ヒューゴー賞、ネビュラ賞、クラーク賞はじめ『ニューロマンサー』を超える7冠達成! という驚異のデビュー長編、アン・レッキー『叛逆航路』(創元SF文庫)。11月20日の発売以来、わずか5日で重版が決定するなど、今年の翻訳SFいちばんの話題作です。
本国でも〈ニューヨーク・タイムズ〉紙ベストセラーリストに入るなど大人気となった本格宇宙SFである本書は、日本語をはじめさまざまな言語に翻訳されていますが、そこで気になるのは、英語とは性別の扱いが違う言語で本書がどのように訳されたのか……ということ。
というのも、本書の主な舞台となるのははるか未来の“ラドチ”という星間国家なのですが、そこでは(肉体的な男女差はありますが)文化的・言語的にジェンダーの区別を一切しない――という設定だからです。原文では彼女(she)、姉妹(sister)、母娘(mother/daughter)など、ほぼあらゆる登場人物に対して女性形を使うことで、物語世界のさまざまな部分に奥行きを持たせています。
もちろん現代においても、言語のみならず文化によっても性別の扱い方は千差万別である以上、これを他言語にどう訳すのか? というところに興味を持たれる方は大勢おられるようで、アメリカの文芸・アート雑誌Interfictions Onlineが、本書のブルガリア語、ドイツ語、ヘブライ語、ハンガリー語、日本語の翻訳を手がけた方々に取材した記事を11月に掲載しました。作品そのものの興味深さはもちろん、翻訳という仕事の面白さも伝わってくる、短いですが読み応えのある記事です。
今回は同誌と執筆者Alex Dally MacFarlane氏のご厚意により許諾をいただき、同記事を訳載いたします(いわゆる作品内容の「ネタバレ」はありません)。あわせて渡邊利道氏による文庫巻末解説(全文)もどうぞ。
「ジェンダーを翻訳する――5つの言語におけるAncillary Justice」
"Translating Gender: Ancillary Justice in Five Languages"
by ALEX DALLY MACFARLANE
アン・レッキー Ancillary Justice(邦題『叛逆航路』)の世界では、ラドチという名の星間国家が人類宇宙の大半を支配している。ラドチの文化(とその言語)では、ジェンダーで人を区別しない。それは無意味なことと見なされているのだ。英語で書かれた本作中では、ラドチ人に対して(多くの場合で非ラドチ人に対しても)記されている性別の手がかりとは関係なく女性代名詞"she"を全面的に用いることで、言語的なリアリティを持たせている。
この手法は二つの効果をもたらしている。ひとつは文法上の差異を消し去り、登場人物のジェンダーを未確定のままにすることだ。もうひとつは、SFにおけるジェンダーをめぐる議論の文脈に連なるものだ――ジャンル内での男性・女性・その他のジェンダーの位置づけは(登場人物にとっても、作家やファンにとっても)作品内にとどまらず、とても政治的な効果をもたらす。女性代名詞を使うというのは、そういうことを意味するのだ。
Ancillary Justiceを他言語に翻訳する際には、これら二つの効果の結びつきは作品にとって不可欠となる。
ハンガリー語版の翻訳者チラ・クラインハインツ氏がシェリル・モーガン氏のブログに書き込んだコメント[リンク先英語]を読んで、わたしたちはこのことについてもっと知りたくなった。わたしたちはブルガリア語、ドイツ語、ヘブライ語、ハンガリー語、日本語の本作翻訳者にコンタクトし、ジェンダーをめぐる問題を中心に翻訳プロセスについて書き送ってもらった。
その結果、翻訳者の仕事の実際と、文法的ジェンダーの硬直性・柔軟性についての洞察が浮かびあがってきた。翻訳者は必要とあらば、自分の言語で表現するために革新的で創意あふれるアプローチをとるものだ。
本作の翻訳において具体的な問題となるジェンダーの記述について、ここで取り上げた5つの言語ではそれぞれ大きく異なるアプローチをとっている。ブルガリア語版の翻訳者ミレーナ・イリエヴァ氏はこう書いている。
「ブルガリア語では、ほとんどすべての文法要素――名詞、定冠詞、動詞・分詞・形容詞の変化――にジェンダーの区別があるのが大きな問題でした。しかし翻訳にあたって最大の問題は、職業や軍事階級をどう訳すかということでした。
