証言を通して浮かび上がる、人間たちの愚行のカタログ。
著者渾身の傑作、待望の文庫化!
(09年4月刊 貫井徳郎『愚行録』解説[全文])
大矢博子 hiroko OHYA
これまで多くの小説の解説を書いてきたけれど、ある意味、これほど解説の書きにくい作品はない。ネタばれになるとか、あらすじを紹介しにくいとかというような技術的な面ではなく、もっとこう、心情的にというか何というか、解説を書くことで自分が試されているような気分になるのだ。 既に本編をお読みの方にはその気持ちを分かっていただけるのではないかと思うが、とりあえずその話をする前に、本書『愚行録』のアウトラインを紹介しておこう。
物語の大筋は、一家殺害事件の被害者についてのインタビュー形式で構成されている。閑静な住宅街で起こった殺人事件。夫婦と二人の子供が、残忍な方法で殺された。被害者夫婦とゆかりのある人々へのインタビューを通し、事件の輪郭が少しずつ語られる。と同時に、一流大学を出て人並み以上の生活をしていた被害者夫婦が、いったいどんな人物だったのかも──。
早稲田を出て、大手ディベロッパーに就職し、同世代の男性に比べると破格の収入を得ていた夫。聖心から慶応に入り、美人で常に人の輪の中心にいたお嬢さん育ちの妻。きちんと躾けられた可愛らしい二人の子供。何一つ欠けたところのない、絵に描いたような完璧な一家がいったい本当はどんな人たちだったのか、近所の人、同僚、同窓生などの証言によって浮き彫りになって行く。
ありていに言ってしまえば、ひとつの事件についてのインタビューや会話、あるいはモノローグだけで構成される小説というのは決して珍しい趣向ではない。多方面から見ることで物語に客観性が与えられるし、より多くの情報を読者に提供できるというメリットがあるからだ。特にミステリの場合、複数の関係者から異なる視点での証言を得ることにより、読者にはより多くの推理の手がかりが与えられるという点も忘れてはならない。つまり、物語の中核にある事件もしくはモチーフをより掘り下げるために、このような形式は実に効果的なのである。
が、しかし。
本書の場合は、少し違う。いや、かなり違う。
インタビュイー(インタビューされる人)たちは確かに、被害者となった田向夫妻がどんな人たちだったかを語っている。だから読者は、「ああ、この二人はこういう人となりをしていたんだな」とかなり具体的に想像することができる。なかなかにインパクトのあるエピソードが頻出し、完璧に見えた夫婦の隠された実情に驚いたり唸ったり、そしてゾッとしたり。ひとつひとつの証言に意外な展開があり、まるで幾つもの短編小説を読んでいるかのような気分にさせられるほどだ。
けれど読み進むうちに、違和感が膨らんでくる。
ここで語られているのは被害者である田向夫妻のことだ。それこそがメインであり、そしてそれだけのはずだ。なのに田向夫妻よりも、それを証言しているインタビュイーたちの印象が強く残るのはなぜだろう。
それこそが『愚行録』の真のテーマである。
一人目、近所に住む主婦の証言では、さほどの違和感は覚えなかった。どういう事件だったのかが紹介される最初の証言というせいもあり、語り手よりは事件そのものに興味を引かれたからだ。強いて言えば「こういう話し好きのおばちゃん、いるよね」という程度の印象。
けれど二人目のママ友達、三人目の同僚と進むにつれ次第に気になり始める。それがはっきりとした形をとったのは、私の場合は、四人目の女性証言者のときだった。慶応大学で田向夫人と同級だったというその女性が、被害者の当時の様子と、それを自分がどう感じていたかを述べる。その内容だけ見れば、当時の田向夫人は実に巧妙に立ち回ることのできる自己チューな女であり、人当たりが良さそうに見えて裏ではかなり戦略的だったらしい。そのことにこそ驚かねばならないはずなのだが、それよりも私はこの話をしている証言者のことを「こいつ、イヤな女だなあ」と感じたのである。巧緻な手管で他人を貶める田向夫人よりも、それを嬉々として話す証言者の方がずっとイヤな女だと。
彼女は田向夫人のことを話しながらも、その実は、自分がいかに田向夫人より上位にいたか、自分がいかに田向夫人のことを歯牙にもかけていなかったかを喧伝している。彼女が話したいのは殺人事件の被害者となった人物のことではなく、自分のことだ。彼女はことあるごとに繰り返す。
「貶めたいわけじゃないんです。ただ、私とはちょっと感覚が違うなと思うだけ」
「今から言うことは私自身の考えやものの見方とはぜんぜん違いますから」
いや、間違いなくアンタの考えでしょーが! はっきり貶めたいんでしょーが!
