サイバーパンクとアラビアンナイトが融合したSFファンタジイ小説
鍛治靖子 yasuko Kaji
G・ウィロー・ウィルソンによる2013年度世界幻想文学大賞長編部門受賞作『無限の書』Alif the Unseen(2012)をお届けする。本書をひと言で紹介するならば、サイバーパンクとアラビアンナイトが融合したSFファンタジイ小説である。 舞台は〈シティ〉と呼ばれる砂漠に囲まれた中東の専制都市国家。油田開発によって貧富の差がひらき、若者たちはインターネットで不満をくすぶらせ、政府の検閲はますます厳しさを増している、そんな国だ。そして主人公は、”アリフ”という、英語でAにあたるアラビア・アルファベット最初の文字をハンドルネームとしている二十三歳のハッカー青年。彼はいろいろと鬱屈している。父は資産家だが、母はインド人で、しかも第二夫人。父の家族からはないがしろにされ、混血であるため将来の展望は見えない。それでもコンピュータに関する才能は確かなもので、反体制派がつどうネットの世界では高く評価されている。
そんなアリフがとつぜん恋人に別れを告げられ、なぜか一冊の古書を預けられたことから運命が大きく動きだす。どうやらその本には、解き明かすことさえできれば莫大なパワーが手にはいる究極の知識が秘められているらしい。だが同じころ、政府保安局の凄腕検閲官〈ハンド〉が、とうとうアリフの正体に気づいて追手をさしむけてきた。本の謎を解き、かつ〈ハンド〉と戦うための武器は、コンピュータに関する知識のみ。さらには、それまで単なるファンタジイにすぎないと思っていたジンまでがからんできて……
まだ若くてたよりなく思えるところも多々あるが、アリフ本人は懸命にがんばっている。ぜひとも応援してやってほしい。
本書における大きなテーマのひとつがインターネットである。2010年よりアラブ世界で起こった民主化運動「アラブの春」でも、フェイスブックやツイッターなどSNSが大きな役割を果たしたといわれている。くり返しおこなわれた大規模デモの結果、チュニジアで、エジプトで、リビアで、つぎつぎと独裁政権が倒れていった。弾圧の厳しいアラブ諸国の実情を知り、ネットで活発に意見をかわしあう若者たちと交流していたウィルソンは、それ以前からこの小説に着手していたものの、自分はネットの力を過大評価しているのかもしれないと考えていた。ネットによってつながった民衆が政府を転覆させる「アラブの春」のような現象が現実世界で起こり得るとは、彼女自身も信じていなかったという。だがエジプトでは、まさしく彼女がこの小説を執筆しているあいだに真の革命が勃発した。驚くべき同時性といえるだろう。
ちなみに、2011年のエジプト革命のはじまりは同年1月25日、タハリール広場でおこなわれた大規模デモだとされている。本書でも、ウィルソンはこの日付を記念して小さなお遊びをしこんでいる。さがしてみよう。
アリフが預かったという問題の本『千一日物語【アルフ・イェオム・ワ・イェオム】』について簡単に説明しておこう。
1704年、アントワーヌ・ガランによりフランスで『千一夜物語』が紹介されはじめてまもなく、フランソワ・ペティ・ド・ラ・クロワという東洋学者が類似の物語集『千一日物語』を発表した。『千一夜物語』には原本とされる古いアラビア語写本が残っているが、『千一日物語』の原本はいまのところ発見されていない。ド・ラ・クロワは、中東を訪れたさいにペルシャの僧侶(僧侶の名は原書ではモクレ【Moclèt】、本書ではモクラ【Moqlas】)からもらった原稿を翻訳したと主張しているものの、現在では元原稿の存在そのものが疑問視され、ド・ラ・クロワがアラビア文学ブームに便乗して、自分で集めてきた民話や伝説をまとめたのではないかと考えられている。そのあたりは第7章で解説されているとおりだ。
内容に関しては、乳母が王女(王女の名は原書ではファリュヒナス【Farrukhnaz】、本書ではファリュフアス【Farukhuaz】)に物語を聞かせるという枠物語の設定は原書どおり。96ページに紹介されている冒頭部分もほぼ原書どおりである。だが、それ以後の物語はすべて(もちろん最終話も)ウィルソンの創作だ。また、「吸血鬼とヴィクラム王」という物語は実在するが(サンスクリット語で書かれたインド民話をサー・リチャード・バートンが翻訳して紹介している)、『千一日物語』とはなんの関係もないし、内容も本書とはまったく異なっている。
