〈心地よい破滅〉とウィンダム

中村融 toru NAKAMURA


トリフィド時代
「さなぎから蝶へ」という言葉があるが、作家はときとして劇的な変身をとげる。その好例といえるのが、本書の作者だろう。複数のペンネームを使いながら、凡作を量産していた群小作家のひとりが、第二次世界大戦による中断を経て、英国を代表するSF作家に生まれ変わったのだ。後輩に当たる作家・批評家のブライアン・オールディスがそのSF史『十億年の宴』(1973)において述べたところによれば――「彼は筆名と作風をたびたび変えていった。彼はいくつかの幼生形態を通過したのち、きらびやかな蝶となって出現した」(浅倉久志訳)
 その転機になった作品こそ、本書『トリフィド時代』(1951)だったのである。  異形のものの侵略と文明の崩壊の過程を迫真の筆致で描きだした本書は、発表と同時に英米で一大センセーションを巻き起こした。その圧倒的な成功は、作者ウィンダムをウェルズに次ぐ重要な英国SF作家の地位に押しあげただけでなく、それまで等閑視されてきた侵略・破滅テーマをふたたび流行させる原因となった。
 では、本書がそこまで力を持った理由はなんだったのだろう?
 だが、その答えを探る前に、まず作者ジョン・ウィンダムの経歴をふり返っておくことにしよう。
(中略)
 こうしてふり返ると、ウィンダムの代表作は、やはり『トリフィド時代』と、それにつづく『海竜めざめる』といわざるを得ない。どちらも〈破滅もの〉であり、異形のものの侵略と文明の崩壊の過程を克明に描いている。これはウェルズの『宇宙戦争』以来、連綿と書きつがれてきた種類の作品だが、ウィンダムの作品はいくつかの点できわだっていた。
 まず『宇宙戦争』やドイルの『毒ガス帯』(1913)といった先行作品を咀嚼して、明確なパターンを作りあげた点。すなわち、批評家ジョン・クルートの言葉を借りれば、「大惨事によって人口の減少した都市(たいていはロンドン)、恐慌と勇敢さの発露を点景としてあしらった大脱出、地方のある種の避難所にたどりつき、おぼつかなくなった人類の主権を再建する準備にとりかかる、少数ではあるが徐々に増えていく生存者グループを物語の中心に据えるやり方」(鎌田三平訳)である。つぎに、大胆な状況を設定したあとは飛躍を極力おさえ、あくまで人間たちに焦点を合わせている点。作家・批評家のデーモン・ナイトによれば、この手法によって「ウィンダムは奇妙な家伝の魔法を働かせる。あなたは、物語の中の途方もない事件を信じずにはいられない。なぜならその事件は、あなたになじみ深い人びとの身におきているからだ」(浅倉久志訳)といった効果が生まれている。そして――これがいちばん大事なのだが――主人公(とその仲間)がからっぽの世界を手に入れるという願望充足の点である。この点をさしてオールディスは、本書に代表される〈破滅もの〉を皮肉たっぷりに「心地よい破滅(コージー・カタストロフ)」と名づけ、つぎのように指摘した――「心地よい破滅物の特色は、ほかのみんながばたばた死んでいく中で、ヒーローだけがけっこう楽しい生活(恋人、サヴォイ・ホテルの無料の貴賓室、選りどり見どりの自動車)を過ごすところにある」(同前)
 こう書けば、最初の設問の答えが見えてくるのではないだろうか。時代は朝鮮戦争から冷戦への移行期。原水爆や共産主義など不安をあおるものは多いが、旧来の秩序や価値観がまだ信じられていた時代である。人々は廃墟と化した都市における生存闘争に恐怖したが、田園地帯における再建を心地よく楽しむことができた。ここでのキーワードは「再建」である。もうすこしくわしくいえば、旧弊な慣習のくびきから解き放たれた上で、荒廃した地に“よりよい”社会を築きあげようという姿勢である。それは戦後の混乱期を脱した時代の合い言葉でもあった。ジョージ・R・スチュワートの『大地は永遠(とわ)に』(1949)、ジョン・クリストファーの『草の死』(1956)、ハリウッド映画『地球最後の日』(1951)……オールディスのいう「心地よい破滅物」は、この時機に集中的に現れている。そしてその頂点に君臨したのが、本書『トリフィド時代』だったのだ。