軍以外の職業については、どんな職業でも女性形にすることはできます。"profesor" - "profesorka"というように、男性形に接尾辞 -ka- をつければ、女性形になるのです。しかし最近では、女性形を使うと見下していると感じるようになったため、女性に対しても男性形を使うようになっています。なぜそう感じるのか説明するのは難しいのですが、簡単に言えば英語の影響と、指小辞[愛着または軽蔑の意味を込めるときに用いる接辞。日本語では「小(こ)~」や「~ちゃん」などが含まれるとされることもある]を作る際にも女性形が使われるからという理由が組み合わさっています。
軍事階級については、もともと女性形は使われません。おそらく、女性は最近になるまで軍隊に入れなかったためでしょう。
というわけで、わたしが難しい立場に陥っていたことはおわかりでしょう。"oficer"のかわりに"oficerka"は、こっけいに響くので使えません(ちなみに、例として挙げている単語はわかりやすいように外来語を選んでいます。中にはかなり古くからブルガリア語に定着している単語もありますが)。また一般的な職業("inspektor" - "inspektorka")についても、女性形には対象を軽視するような含みがあるので本作にはそぐわず、使えません。
しかし原文で女性形がこれだけ広く使われている以上、男性形を使うわけにもいきませんでした。」
ドイツ語版の翻訳者ベルンハルト・ケンペン氏の場合、ドイツ語文法でのジェンダーの扱いはまずは有利に働いた。
「ドイツ語の代名詞は基本的に英語のものと同じで、"she""her"はそれぞれ"sie""ihre"となります。」
しかし、名詞の翻訳にあたっては問題があった。
「"a friend"を訳す場合、男性形の"ein Freund"と女性形の"eine Freundin"のどちらにするか決めなければなりません。また"the doctor"も、"der Arzt"か"die Ärztin"のどちらかになります。」
ヘブライ語翻訳はかなりの難題だった。翻訳者エマニュエル・ロッテム氏はアン・レッキー氏とやりとりしたメールの中で、こう書いている。
「ヘブライ語の動詞と形容詞はすべて、ジェンダーに応じて変化します。例外のひとつは"I"にあたる代名詞で、これは女性にも男性にも使えます。しかし、女性が"I sit"と言うときは"ani yoshevet"となりますが、男性の場合は"ani yoshev"となります。さらに目的語は、具体的だろうと抽象的だろうと、女性か男性かを区別します。そのため、たとえば"a large room with a large door"の場合、"room"は男性名詞、"door"は女性名詞にあたるので、"large"にあたる単語は前者では"gadol"、後者では"gdola"に変化します。これは、主人公ブレクが自ら物語を語る際にはともかく、非ラドチ人が話すときに大きな問題となりました。」
この問題は小説の訳題にも及んだ。
「"justice"を意味する"tzedeq"は、残念なことに男性名詞であるため、タイトルには絶対に使いたくありませんでした。」
日本語の文法にも、別の形でジェンダーの区別があった。日本語版の翻訳者、赤尾秀子氏はこう書いている。
「日本語訳でいちばん苦労したのは会話文(話し言葉)でした。英語の人称代名詞で性差があらわれるのは三人称だけですが、日本語の場合は一人称も二人称も種類が多く、おおよそ、男女による使い分けがあります。
また会話では、口調(とくに文末表現)にも、男女の差があらわれがちです。
そのため、物語の登場人物が『女性らしい言葉遣いをしない』場合、読者はその人物を『おそらく男性』だと無意識のうちに思ってしまいかねません。」
ハンガリー語では、事情はまったく異なる。実際のところ、チラ・クラインハインツ氏は「作中のラドチの言葉は[英語よりもハンガリー語に]ずっと近しい」と感じている。
「ハンガリー語には文法的ジェンダーがなく、三人称単数形は男でも女でも"ő"を使います。そのため、文中でキャラクターの性別がはっきり示されていない場合、その人物は『シュレディンガーの猫』のような状態にあります――明確に書かれるまでは、男女どちらでもありうるのです。
