがて古本屋から包みが届いた。〈つはもの叢書〉入手から、僅か三日後のことだった(なんと早い展開だろうか)。開封して中身を出すと、確かに田中中尉『血の叫び』(時事新報社/昭和八年)である。〈時事パンフレット〉という叢書の、第七輯だった。奥付を確認すると昭和八年十一月十三日発行。〈つはもの叢書〉版が昭和八年十一月二十日発行。〈時事パンフレット〉の方が、僅かに一週間早かった!
 またこちらの奥付には、作者・田中軍吉の住所まで記されている。「東京市赤阪区青山神宮表参道同潤会アパート三ノ三〇」。現在の表参道ヒルズではありませんか。
 サイズはこちらの方が大きく、B6判。その分ページ数は少なく、八十二ページ(〈つはもの叢書〉は百二ページ)。定価はどちらも十銭。
 こちらには著者近影があり、軍服を着て軍刀を手にした姿。ずいぶんと若く見える。
 口絵四点もあり、表紙には「太田上等兵画」とあるものの、下の名前は不明。軍人の余技かと思いきや、これが案外と達者で、新聞や書籍の挿画家だとしか思えない。調べてみると、太田政之助(一八九三~一九七二)という報道画家で、「太田天橋」という号もあることが判明。達者なのもナットクだ。関東大震災の際に、被害の状況を詳細に記した画集を出しているほか、『中支従軍ペン画集』『満州戦線ペン画集』などがある。
 二種類の『血の叫び』、本文の一字一句まで確認しようかとも思ったのだが、実はしたくでもできない。中身の比較をしていて気づいたのだが、〈時事パンフレット〉は途中の十ページ分が本のノド近くで切り取られていたのだ!
田中中尉 血の叫び
〈時事パンフレット〉版『血の叫び』挿画貼付版
 まあ、安かったのでこの切り取りが先に分かっていても注文したとは思うが、完品だと思って買って欠損本と分かるのはちょっとショック……。
 もっとも、中身的には〈つはもの叢書〉版で既に読んでいるから問題はない。それに国会図書館に収蔵されている本なので、いずれ該当部分をコピーしてくることにしようか。
 ……などと思いつつ、ネット上を調べていると、〈時事パンフレット〉版をもう一冊売っているではないか。しかも、気になる注記が付されている。これはもう、こちらも買ってしまえというお告げに違いない、と注文。
 数日後に届いた本を開いて、まずはページを確認する。うむ、今度は全ページあるぞ。よかった、よかった。
 ページに続いては、注記に書かれていた事柄を確認する。実は注記に「新聞掲載時の挿画貼り付け有り」とあったのだ。確かに、あちこちのページに新聞から切り取られた挿画が貼られている。『血の叫び』は、新聞連載小説だったのだ!
 〈時事パンフレット〉版の装丁が、新聞小説の紙面のようなデザインになっていたので、もしかしたら新聞小説だった可能性はあるな、とは思っていたが、その予想は当っていたのだ。
 それにしても、先に手に入れた〈時事パンフレット〉版のページが不足していなければもう一冊買おうとはしなかったかもしれない。そうしなければ、この挿画貼り付け版は手に入らなかった。これぞ天の配剤というものだろう。よくよく確認すると、挿画だけでなく文章が貼り付けられているところもあった。最後に貼り付けられている「「血の叫び」に補足して」は、連載完結後に、『血の叫び』の余談的エピソードとして掲載されたもので、単行本には入っていない。また半ばの三十四ページにも、本文にない文章が貼り付けられていた。これは連載時にはあったけれども、単行本化された時に削られたパートらしい。これはほんとうに貴重だ!
 横田順彌氏は以前、「ぼくは調べ物をする時には、なるべく遠回りするようにしているんだよ。最初から本陣を攻めるより、その方が収穫が多いことがあるからね」とおっしゃっていた。今回は意図的にというよりも結果的に遠回りをすることになったわけだが、正にそのパターン。やっとおっしゃっていた意味が判りましたよ、横田先生!
山中峯太郎編 皇兵
山中峯太郎編『皇兵』
 作者・田中軍吉本人についても色々と調べているうちに、南京大虐殺の裁判で証拠とされた写真が『皇兵』という本の巻頭写真であるということを知った。この『皇兵』の編者は、なんと山中峯太郎だったのである!
 山中峯太郎といえば、『亜細亜の曙』等の本郷義昭シリーズや、『見えない飛行機』『世界無敵弾』などなどで古典SFファンには滅茶苦茶お馴染みの作家ではないか。またシャーロッキアンには、ポプラ社の〈名探偵ホームズ〉全集の訳者(正確には翻案者)としてよく知られている。
 となると、『皇兵』も読んでみたくなる。幸か不幸か、またまたネット上で手の届くお値段で見つかってしまう。ええい、遠回りついで、毒喰らわば皿までだ。

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