 しかし、ちょっと考えればわかるが、この種の〈破滅もの〉は微妙なバランスの上に成り立っていた。政治的な緊張が高まれば、より切実な〈最終戦争もの〉が出てくるし、旧来の秩序や価値観が崩壊すれば、なにを再建すればいいのかわからなくなる。社会が神経症的な様相を呈すにつれ、SFは救いのない〈破滅もの〉を生みだしはじめた。イギリスSFにかぎっても、チャールズ・エリック・メインの『海が消えた時』(1958)、ジョン・クリストファーの『世界の冬』The World in Winter (1962)、J・G・バラードの《破滅》四部作(1962~66)、オールディスの『グレイベアド――子供のいない惑星』(1964)と、色調が暗くなっていくことがおわかりだろう。もはや心地よい破滅を楽しむわけにはいかないのだ。現在それに似たものがあるとすれば、おそらくモダンホラーか〈サバイバリスト〉小説の分野に見つかるだろう(ちなみにスティーヴン・キングはウィンダムを最大級に評価している)。しかし、これらは人類や文明といった大きな視点を欠落させている。そこがウィンダム流のSFとは大きく異なる点だろう。逆にいえば、ウィンダム流の文明批評は、世界が小さく単純だったからこそ成立したわけである。
 その意味でウィンダム流のSFは、1950年代という時期と密接に結びついているのだが、本書の人気はいっこうに衰えず、1981年にはBBCでTVドラマ化された。30分×6回の構成で、原作の雰囲気を巧みに写しとった作品として評価が高い(2009年にTVミニシリーズとしてふたたびドラマ化された)。
 2001年にはイギリスの作家サイモン・クラークが、遺族公認の続篇『トリフィドの夜』The Night of the Triffids を刊行した。本書の25年後を舞台に、本書の主人公ウィリアム・メイスンの息子デイヴィッドが活躍する物語だ。
 そして2002年、ダニー・ボイル監督の映画『28日後…』が公開される。これは人間を凶暴化させるウイルスが蔓延し、壊滅状態におちいったロンドンを舞台にしたサバイバルの物語で、ゾンビ映画の一種だが、明らかに『トリフィド時代』を意識していた。じつは監督のボイルと脚本のアレックス・ガーランドは、1981年放送のTVシリーズに強い影響を受けており、同作で『トリフィド時代』にオマージュを捧げたのだという。  この『28日後…』の出現で、本書のホラー的側面にスポットライトが当たるようになった。じっさい、『呪われた村』にしてもホラー的な要素が強く、この観点からウィンダムの作品を読みなおすのは、大いに意義がありそうだ。とすれば、ホラー畑の作家クラークが、本書の続篇を書いたのも納得がいく。大げさにいえば、ウィンダム再評価のための新たな視座が設定されたのだ。この新訳が、その読みなおしに寄与することを願ってやまない。
 いうまでもないが、本書には先人の訳業が存在する。井上勇訳『トリフィド時代』(1963/創元SF文庫)と、峰岸久訳『トリフィドの日』(1963/ハヤカワSFシリーズ[抄訳版]→ 1969/早川書房『世界SF全集19 ウィンダム』所収[完訳版])だ。翻訳にさいしては、両者を参考にさせてもらった。末筆になったが、記して感謝する。
2018年6月

*本稿は、創元SF文庫『トリフィド時代』第二十三版(一九九四)に訳者が寄せた解説「〈心地よい破滅〉とウィンダム」を加筆訂正したものです。


(2018年7月26日)



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