代名詞にジェンダーの区別がある言語からハンガリー語に訳す場合は通常、文中の早い段階でキャラクターの性別を示しておく必要があります。彼/彼女を『その男』『その女』といった具合に。そうすることで、原語の読者が持つのと同じイメージを確立することができます。複数のキャラクターが登場する場面では、文章が煩雑になることもあります。というのも、"she did a somersault, he did a cartwheel"[彼女は宙返りをして、彼は側転をした]と簡単には書けず、誰が"she"で誰が"he"なのかを一文の中ではっきりさせなければならないからです。二人ともおなじ中性的代名詞で呼んでしまっては混乱を招くので。」
翻訳者たちはそれぞれ、別々のアプローチをとった。
ロッテム氏は訳題を除き("Ancillary Integrity"という意味の訳題になった)、ヘブライ語の文法的ジェンダーに基づいて別の単語をあてる、という手法を選んだ。
「目的語については臨機応変に対応するつもりです。女性名詞の類義語をなるべくあてるようにして、形容詞はどうしても必要な箇所以外では省くか、他に方法がない場合はおかしく見えないようにと望みつつ女性形を使います。読者がこの文体にさりげなく慣れていけるよう、工夫する必要があるでしょう。」
また、非ラドチ人キャラクターの性別や、ブレクが彼らをどう呼ぶかも問題になった。二人称単数"you"にあたるヘブライ語の単語は、男女で異なるからだ。これについては、アン・レッキー氏とのメールのやりとりを大いに参考にしたという。
イリエヴァ氏は、作品に合わせて言語のほうを変えた。
「職業や軍事階級については接尾辞を造語しました。-ka- ではなく -a- を、男性形につけることにしたのです( -a- は女性に使われる名詞において一般的に現れる語尾です。形容詞の男性形を女性形に変える際にも使われます)。たとえば"oficerka"となるところを"oficera"、"inspektorka"となるところを"inspektora"というように。これはまちがいなく女性的に感じられますが、軽視するようなニュアンスはありません。」
ケンペン氏にとっては、ドイツ語の名詞におけるジェンダーの問題をどう解決するかは考えどころだった。「私は女性形を使うことにしました。そのため、原語版よりも語り口が“女性的”に感じられるかもしれません。」これはまったくの新発明ではないが、革新的なアプローチだった。
「最終的には、わたしはドイツ語版(訳題Die Maschinen)に序文を書くことにしました。本作の翻訳にまつわる特有の問題を説明し、フェミニズム的な問題にも触れました。英語よりもジェンダーが大きな意味を持つドイツ語では、ジェンダー・ニュートラルな言語はとても実現しにくいものです。フェミニストがしばしば批判する“男性総称”――たとえば"Liebe Leser"[親愛なる読者諸兄]のような複数形は文法上は男性形ですが、"Leserinnen"[女性読者]を含みます。そのため、“女性総称”つまり女性形を使って男性読者を包含する、という代案が提起されたこともあります。
わたしの知るかぎりでは、今回の翻訳は“女性総称”で書かれた初のドイツ語小説になります――ラドチ語を使わないキャラクターに関する一部の例外を除いてですが。そうした例外的な箇所では、英語の原文では性別が明らかではない人物に対して“正しい”文法的ジェンダーを用いて、原文よりも特定した表現にする必要がありました。幸いなことに著者とメールでやりとりできたので、曖昧さをある程度解消することができました。」
日本語では、赤尾氏はまた別のアプローチをとった。
「主人公ブレクはラドチ圏の外で、ジェンダーの使い分けを間違わないよう気を遣いますが、日本語訳では逆に、できるだけ曖昧にするにはどうしたらよいか、で悩みました。」
会話文に関してはこうも付け加えている。
「一方、三人称のsheに関しては、日本語訳でも当然女性を指すので、日本の読者は『女性らしくない話し方≒男性』と推測した人物が『she(女性)』で示されると、当初はおそらく違和感を覚えるでしょう。しかし、それがむしろ、物語世界に対する読者のイマジネーションを刺激し、膨らませてくれるのでは……と、いまは期待しています。」
イリエヴァ氏も読者に受け入れてもらう必要性に触れている。
「最初の数ページは少し奇妙に思われるかもしれませんが、すぐになじむでしょう。」
ハンガリー語では、クラインハインツ氏は作中の"she"について、中性形と女性形がもたらす効果のバランスをとる必要があった。