つまりウィルソンは、現実に存在する物語を利用しつつ、それを展開させてみごとに独自の幻想世界をつくりあげたのである。
イスラム教については、メッカにむかって一日五回の礼拝をする、女性は肌と髪を隠さなくてはならない、豚肉を食べてはならないなどといった戒律は日本でもわりとよく知られているが、キリスト教と同じく旧約・新約の聖書を啓典としていることはあまり知られていないように思う。聖書よりもクルアーン(日本ではコーランという表記のほうが馴染みがあるが、本書ではアラビア語発音に近いクルアーンの表記を使用した)が第一の聖典とされるのは当然ながら、クルアーンにも聖書の記述が数多く採択されている。たとえば、イスラム教においても最初の人間はやはりアダムである。神ははじめに光から天使をつくり、つぎに煙のない火(燃えさかる火という解釈もある)からジンをつくり、最後に土から人間をつくった。ジンたちが人間を、「アダムの子」「アダムの一族」「三番めに生まれたもの」などと呼ぶのは、そのためである。
そのいっぽうで、ジンは「見えざるもの」「隠れたもの」などと呼ばれている。本書の原題はAlif the Unseen「見えざるものアリフ」である。本来ならば、unseen や invisible はジンに対して使われるべき形容詞だ。アリフは人間であるが、このタイトルは、彼がコンピュータとハンドルの背後に身を隠し、「見えざるもの」として活動しつづけてきたことをあらわしている。
最後に、作者G・ウィロー・ウィルソンについて紹介しよう。1982年、ニュージャージー州に生まれた彼女は、ボストン大学卒業後カイロにわたってイスラム教に改宗し、現地で知り合ったエジプト人と結婚した。ジャーナリストとして活躍しながら雑誌や新聞に寄稿するかたわら、2008年にグラフィックノベルCairoを発表。その後もつぎつぎとコミック作品を出し、2010年にはエジプトでの体験を綴った自伝The Butterfly Mosqueを出版。2012年には初の小説作品となる本書を刊行した。2014年からは、イスラム教徒のパキスタン系アメリカ人女子高校生を主人公にした異色のスーパーヒロイン・コミック『ミズ・マーベル』の原作を担当して好評を博している。
ウィルソンは現在、家族とともにシアトルに住んでいる。東西の文化と宗教のあいだで生きてきた彼女にとって、中東に住むイスラム教徒の白人女性である本書の改宗者も、アメリカに住むイスラム教徒の非白人少女である『ミズ・マーベル』のカマラも、それぞれに自身の一部が投影されたキャラクターだといえるだろう。
冒頭でも紹介したように、本書は2013年度世界幻想文学大賞長編部門の受賞作品であるが、それ以外にも、2012年度中東文学賞YA部門(Middle East Book Award - Youth Literature)、2013年度太平洋岸北西部書店協会賞(Pacific Northwest Booksellers Association Award)を受賞している。またウィルソンは『ミズ・マーベル』によって、2014年度ブロークン・フロンティア賞(Broken Frontier Awards)原作部門、2015年度ヒューゴー賞グラフィックストーリー部門、2016年度ドウェイン・マクダフィー賞(Dwayne McDuffie Award for Diversity)を受賞している。いまは『ミズ・マーベル』の仕事がメインになっているようだが、これからも独自の世界観をもったSFもしくはファンタジイ小説を書いていってくれることを期待したい。
■ 鍛治 靖子(かじ・やすこ)
東京女子大学文理学部心理学科卒、翻訳家。主な訳書に、ハル・クレメント『20億の針』、ロビン・ホブ『騎士の息子』『帝王の陰謀』『真実の帰還』、ロイス・マクマスター・ビジョルド『スピリット・リング』『チャリオンの影』『影の棲む城』ほか多数。