渡邊利道 Toshimichi WATANABE


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 本書は、アメリカの作家フェンダーソン・ジェリ・クラークPhenderson Djèlí Clarkが二〇二一年に発表した著者初の長編小説A Master of Djinnの全訳である。
 伝説の魔術師によって精霊(ジン)や魔術が復活し、工業技術と融合してヨーロッパ列強に伍す、もう一つの近代エジプトを舞台にしたエキゾチックなスチームパンク・シリーズ《デッド・ジン・ユニバース》に属する長編で、ネビュラ賞長編部門とローカス賞第一長編部門を受賞している。

 一九一二年のエジプト。首都カイロ西南の都市ギザで、世界に魔術を復活させた伝説の大魔術師アル゠ジャーヒズを奉じるイギリス人の秘密結社のメンバーが、黄金の仮面をつけた謎の男に惨殺される。被害者はみなが服などはそのままに身体だけが焼かれた異様な死体になっていた。事件を担当する錬金術・魔術・超自然的存在省の特別調査官ファトマが手をこまねいているうちに、黄金仮面の男は衆目の中に現れ、政府が欧州列強と組んでエジプトを再び属国化しようとしていると告発し、不満をかこつ貧民たちを煽動しはじめる。大混乱に陥るカイロの危機を、果たしてファトマは収拾することができるのか? ……という物語自体はとてもシンプルなもの。一気読みできるリーダビリティの高いエンターテインメント小説で、魅力的で個性豊かな登場人物たちと、復活した鮮やかな魔術的世界、そして改変歴史ものの醍醐味である変容した世界情勢と、読みどころ満載の楽しい作品だ。

 主人公のファトマ・エル゠シャラウィーは弱冠二十歳でアカデミーを卒業し、首都カイロに配属され二年で特別調査官になった変わり種のエリート。南部出身者の浅黒い肌を持ち、舶来の派手なスーツに山高帽を被り、ステッキを持った颯爽とした姿で周囲を呆気にとらせる。向こう気が強く冷静で、観察力と推理力、そして何より思わぬ事態への対応力に優れている。場面が変わるたびに着用するスーツが替わるファッションへのこだわりが楽しい。
 ファトマの恋人のシティは、エジプト南部から植民地であるスーダン北部にかけての地方ヌビア出身で、古代宗教の女神ハトホルに信奉を捧げる謎めいた美女。超絶的な身体能力を持ち、手袋に取りつけた銀の爪であらゆるものを引き裂く残忍さも持つ。その身体能力の秘密は物語の後半で明かされる。
 ファトマの相棒になるハディア・アブデル・ハーフェズは、アレクサンドリアの中流家庭出身の二十四歳。アメリカの大学で教鞭を取った経験を持つ優秀な頭脳の持ち主で、体術の腕前も相当なもの。色鮮やかなヒジャブ(イスラームで義務づけられている頭を覆う布)を身につける「現代的な女性」。イスラームの教義や説話などの知識が豊富で、しばしば事件の謎を解く鍵を提供してくれる。
 その他、魔術省の同僚エージェントでファトマとはアカデミーで同期の体力自慢の男性ハメド、その相棒でちょっとうっかり屋さんだが知識豊富なオンシのコンビ、カイロ警察の警部で典型的な保守的ムスリムの中年男性アアシム、古代エジプトの鰐頭の神を崇める神官で、妻を謎の焼死事件で失い真相の解明を求めるアハマドなどがファトマの協力者たちだ。敵方、あるいは中立の人物はそれぞれ工夫を凝らした登場の仕方をするのでここで詳述するのはよしておこう。

 魔術的世界を彩る超自然的存在者たちは、大きく分けて三つに分類できる。彼らは古い伝説の時代の者たちだったが、一八七二年前後にアル゠ジャーヒズが秘術によって世界に呼び戻した。
 まずジン(精霊)。人にあらざる存在でありながら人のように考え、さらにさまざまな魔力を有する存在。さまざまな形態をとり、おのおの特殊な嗜好や能力を持っている。ジンとの取引に際してはかなり慎重で厳密な態度が必要とされる。
 ついで天使。人間のかたちをした巨大なぜんまいじかけの構造物で、四本の腕と大きな翼を持ち、本体である霊体が機械の枠組みに収まって光り輝いている。教会はその存在を天使であると認めず、学者たちも天使は自由意志を持たないとして疑義を呈している謎の存在。彼らはつねに神の意志を体現していると自負しており、何か人間には理解できない探究を試み続けている。
 最後に屍食鬼(グール)。生死を問わず人間を食べる長い手足と胴体を持った化け物で、とくに黄金仮面の男が使役する「灰の屍食鬼(アッシュ・グール)」は、黒い雲から現れたり変化したりする能力を持っている。アラブの説話では人間と会話もできる知的な存在で善良なものもいるが、本作ではほぼゾンビのような怪物でコミュニケーションは成立しない。
 彼らはそれぞれの様態で人間社会と関わりを持っており、事件を複雑化させたり、解決への糸口になったりする。