「Ancillary Justiceの翻訳にあたっては、ジェンダーの確定という問題を避け、ハンガリー語においては自然に感じられる中性的代名詞だけを使うことができました。もちろん、そうすると"she"を基本の代名詞とすることをあきらめねばなりません。そこでわたしは、人間関係を表現するにあたってジェンダー・ニュートラルな単語が不適当な箇所では女性的な単語を用いることで、その埋め合わせをしようと試みました。こうすることにより、全員が必ず"she"と呼ばれる状況が英語読者に与えた衝撃は失われますが、わたしとしては、基本的な代名詞として"she"が使われるという状況の裏にあるメンタリティを保ちつつ、文章をよどみなく自然に読めるようにしたかったのです。
ブレクが説明するラドチの言語は、英語よりもハンガリー語に近いように思われます。そのためハンガリー語読者の中には、ブレクが他言語で誰かを呼ぶときにジェンダーを正しく使おうとあれほど苦心するのはなぜか、“腑に落ちない”人もいるでしょう("he"と"she"を間違うようなミスをよくするハンガリー人は多いですし、それをあまり気にしてもいません)。ジェンダー・ニュートラルな代名詞を使うのは自然に感じられることで、通常の英語翻訳に比べれば簡単だったとさえ言えます。中性的な表現をそのまま使うというわたしの判断が、テキストの読みやすさによって納得してもらえることを期待しています。」
どの意見の中でもはっきりしているのは、翻訳というレンズを通して検討することにより、文法とジェンダーにおける“中性的”・“女性的”という観念の複雑さが明らかになる、ということだ――そしてまた、各言語が文語と口語の両方において持っている、将来的な可能性も。
時間と労力を割いて協力していただいた五人の翻訳者の方々に、そして仲介してくれたアン・レッキーとウィル・ロバーツに感謝します。
●翻訳者紹介
ミレーナ・イリエヴァ(Milena Ilieva)……フリーランス翻訳者として20年の経歴を持ち、SFとファンタジーを中心に幅広いジャンルで60冊の翻訳書を上梓している。主な訳書に《ヴォルコシガン》シリーズの最新6冊をはじめとするロイス・マクマスター・ビジョルド、アンディ・ウィアー『火星の人』など。また、ソフィア大学で英語を教えている。
ベルンハルト・ケンペン(Bernhard Kempen)……1961年ハンブルク生まれ。84年よりベルリン在住。比較文学を学び、87年にイースト・アングリア大学で修士号を、94年にベルリン自由大学で博士号を取得。93年より翻訳を始め、これまでに130冊以上の英語SFをドイツ語に翻訳している。また官能小説からSFまで様々な小説を発表し、キャバレーでパフォーマンスを披露しており、それらの一部は彼のトランスジェンダー・アイデンティティである「バルバラ」名義で発表されている。
エマニュエル・ロッテム(Emanuel Lottem)……1944年イスラエル生まれ、経済学博士号を所持。76年よりSFとファンタジーを中心に小説翻訳に携わり、これまでに100冊以上の翻訳SF/ファンタジーを上梓している。1983~85年にかけて、短命だが強い影響力を持った雑誌Fantasia 2000の編集委員長を務めた。1996年にイスラエルSFファンタジー協会を設立(2001年まで初代会長)するなど、イスラエル・ファンダムの発展に中心的な役割を果たした。
チラ・クラインハインツ(Csilla Kleinheincz)……ハンガリー系ベトナム人の作家・編集者・翻訳者。三冊の長編と短編集を発表している。主な訳書にピーター・S・ビーグル、ケリー・リンク、キャサリン・M・ヴァレンテ、アーシュラ・K・ル=グィン、スコット・ウェスターフェルド、アン・レッキーなど。現在、ハンガリーの出版社Gaboの編集者でもある。
赤尾秀子……津田塾大学数学科卒業。翻訳者としてSF、ミステリー、科学ノンフィクションなどを手がけ、主な訳書にセス・グレアム=スミス、ヴァーナー・ヴィンジ、ロバート・A・ハインライン、アン・マキャフリーなど。
Copyright © 2015 by Interfictions Online. Translated by the permission of Alex Dally MacFarlane
翻訳:東京創元社編集部
ミステリ、SF、ファンタジー、ホラーの月刊Webマガジン|Webミステリーズ!
