◆SF古書と生きる。ひそかに人気の古書探求コラム
奇書好きのわたしとしては、
「『東京創元社 文庫解説総目録』に載っていない本」が
気になって仕方がなくなってしまった。


北原尚彦 naohiko KITAHARA

 

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 二〇一〇年末、東京創元社の文庫五十周年を記念して、『東京創元社 文庫解説総目録1959.4-2010.3[付・資料編]』が遂に刊行された。“遂に”と言うのもわけがある。これはそもそも、文庫四十周年の際に企画されていた本だったのだ。
 手元に届いた際には、思わず踊り出してしまった(←ホントです)。今度こそ本当に刊行されたという喜び、装丁の素晴らしさ、そして中身の充実ぶりゆえにである。
 本体の総目録は、ただ過去の文庫目録をまとめたというだけでなく、収録短篇やその原題まで判るようにしてある丁寧さ。
 分冊の[資料篇]は、過去の月報類から貴重な座談会を再録しただけでなく、本書のために新たに座談会やインタビューを行っている。これがまた、面白い上に読み応えたっぷり。
 嬉しいことに『ドイル傑作集』の編訳者としてわたしも目録に名前を連ねることができたのは、十年遅れたがゆえの怪我の功名。
mokuroku.jpg  ……ここでは、これ以上は「ここがイイ」「あそこが最高」と述べるのはやめておく。それだけで本連載一回分になってしまうし、手に取って頂けば判ることだからだ。
 とにかく、監修者の高橋良平氏、そして“目録奴隷”編集氏に感謝感激あめあられ、である。
 ひとつ言えることは、この『総目録』を読んだ人はみんな、ここに載っている本が読みたくてたまらなくなる、ということだ。かくいうわたしもそのひとりなわけだが、奇書好きのわたしとしては、更には「ここに載っていない本」が気になって仕方がなくなってしまった。
 それはどういうことかというと、東京創元社ではなく「創元社」の本についてもっと知りたくなってしまったのだ。
 創元社は一九二五年(大正十四年)に取次を母体として設立された大阪の出版社で、その東京支社が一九四八年に別法人となり、一九五四年に東京創元社となったのだ。
 創元社は割と固めの本を出す出版社で、文学系の本や“推理”抜きの「創元文庫」などを刊行していた。
 そこで自分が創元社の本は何を持っているか、確認してみることにした。まず創元文庫は中勘助『中勘助自選随筆集(上)』(一九五三年)とイリン『書物の歴史』(同)。前者については拙著『新刊!古本文庫』(ちくま文庫)にて紹介したので、ご参照頂けると幸い。
 阿部知二『微風』(昭和十四年=一九三九年)は、創元推理文庫版のホームズ物も訳した(現在、深町眞理子訳に入れ替わりつつありますが)文学者の小説集。「アフリカのドイル」という短篇が収録されているために買いました。
笑の話 尋常六年生
『笑の話 尋常六年生』
 そして長尾七郎『児童寓話 笑の話 尋常六年生』(昭和十年=一九三五年)は、かなりレトロな児童書。記録を確認したら、六年前に神田と高円寺の古書即売会をハシゴした際、高円寺で見つけたものだった。即売会場でなにげなく手に取ったら、目次の「百年後の日本」というタイトルが目に飛び込んできたので、こりゃめっけものだと購入したのである。函欠な上に少々ボロくて表紙の絵が擦れてしまっているけれども、格安だったので文句ありません。
 この短篇はそのタイトル通りの内容、つまりSFだった。ここでわたしは、創元社時代まで遡って、同社が最初に出したSFって何だろう? と疑問に思ってしまったのである。一旦疑問を抱いたら、気になって気になってしょうがない。……というわけで、今回はこれがテーマであります。
 まずは同書の内容をご紹介。件の「百年後の日本」は、座談会形式だったので完全な物語形態ではないものの、十二分に未来予測SFである。
 交通機関は、当初は地上が車であふれ、人間が歩くとすぐひき殺されてしまうようになった――というあたりは、交通地獄(←これも死語?)を予見している。車優先のため、歩いている人間は逮捕されてしまうそうだ。やがて、交通は空中と地中に追いやられ、洋館の屋上が飛行機発着場、地下室が地下鉄の停車場となるのだ。