 そして改変された歴史だが、まず実在の近代エジプトの歴史を復習しておこう。
 エジプトの近代化の父と呼ばれるのが、小説内でも度々名前が出てくるムハンマド・アリー(一七六九〜一八四九)である。彼が生きた十八世紀末から十九世紀の前半にかけては、フランス革命などの政治的変革が続き、ヨーロッパで現在のナショナリズムに基づく国民国家による政治体制の基礎が作られた時代だった。当時エジプトはオスマン帝国の属州だったが、帝国の弱体化に伴ってヨーロッパ列強による領土獲得戦争が続いており、ムハンマド・アリーはその一環たるナポレオンのエジプト遠征を阻む戦いで頭角を現し、その後民衆の支持によってエジプト総督に就任した。ムハンマド・アリーは先進的なヨーロッパ文化の受容に熱心で、国民国家としてのエジプトを軍隊・教育・税制などで作り上げていく。隣国スーダンを占領し、ギリシア、シリアへと拡大路線を続けた。しかしエジプトが第二次シリア戦争でオスマン帝国を打ち破った一八三九年になるとヨーロッパ列強が介入し、ムハンマド・アリーの一族によるエジプト総督の世襲を条件に、スーダンを除く征服した領土の放棄と、形式的には宗主国であったオスマン帝国とイギリスの間で結ばれていた不平等条約の適用を迫ってエジプト国内の市場開放を強引に認めさせられるに至る。小説内でアル゠ジャーヒズが最初に現れるとされるのが一八三七年だが、その場所がスーダンで奴隷制を批判するためであったというのはなかなか穿っている。
 正史ではその後、イギリスを主とするヨーロッパ列強による経済的な支配と、ムハンマド・アリー朝のトルコ人優遇政策にアラブ系住民の反発が高まって大きなナショナリズム運動につながり、アフマド・オラービー(一八四一〜一九一一)という英雄が登場して政治体制の一新を主張。それを危険視したイギリスによる武力介入を招き、一八八二年のテル・エル゠ケビールの戦いで大敗すると、以後第一次世界大戦後までイギリスの軍事支配下となった。不平等条約による経済的な支配からの武力行使という道筋はヨーロッパ列強による植民地支配の常套手段であり、日本でも井上馨が伊藤博文に送った一八八六年の書簡で日本はエジプトのようになっては困ると書いていることから、ムハンマド・アリーの近代化政策は「早すぎた明治維新」などと言われることもあるのは、心に留めておいてもいいかもしれない。また、本作のヒロイン、ファトマが、周囲の顰蹙を買いながら舶来のスーツで身を固めている意図などもこれらの文脈から読み直すことができる。ちなみにイスラーム文化研究者の後藤絵美によると、急速な欧化が進んだ初期のムハンマド・アリー朝では、富裕層を中心に英米系ではなくフランス風の洋装が流行していたそうだ。
 小説内では一八七二年前後にアル゠ジャーヒズが異世界との「穴」を通じて超自然的存在者たちを解き放ち、前述のテル・エル゠ケビールの戦いでジンの力を借りて勝利、エジプトは完全な独立を手にしたことになっているのだが、正史においてはほぼ同時期に財政悪化からスエズ運河会社の株式を手放し、イギリスの軍事占領を招くことになるわけで、まさにギリギリのタイミングで逆転する設定になっている。その他、国際会議に出席するヨーロッパ首脳の面々など、実在の人物が多数登場するので、正史と見比べてその改変ぶりを楽しむのも一興だろう。

 最後に作者について。P・ジェリ・クラークは一九七一年ニューヨーク市クイーンズでトリニダード・トバゴ移民の子として生まれる。赤ん坊の頃に祖父母のいるトリニダード・トバゴに送られ、八歳でアメリカに戻り、十二歳の時にテキサスに移るまでスタッテン島とブルックリンで暮らした。南西テキサス州立大学(現テキサス州立大学サンマルコス校)で歴史学の学士号と修士号を、ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校で同博士号を取得。現在はコネチカット大学で教鞭をとる。専門は大西洋における奴隷制、抵抗、自由の歴史、および大衆文化やメディアにおける奴隷制への学際的アプローチなど。歴史学の分野では本名のデクスター・ガブリエル名義で活動している。作家としてペンネームを使っているのは、彼が若い頃、『ナルニア国物語』を読んで感動し、C・S・ルイスの作品を図書館で探したらカトリック関係の分厚い本が出てきたことがあり、自分の小説の読者にはそういう体験をしてほしくないからだそうだ。Phendersonは祖父の名前、Clarkは母親の旧姓、Djèlíはフランス語でグリオとして知られる西アフリカの語り部のこと。
 二〇一一年、Heroic Fantasy Quarterly誌に"Shattering the Spear"を発表しデビュー。一八年の「ジョージ・ワシントンの義歯となった、九本の黒人の歯の知られざる来歴」でネビュラ賞とローカス賞のショートストーリー部門を受賞(この作品は佐田千織訳でSFマガジン二〇二〇年六月号に掲載されている)。二〇年のノヴェラRing Shoutはネビュラ賞、ローカス賞、英国幻想文学大賞を受賞している。本作を含む《デッド・ジン・ユニバース》では、一六年にファトマとシティの出会いが描かれる最初の短編"A Dead Djinn in Cairo"が、一七年ショートストーリー"The Angel of Khan el-Khalili"が、一九年にノヴェラThe Haunting of Tram Car 015が発表されている。ショートストーリーを除いて、本作の中でいくらかそれぞれの物語について言及・説明があり、これらの作品を未読でも本作を読むのに一向に差し支えはないのでご安心を。



本稿は6月19日発売の『精霊を統べる者』巻末解説を転載したものです。



■ 渡邊 利道(わたなべ・としみち)
1969年生まれ。作家・評論家。2011年、「独身者たちの宴 上田早夕里『華竜の宮』論」で第7回日本SF評論賞優秀賞を受賞。2012年、「エヌ氏」『ミステリーズ!』vol.90掲載)で第3回創元SF短編賞飛浩隆賞を受賞。


精霊を統べる者 (創元海外SF叢書)
P・ジェリ・クラーク
東京創元社
2024-06-19