本国でも〈ニューヨーク・タイムズ〉紙ベストセラーリストに入るなど大人気となった本格宇宙SFである本書は、日本語をはじめさまざまな言語に翻訳されていますが、そこで気になるのは、英語とは性別の扱いが違う言語で本書がどのように訳されたのか……ということ。
というのも、本書の主な舞台となるのははるか未来の“ラドチ”という星間国家なのですが、そこでは(肉体的な男女差はありますが)文化的・言語的にジェンダーの区別を一切しない――という設定だからです。原文では彼女(she)、姉妹(sister)、母娘(mother/daughter)など、ほぼあらゆる登場人物に対して女性形を使うことで、物語世界のさまざまな部分に奥行きを持たせています。
もちろん現代においても、言語のみならず文化によっても性別の扱い方は千差万別である以上、これを他言語にどう訳すのか? というところに興味を持たれる方は大勢おられるようで、アメリカの文芸・アート雑誌Interfictions Onlineが、本書のブルガリア語、ドイツ語、ヘブライ語、ハンガリー語、日本語の翻訳を手がけた方々に取材した記事を11月に掲載しました。作品そのものの興味深さはもちろん、翻訳という仕事の面白さも伝わってくる、短いですが読み応えのある記事です。
今回は同誌と執筆者Alex Dally MacFarlane氏のご厚意により許諾をいただき、同記事を訳載いたします(いわゆる作品内容の「ネタバレ」はありません)。あわせて渡邊利道氏による文庫巻末解説(全文)もどうぞ。
「ジェンダーを翻訳する――5つの言語におけるAncillary Justice」
"Translating Gender: Ancillary Justice in Five Languages"
by ALEX DALLY MACFARLANE
アン・レッキー Ancillary Justice(邦題『叛逆航路』)の世界では、ラドチという名の星間国家が人類宇宙の大半を支配している。ラドチの文化(とその言語)では、ジェンダーで人を区別しない。それは無意味なことと見なされているのだ。英語で書かれた本作中では、ラドチ人に対して(多くの場合で非ラドチ人に対しても)記されている性別の手がかりとは関係なく女性代名詞"she"を全面的に用いることで、言語的なリアリティを持たせている。
この手法は二つの効果をもたらしている。ひとつは文法上の差異を消し去り、登場人物のジェンダーを未確定のままにすることだ。もうひとつは、SFにおけるジェンダーをめぐる議論の文脈に連なるものだ――ジャンル内での男性・女性・その他のジェンダーの位置づけは(登場人物にとっても、作家やファンにとっても)作品内にとどまらず、とても政治的な効果をもたらす。女性代名詞を使うというのは、そういうことを意味するのだ。
Ancillary Justiceを他言語に翻訳する際には、これら二つの効果の結びつきは作品にとって不可欠となる。
ハンガリー語版の翻訳者チラ・クラインハインツ氏がシェリル・モーガン氏のブログに書き込んだコメント[リンク先英語]を読んで、わたしたちはこのことについてもっと知りたくなった。わたしたちはブルガリア語、ドイツ語、ヘブライ語、ハンガリー語、日本語の本作翻訳者にコンタクトし、ジェンダーをめぐる問題を中心に翻訳プロセスについて書き送ってもらった。
その結果、翻訳者の仕事の実際と、文法的ジェンダーの硬直性・柔軟性についての洞察が浮かびあがってきた。翻訳者は必要とあらば、自分の言語で表現するために革新的で創意あふれるアプローチをとるものだ。
本作の翻訳において具体的な問題となるジェンダーの記述について、ここで取り上げた5つの言語ではそれぞれ大きく異なるアプローチをとっている。ブルガリア語版の翻訳者ミレーナ・イリエヴァ氏はこう書いている。
「ブルガリア語では、ほとんどすべての文法要素――名詞、定冠詞、動詞・分詞・形容詞の変化――にジェンダーの区別があるのが大きな問題でした。しかし翻訳にあたって最大の問題は、職業や軍事階級をどう訳すかということでした。