百年後の日本(挿絵)
「百年後の日本」(挿絵)
 建物はどんどん高くなり、都会は最低で十階建て。地上は家で一杯になり、やがては稲を見るのに観覧料を取られ、れんげ草が一株いくらなどというれんげ狩が催されるようになる。
 食べ物は、キャラメル一個で一回の食事になるようなものが発明される。うーん、現在のカロリーメイトなんかが、ぎりぎりそれに当たるでしょうか。
 ……といった感じで、延々と予測が続く。座談会形式ゆえ「いや、僕はこう思うよ」などと、反対意見も出されたりする。
 本書には、これ以外にもSF系・奇想系の作品が幾つか収録されている。「桃太郎の土産話」も、そのひとつ。最近洋行から帰朝した桃太郎が、全世界に向けて富士山頂から放送した土産話、という設定。鬼が島がよく治まるようになり、大変開けたから一度来てくれ、と招かれたのだという。で、行ったのは推古天皇の時代――って、西暦六〇〇年前後ってことか? ずいぶん昔ですな。
 船が桟橋に着くと、桟橋がエレベーターになり、陸に上がると船が自動車になった。おお、SFだSFだ。
 洞窟が大庭園になっており、そこで人々が桃太郎を待ち受けていた。先頭は浦島太郎。奥の中央公会堂の門番は加藤清正(だんだん時代設定が滅茶苦茶になってきましたな)。園丁は花咲爺さん。
 公会堂で、桃太郎は貴賓席へ案内される。そして特別プログラムで、歓迎してくれる。開会の辞は豊臣秀吉。歓迎の挨拶はコロンブス。その他、菅原道真の詩吟やら、竜宮乙姫一座のレビュウやら。
 翌日は天女から天空旅行のお誘いが、乙姫から竜宮へのお誘いがあったが、これは断ってしまう(残念!)。博物館を見物すると、コロンブスの卵とか、エジソンの電気とかが展示されているのだ。
 帰ろうとして、何日経ったかと尋ねると、ざっと二千年だという。これはまた、浦島太郎どころではありませんな。超光速飛行でもしないと行けないところにでもあるんでしょうか、鬼が島。
 帰りは南米から北極探検に行く飛行機に乗せてもらったところ、顔見知り(有名人)もたくさん乗っていた。日本の幼稚園に入りたいというダーウィン(日本の教育が進んでいるという意味?)、南米へ野球の試合に行っていた牛若丸、国家非常時の世界経済視察からの帰り道の二宮金次郎、満州国視察へ行くリンカーンなどなど。ちょっと時局ネタが入ってきました。かくして、富士山に到着したのである。
 で、鬼が島は蓬莱の島となり、新南群島になったのだという。だから新南群島は日本のものなのである――という、愛国的テーマが述べられて話はオシマイ。
 でも帰ってきたのが昭和の御世だというから、ちょっとおかしい。推古天皇の時代から二千年経ったら、西暦二六〇〇年(皇紀紀元ではなく)になってしまうぞ。
 それに、鬼が島を「再訪」したのが推古天皇の時代ってことは、最初に鬼退治したのは一体いつのことだ。……とにかく、滅茶苦茶である。
 巻末の「大野球戦」も圧巻だ。世界各国の親善のために、全世界野球試合を行うことが平和会議で提言されたが、そのチームが発表されるや、全世界が震駭した。一方が列強を網羅した全世界チームで、もう一方が日本一国のみのチームだったのだ。常識で考えると不公平極まりないが、それだけ日本チームが強いということなのだろう。
 試合が近付くにつれ、日本各地に官民合同でラジオやテレビが設置され、交通巡査代用のロボットが急設され、臨時交通飛行機がトンボのように群がり飛ぶ。おお、これまたSFだ。
 さて、各チームのメンバーはというと――ご期待に違わず、歴史上の人物ばかり。全日本は源義経、坂上田村麻呂、武蔵坊弁慶、源為朝、荒木又右衛門、河野通有、阿倍比羅夫、武田信玄、上杉謙信、山田長政、宮本武蔵。全世界はネルソン、ルーズベルト、ビスマルク、ガリバルヂー、モルトケ、シーザー、コロンブス、クロパトキン、モンロー、李鴻章、ナポレオン。
 試合経過は、ラジオおよびテレビにて中継される。試合経過は長ったらしいので省略。要するに、はらはらと気を持たせた末に、日本の逆転勝ちである。
 翌日、太陽や月世界から祝電が届く。なんと、月人が存在するのみならず、天然の核融合炉たる太陽に生命体がいるらしい! 凄い、凄すぎる。また火星や木星でも、このニュースは報道されているから、火星人や木星人もいるぞ!
