本書はこのたび創元推理文庫にお目見えした、ギディオン・フェル博士の活躍譚です。末永く、どうかよろしくお願いいたします。
英国ハンプシャー州とワイト島の間にあるソレント海峡にせり出した、〈悪魔のひじ〉と呼ばれる地。そこに建つ緑樹館というカントリーハウスが本書の舞台です。故ワイルドフェア判事の旧宅で、悪名高かった判事が非業の死を遂げたせいか、因縁めいた雰囲気をまとっています(悪名が高くて判事が務まるのか、という点は気にしないでください)。
緑樹館の現当主ペニントン・バークリーは、長らく角突き合わせた先代の逝去後、まずは穏やかな日々を送っていました。晩婚ながら若く美しい妻に恵まれたペニントン、そこへ降って湧いたのが新たな遺言状です。意地の悪い時限爆弾を仕掛けておくとは、何て嫌味な親父さんでしょう。
こうして全財産を手にすることになった新たな相続人、「新たな」といっても赤の他人ではない。ペニントンの兄の忘れ形見であるニコラス(ニック)、要するに甥です。ニックは父親のメディア事業を継いで大きくしたやり手で、遺産など不要、ペニントン叔父がこよなく愛する緑樹館に住み続けられるよう手配すべくアメリカから渡英します。
一枚岩ではない親族間のごたごたを危惧したニックは、学生時代の親友を助っ人に呼ぼうと考える。それが本書冒頭に登場するガレット・アンダースンです。
歴史学者ガレットは、そこそこにしか売れない本を書いていましたが、お堅い政治家の伝記を大胆に脚色したミュージカルが大当たりし、著作が飛ぶように売れて経済的な心配がなくなったという幸運の主。平和な日々に取り立てて不満はない、何か足りないとすれば彼女か……『転生したらスライムだった件』の場合は彼女いない歴37年。こちらのガレットは40過ぎで、相性ぴったりの彼女と出会ったものの再会の約束をすっぽかされ傷心の1年間が経った頃合い。傷は深く、ニックが期待するトラブル解決の戦力になれるのか、実は疑問なのでした。
そんなガレットに、心強いどころか最強の助っ人が現れます。誰あろう、ご存じギディオン・フェル博士。二人は旧知の仲なんですね。
アガサ・クリスティの戯曲で、ある登場人物がサンドイッチを食べ続けるという設定があります。本書のフェル博士は勝るとも劣らない健啖ぶり、午後2時を回ってから1ダースのサンドイッチと大ジョッキのビールを少なくとも5杯、返す刀で8時には夕食が供されるんですから。どこもかしこも風をはらんだ帆のように膨れ上がっている、その体形を維持するためにはそれくらい当然なのかもしれません。
ならば推理も牛の歩みかといえば、とんでもない。深夜にエリオット副警視長ともども緑樹館を訪れたかと思うと、あくる夜には真犯人逮捕に至る。つまり、その前に真相を見抜き段取りしていたわけですよ。『本陣殺人事件』の金田一耕助ばり、まさに電光石火の早業です。
中西裕さんの解説「カーのホームズ愛」は、本書ばかりかカー/ディクスン作品の随所に顔を出すシャーロック・ホームズシリーズのキャラクターに注目した、興味深い内容です。執筆のためにいったいどれだけ読まれたのでしょう。言及されていない書目のほうが多いくらいのはずですからね。
解説は、カーのホームズ愛、ドイル愛の捜索を今後も続けると結ばれています。読者の皆さんにも捜索の愉しみを味わっていただければ幸甚に存じます。