軍以外の職業については、どんな職業でも女性形にすることはできます。"profesor" - "profesorka"というように、男性形に接尾辞 -ka- をつければ、女性形になるのです。しかし最近では、女性形を使うと見下していると感じるようになったため、女性に対しても男性形を使うようになっています。なぜそう感じるのか説明するのは難しいのですが、簡単に言えば英語の影響と、指小辞[愛着または軽蔑の意味を込めるときに用いる接辞。日本語では「小(こ)~」や「~ちゃん」などが含まれるとされることもある]を作る際にも女性形が使われるからという理由が組み合わさっています。
軍事階級については、もともと女性形は使われません。おそらく、女性は最近になるまで軍隊に入れなかったためでしょう。
というわけで、わたしが難しい立場に陥っていたことはおわかりでしょう。"oficer"のかわりに"oficerka"は、こっけいに響くので使えません(ちなみに、例として挙げている単語はわかりやすいように外来語を選んでいます。中にはかなり古くからブルガリア語に定着している単語もありますが)。また一般的な職業("inspektor" - "inspektorka")についても、女性形には対象を軽視するような含みがあるので本作にはそぐわず、使えません。
しかし原文で女性形がこれだけ広く使われている以上、男性形を使うわけにもいきませんでした。」
ドイツ語版の翻訳者ベルンハルト・ケンペン氏の場合、ドイツ語文法でのジェンダーの扱いはまずは有利に働いた。
「ドイツ語の代名詞は基本的に英語のものと同じで、"she""her"はそれぞれ"sie""ihre"となります。」
しかし、名詞の翻訳にあたっては問題があった。
「"a friend"を訳す場合、男性形の"ein Freund"と女性形の"eine Freundin"のどちらにするか決めなければなりません。また"the doctor"も、"der Arzt"か"die Ärztin"のどちらかになります。」
ヘブライ語翻訳はかなりの難題だった。翻訳者エマニュエル・ロッテム氏はアン・レッキー氏とやりとりしたメールの中で、こう書いている。
「ヘブライ語の動詞と形容詞はすべて、ジェンダーに応じて変化します。例外のひとつは"I"にあたる代名詞で、これは女性にも男性にも使えます。しかし、女性が"I sit"と言うときは"ani yoshevet"となりますが、男性の場合は"ani yoshev"となります。さらに目的語は、具体的だろうと抽象的だろうと、女性か男性かを区別します。そのため、たとえば"a large room with a large door"の場合、"room"は男性名詞、"door"は女性名詞にあたるので、"large"にあたる単語は前者では"gadol"、後者では"gdola"に変化します。これは、主人公ブレクが自ら物語を語る際にはともかく、非ラドチ人が話すときに大きな問題となりました。」
この問題は小説の訳題にも及んだ。
「"justice"を意味する"tzedeq"は、残念なことに男性名詞であるため、タイトルには絶対に使いたくありませんでした。」
日本語の文法にも、別の形でジェンダーの区別があった。日本語版の翻訳者、赤尾秀子氏はこう書いている。
「日本語訳でいちばん苦労したのは会話文(話し言葉)でした。英語の人称代名詞で性差があらわれるのは三人称だけですが、日本語の場合は一人称も二人称も種類が多く、おおよそ、男女による使い分けがあります。
また会話では、口調(とくに文末表現)にも、男女の差があらわれがちです。
そのため、物語の登場人物が『女性らしい言葉遣いをしない』場合、読者はその人物を『おそらく男性』だと無意識のうちに思ってしまいかねません。」
ハンガリー語では、事情はまったく異なる。実際のところ、チラ・クラインハインツ氏は「作中のラドチの言葉は[英語よりもハンガリー語に]ずっと近しい」と感じている。
「ハンガリー語には文法的ジェンダーがなく、三人称単数形は男でも女でも"ő"を使います。そのため、文中でキャラクターの性別がはっきり示されていない場合、その人物は『シュレディンガーの猫』のような状態にあります――明確に書かれるまでは、男女どちらでもありうるのです。