 いやはや、有名人が野球をするだけの話かと思ったら、とんでもないスケールのSFになってしまった。これだから、SF味のなさそう(と思える)奇想小説も、丹念に読んでみないといけない。
 作者の長尾七郎は、学校の先生だったらしいのだが、詳細は不明。編著書に『児童生活に即したる芸術表現の修身例話』(石塚松雲堂/大正十三年=一九二四年)がある。
 挿画は、洋画家の田村孝之介(一九〇三~一九八六)で、『田村孝之介画集』 (日動出版部/一九七七年)などがある。
 この『笑の話』は、タイトルからもお分かりの通り、学年別に「尋常一年生」から「尋常六年生」まであるシリーズ。なので、続いては同シリーズの別な巻に当ってみることにした。
 ネットで国会図書館の蔵書を検索してみると――一冊もない! うわあ、一番の頼みの綱だったのに。
笑の話 尋常三年生
『笑の話 尋常三年生』
 改めてネット全体で調べてみたところ、『尋常三年生』の巻を古書検索サイトで発見した。それなりのお値段は付いていたけれども、函が付いているし、国会図書館を含めて(ネットで検索できる)どこの図書館にも所蔵されていない模様。ならばお安い部類だと判断し、ポチっと注文。
 数日後、長尾七郎『児童寓話 笑の話 尋常三年生』(昭和九年=一九三四年)が届く。函から出してみて、オドロキ。『尋常六年生』と同じ表紙絵が使われていたのである。そうか、擦れていないとこういう絵だったのか!
 函絵は、表紙絵とは別物。函絵も各学年共通の可能性があるが、比較対象がないので何とも言えない。
笑の話 尋常三年生(函)
『笑の話 尋常三年生』(函)
 中身を読んでみると、やはりユーモア系の寓話が続く。三番目の「鉛筆ものがたり」は、“鉛筆”が一人称(僕)の語り手となっているではないか。おお、これは横田順彌氏が「吾輩もの」と名付けた、奇想小説の一種だ! その他、注目の作品をピックアップしてみよう。
 「金持の國」は、ファンタジイ系の寓話。たみちゃんは家がとても貧乏だったので、お金持ちになりたいと願ったところ、神様がそれを叶えてくれた。しかし社会全体も逆転しており、物を買う時はお金をもらわなければならず、強盗はお金を無理矢理置いていくのだ。お金を捨てることも罰せられ、お金は増えるばかりで往生する……という話。
 「りゅうぐう見物」は、現代(あくまで昭和初期という��現代�≠ナすが)のおじいさんおばあさんが竜宮城へ行く話。しかし二人が乗って行くのは亀の背中ではなく、なんと潜水艦。これでもう、本作は“SFファンタジイ”に認定だ。
 海底の国に着いてからは「ぎよけいすゐらい」に乗る。これは「魚形水雷」、つまり魚雷のこと。アレを乗り物にするのはちょっと……。
 いよいよお城に到着。おじいさんとおばあさんは、大歓迎を受ける。たくさんの出し物を見せてもらったが、二人の他にも「ロシヤ人やフランス人、イギリス人、支那人」の見物人がいた。彼らは「戦争のとき軍艦と一しょにしづんだ人たち」で、何も言わずに愉快そうにニコニコしている。……それって死人ってこと? 死人が無言で笑っていたら、とても怖いんですけど。
 帰りがけに乙姫様が「大きな箱」をくれると言うが、「したきりすずめ」で懲りたおばあさんは、それを断ってしまう。代わりに小さな貝をひとつずつもらうことにした。帰ってみると、数百年経っているかと思いきや、たったの一日。しかし貝を開けて真珠が転がり出ると同時に、二人は子供になってしまった。そこでおばあさんは尋常一年生に、おじいさんは尋常三年生に入ることになった……という結末。
 「うさぎとかめ」も“昔話の続篇”モノだ。兎が亀に、再戦を申し込む。現代の競走なのでオートバイに乗ると兎は言うが、亀は自分の脚で良いと言う。ところが兎はスピードを出しすぎてゴールを見逃し、ぐるっと地球を一回りしてしまう。おかげで今回も亀に負けました、というオチ。
 以上、『尋常六年生』「百年後の日本」のように“これぞSF!”と断じ得るものはなかったけれど、これだけ奇想小説が入っていれば充分だ。
 でも『尋常三年生』は昭和九年十二月の発行、『尋常六年生』は昭和十年四月の発行。下の学年から、順番に発行されたのでしょうか。
 挿画を描いているのは、『尋常六年生』とは違って小寺鳩甫(一八九九~一九六二)。大正から昭和初期にかけて人気のあった漫画家で、弟子筋に酒井七馬(手塚治虫と合作で『新宝島』を描いた人物)がいる。
 現物入手できたのは以上の二冊。しかし更に検索するうちに、都立多摩図書館『尋常五年生』が所蔵されていることが判明! この図書館の蔵書は、これまでにも近所の図書館に取り寄せる形で利用したことがあった。だが今回は古い本のためか、他館への貸し出しは不可。いずれにせよ、時間がない。ならば、直接行って読んでこようではないか。



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