……不思議なもので、彼女の独り語りであるにも関わらず、読者は彼女の証言に胡散臭さを感じる。自己防衛と自己宣伝ばかりだということが透けて見える。
これはどういうことか。
他人を評価し他人を語ることは、自分を評価し自分を語ることに他ならないからだ。
例えば、田向夫人は人目を引く美人だった。常に人の輪の中心にいた。事実だけを述べるなら、それで終わりだ。けれどそこに、一人目の証言者は「清楚」「感じのいい奥さん」という印象を加える。二人目は「華やか」「無邪気」と言う。そして四人目は「ひどい人」と断言した。この印象の違いは、もちろん距離の近い遠いもあるだろうが、証言者の主観が大きく入っているからなのは明らかだ。この場合の主観とは「自分がそう思いたい」と言い換えてもいい。二人目の証言者にとっては、出自をさらりと自慢する田向夫人は決して気持ちのいいものではなかったが、そう感じてしまう自分の僻みや卑しさを認めたくないが故に、「無邪気」「育ちがいい」という表現を使った。四人目にとっては、自分が田向夫人に負けているとは決して認めたくないが故に、美人ではあったが性格は悪いという点をことさら強調した。
これは殺された夫への評価にも見られる。彼を頼りないという人もいれば、デキる男だったという人もいる。どちらが間違いというわけではなく、それは、その証言者にとってはそうだった(そうであってほしい)というだけなのである。
他人を語るとは自分を語ることに他ならない、とはそういう意味だ。故意か無意識かは問題ではない。何かを語るとき、人はどうしても自分というフィルタを通してものを見てしまう。そして自分というバイアスのかかった評価しかできないのだ。そこに浮かび上がるのは評者の性格であり考え方である。他人を語るというのは、諸刃の剣なのだ。
ここまで書けば、私がどうして本書の解説を書きにくいと言ったかも分かって戴けると思う。書評家という看板を掲げて、この本は面白いのつまらないのと好き勝手を書いているわけだが、同じ作品に対する批評が他の書評家と異なるというケースは多々ある。それも個人のフィルタを通しているからだ。フィルタという言葉でなければ、基準もしくは価値観と言い換えてもいい。そうして作品を語ること自体、自分を語っていることになる。ある一冊の本をどう評価しどう解説するか。読者は解説を読むと同時に、それを書いた私がどういう人間かも読み取っているのである。
これは、怖い。かなり、怖い。
そしてもうひとつ、お分かり戴けたことがあるはずだ。タイトルの『愚行録』の意味である。最初はほぼ全員の読者が、被害者夫婦の若き日の行動が「愚行」なのだと思ったろう。私もそう思った。しかし、それだけではない。確かに被害者夫婦の行動は褒められたものではないが、それ以上に、自分が見透かされていることに気づかず滔々と他者を評価してみせる証言者たちこそが「愚か」なのであり、そんな人々を集めたものがこの『愚行録』なのである。
愚か、という言葉に注意したい。善悪ではなく、是非でもなく、ただ愚かなのだ。悪なら断罪できる。非なら糾弾できる。しかし愚かであるということは……ただただ哀しい、と感じるのは私だけだろうか。
最後になったが、本書は人間の持つ愚かさとその哀しみを如実に、且つテクニカルに表現しながらも、ミステリとしての趣向も充分用意されている。各章ごとに挿入されるある女性のモノローグ。トリッキーな仕掛けに長けた著者なので、この一見何の関係があるのか分からない箇所がどこに落ち着くか、その技も併せて堪能されたい。
■ 大矢博子(おおや・ひろこ)
書評家。創元推理文庫ではチャーチル『飛ぶのがフライ』、樋口有介『彼女はたぶん魔法を使う』などの解説を担当。