代名詞にジェンダーの区別がある言語からハンガリー語に訳す場合は通常、文中の早い段階でキャラクターの性別を示しておく必要があります。彼/彼女を『その男』『その女』といった具合に。そうすることで、原語の読者が持つのと同じイメージを確立することができます。複数のキャラクターが登場する場面では、文章が煩雑になることもあります。というのも、"she did a somersault, he did a cartwheel"[彼女は宙返りをして、彼は側転をした]と簡単には書けず、誰が"she"で誰が"he"なのかを一文の中ではっきりさせなければならないからです。二人ともおなじ中性的代名詞で呼んでしまっては混乱を招くので。」
翻訳者たちはそれぞれ、別々のアプローチをとった。
ロッテム氏は訳題を除き("Ancillary Integrity"という意味の訳題になった)、ヘブライ語の文法的ジェンダーに基づいて別の単語をあてる、という手法を選んだ。
「目的語については臨機応変に対応するつもりです。女性名詞の類義語をなるべくあてるようにして、形容詞はどうしても必要な箇所以外では省くか、他に方法がない場合はおかしく見えないようにと望みつつ女性形を使います。読者がこの文体にさりげなく慣れていけるよう、工夫する必要があるでしょう。」
また、非ラドチ人キャラクターの性別や、ブレクが彼らをどう呼ぶかも問題になった。二人称単数"you"にあたるヘブライ語の単語は、男女で異なるからだ。これについては、アン・レッキー氏とのメールのやりとりを大いに参考にしたという。
イリエヴァ氏は、作品に合わせて言語のほうを変えた。
「職業や軍事階級については接尾辞を造語しました。-ka- ではなく -a- を、男性形につけることにしたのです( -a- は女性に使われる名詞において一般的に現れる語尾です。形容詞の男性形を女性形に変える際にも使われます)。たとえば"oficerka"となるところを"oficera"、"inspektorka"となるところを"inspektora"というように。これはまちがいなく女性的に感じられますが、軽視するようなニュアンスはありません。」
ケンペン氏にとっては、ドイツ語の名詞におけるジェンダーの問題をどう解決するかは考えどころだった。「私は女性形を使うことにしました。そのため、原語版よりも語り口が“女性的”に感じられるかもしれません。」これはまったくの新発明ではないが、革新的なアプローチだった。
「最終的には、わたしはドイツ語版(訳題Die Maschinen)に序文を書くことにしました。本作の翻訳にまつわる特有の問題を説明し、フェミニズム的な問題にも触れました。英語よりもジェンダーが大きな意味を持つドイツ語では、ジェンダー・ニュートラルな言語はとても実現しにくいものです。フェミニストがしばしば批判する“男性総称”――たとえば"Liebe Leser"[親愛なる読者諸兄]のような複数形は文法上は男性形ですが、"Leserinnen"[女性読者]を含みます。そのため、“女性総称”つまり女性形を使って男性読者を包含する、という代案が提起されたこともあります。
わたしの知るかぎりでは、今回の翻訳は“女性総称”で書かれた初のドイツ語小説になります――ラドチ語を使わないキャラクターに関する一部の例外を除いてですが。そうした例外的な箇所では、英語の原文では性別が明らかではない人物に対して“正しい”文法的ジェンダーを用いて、原文よりも特定した表現にする必要がありました。幸いなことに著者とメールでやりとりできたので、曖昧さをある程度解消することができました。」
日本語では、赤尾氏はまた別のアプローチをとった。
「主人公ブレクはラドチ圏の外で、ジェンダーの使い分けを間違わないよう気を遣いますが、日本語訳では逆に、できるだけ曖昧にするにはどうしたらよいか、で悩みました。」
会話文に関してはこうも付け加えている。
「一方、三人称のsheに関しては、日本語訳でも当然女性を指すので、日本の読者は『女性らしくない話し方≒男性』と推測した人物が『she(女性)』で示されると、当初はおそらく違和感を覚えるでしょう。しかし、それがむしろ、物語世界に対する読者のイマジネーションを刺激し、膨らませてくれるのでは……と、いまは期待しています。」
イリエヴァ氏も読者に受け入れてもらう必要性に触れている。
「最初の数ページは少し奇妙に思われるかもしれませんが、すぐになじむでしょう。」
ハンガリー語では、クラインハインツ氏は作中の"she"について、中性形と女性形がもたらす効果のバランスをとる必要があった。
「Ancillary Justiceの翻訳にあたっては、ジェンダーの確定という問題を避け、ハンガリー語においては自然に感じられる中性的代名詞だけを使うことができました。もちろん、そうすると"she"を基本の代名詞とすることをあきらめねばなりません。そこでわたしは、人間関係を表現するにあたってジェンダー・ニュートラルな単語が不適当な箇所では女性的な単語を用いることで、その埋め合わせをしようと試みました。こうすることにより、全員が必ず"she"と呼ばれる状況が英語読者に与えた衝撃は失われますが、わたしとしては、基本的な代名詞として"she"が使われるという状況の裏にあるメンタリティを保ちつつ、文章をよどみなく自然に読めるようにしたかったのです。
ブレクが説明するラドチの言語は、英語よりもハンガリー語に近いように思われます。そのためハンガリー語読者の中には、ブレクが他言語で誰かを呼ぶときにジェンダーを正しく使おうとあれほど苦心するのはなぜか、“腑に落ちない”人もいるでしょう("he"と"she"を間違うようなミスをよくするハンガリー人は多いですし、それをあまり気にしてもいません)。ジェンダー・ニュートラルな代名詞を使うのは自然に感じられることで、通常の英語翻訳に比べれば簡単だったとさえ言えます。中性的な表現をそのまま使うというわたしの判断が、テキストの読みやすさによって納得してもらえることを期待しています。」
どの意見の中でもはっきりしているのは、翻訳というレンズを通して検討することにより、文法とジェンダーにおける“中性的”・“女性的”という観念の複雑さが明らかになる、ということだ――そしてまた、各言語が文語と口語の両方において持っている、将来的な可能性も。
時間と労力を割いて協力していただいた五人の翻訳者の方々に、そして仲介してくれたアン・レッキーとウィル・ロバーツに感謝します。
●翻訳者紹介
ミレーナ・イリエヴァ(Milena Ilieva)……フリーランス翻訳者として20年の経歴を持ち、SFとファンタジーを中心に幅広いジャンルで60冊の翻訳書を上梓している。主な訳書に《ヴォルコシガン》シリーズの最新6冊をはじめとするロイス・マクマスター・ビジョルド、アンディ・ウィアー『火星の人』など。また、ソフィア大学で英語を教えている。
ベルンハルト・ケンペン(Bernhard Kempen)……1961年ハンブルク生まれ。84年よりベルリン在住。比較文学を学び、87年にイースト・アングリア大学で修士号を、94年にベルリン自由大学で博士号を取得。93年より翻訳を始め、これまでに130冊以上の英語SFをドイツ語に翻訳している。また官能小説からSFまで様々な小説を発表し、キャバレーでパフォーマンスを披露しており、それらの一部は彼のトランスジェンダー・アイデンティティである「バルバラ」名義で発表されている。
エマニュエル・ロッテム(Emanuel Lottem)……1944年イスラエル生まれ、経済学博士号を所持。76年よりSFとファンタジーを中心に小説翻訳に携わり、これまでに100冊以上の翻訳SF/ファンタジーを上梓している。1983~85年にかけて、短命だが強い影響力を持った雑誌Fantasia 2000の編集委員長を務めた。1996年にイスラエルSFファンタジー協会を設立(2001年まで初代会長)するなど、イスラエル・ファンダムの発展に中心的な役割を果たした。
チラ・クラインハインツ(Csilla Kleinheincz)……ハンガリー系ベトナム人の作家・編集者・翻訳者。三冊の長編と短編集を発表している。主な訳書にピーター・S・ビーグル、ケリー・リンク、キャサリン・M・ヴァレンテ、アーシュラ・K・ル=グィン、スコット・ウェスターフェルド、アン・レッキーなど。現在、ハンガリーの出版社Gaboの編集者でもある。
赤尾秀子……津田塾大学数学科卒業。翻訳者としてSF、ミステリー、科学ノンフィクションなどを手がけ、主な訳書にセス・グレアム=スミス、ヴァーナー・ヴィンジ、ロバート・A・ハインライン、アン・マキャフリーなど。
Copyright © 2015 by Interfictions Online. Translated by the permission of Alex Dally MacFarlane
翻訳:東京創元社編集部
(2015年12月5日)
ミステリ、SF、ファンタジー、ホラーの月刊Webマガジン|Webミステリーズ!