トークイベント会場
【トークイベント会場の様子】

【編集部より】
本記事は、東京創元社の創立70周年を記念して2024年4月12日に代官山蔦屋書店で開催された対談イベント「東京創元社の翻訳ミステリを語る! 越前敏弥×服部京子トークイベント」を書き起こしたものの後編です。おふたりの思い入れのある東京創元社作品や、翻訳というお仕事の行く先についても語っていただきました。

《前編はこちら》


◇登壇者
翻訳家・越前敏弥(以下「越前」)
翻訳家・服部京子(以下「服部」)
東京創元社編集部・佐々木日向子(以下「佐々木」)


●私の好きな東京創元社作品

◇越前敏弥の選書
アイザック・アシモフ〈黒後家蜘蛛の会〉シリーズ
リチャード・ハル『伯母殺人事件』

黒後家蜘蛛の会2種
【左:旧版の書影/右:2018年新版書影】

佐々木 ここからはおふたりの好きな東京創元社作品についてお話しいただきます。越前先生にお好きな作品として挙げていただいたのが、アイザック・アシモフ〈黒後家蜘蛛の会〉シリーズです。
越前 東京創元社作品に限定せず、オールタイムベスト。不動の1位です。シリーズ新版化の際、ありがたいことに2作目の解説も書かせていただきました。ほとんどファンの叫びなんですけどね。
佐々木 時間がないときにも読めるミステリとして、このシリーズを手にとられたとか。
越前 2、30年くらい前、予備校講師をやっていたときに、1日30分くらいしか本を読む時間がなかった。〈黒後家〉って各話30ページくらいの話なんですよ。渇きを癒すみたいな感覚で、この本を楽しみました。
 学者だったり、暗号の専門家だったりの6人の集まりが、ちょっとした謎解きをレストランでやるんです。そこに(新版書影を指さす)この顔の見えないヘンリーという給仕と、ゲストがひとり加わって、だいたいゲストが謎を出します。みんなしてそれを解こうとするんですが、みんなして教養人ですからガンガンガンガンしゃべって、最後、この控えめなヘンリーがビシッと答えを出して終わる。そういうつくりです。
 人が死んだりしない、ちょっとした頭の体操みたいな話ばかりなんだけど……「ちょっとした」ではないんですよね。謎解きの背景に膨大な量の知識がある。アイザック・アシモフは超人、ものすごい教養人ですから。いろんなキャラクターが、さまざまな知識を駆使してしゃべるんです。数学者だったり、法律の専門家だったり。それぞれが専門家としてああだこうだいうんだけど、どれもちょっと外れている。最後にヘンリーが決めて、爽やかに終わる。
佐々木 様式美というものをすごく感じる短編集です。
越前 僕のなかでダントツ1位です。30年くらい変わってないかな。
服部 読みます!
越前 ぜひ。さっきも言いましたが、忙しいときでも読めるというのがいいです。

伯母殺人事件&他言は無用

佐々木 もうひとつがリチャード・ハル『伯母殺人事件』です。
越前 リチャード・ハルについては、この次に書かれた『他言は無用』を僕が創元で翻訳しました。ハルはこの『伯母殺人事件』で名前が通っていて、よく世界三大倒叙ミステリなんて言われ方をされるんですけども……
(編集部注:倒叙ミステリとは犯人がわかっている状態で進むミステリのこと。世界三大倒叙ミステリとされるのはリチャード・ハル『伯母殺人事件』、フランシス・アイルズ『殺意』、F・W・クロフツ『クロイドン発12時30分』。ドラマ「刑事コロンボ」「古畑任三郎」などもこの形式をとっている)
越前 大きな声で言えないんだけど、「そうなのかな?」と思います。それはレベルが低いという意味じゃなくて、本当にこれを倒叙ミステリと呼んでいいのかなと思う仕掛けがある。ひねりが大好きな作家なんですよね。『他言は無用』もそうで、ちょっと違ったひねりがある。ハルの作品は日本では3作しか訳されてなくて、あと1作は森英俊さんの翻訳で原書房から出ている『善意の殺人』。他の作品も変化球というか、ある種の叙述ミステリなのに、叙述ミステリでないところがあったりとか、1作1作変化をつけている。イギリスの折原一と言ったらいいのかな(会場頷き)。もっと翻訳してもらいたいと思っていて、僕も翻訳したいと思っている作家です。あと『伯母殺人事件』は他社からも出ていて、そちらは『伯母殺し』というタイトルです。これも微妙な話なんだけど、どちらの邦題がいいかというと、僕は『伯母殺人事件』が絶対いいと思ってるんですが……理由は言えません。読んでください。読んで、東京創元社に「復刊希望!」というメッセージを送ってください。
◇服部京子の選書
ケイト・モートン『忘れられた花園』『秘密』『湖畔荘』
アーナルデュル・インドリダソン『声』
ポール・アダム〈ヴァイオリン職人〉シリーズ

忘れられた花園&秘密

服部 私はケイト・モートンを「過去ミスの女王」と呼んでいます。着地も綺麗で、つかみもうまい。『忘れられた花園』は、ロンドンからオーストラリアに渡る船に子供がひとり乗っていて、それはなぜか、というところから始まる話です。青木純子先生の翻訳も本当に素晴らしい。私の好きな「ヒューマンドラマ+ミステリ」の傑作です。『秘密』は第二次世界大戦下のロンドンが舞台で、戦争のなかで、あ、ネタバレになっちゃう……(会場笑い)。とにかく、読んでください! ケイト・モートンは本当におすすめです。
越前 『秘密』は翻訳ミステリー大賞で、その年のベストとして投票しました。作品としては『忘れられた花園』のほうが好きなんですけど。ベタベタしていない、ちょうどいいロマンスなんですよね。
(編集部注:ケイト・モートンは『忘れられた花園』で第3回翻訳ミステリー大賞を、『秘密』で第6回翻訳ミステリー大賞を受賞した)
服部 当時のロンドンの描写もすごくいいですよね。
越前 ロバート・ゴダードも似たようなタイプですが、こういう作品はすごく好きです。
服部 あちらも「過去ミス」系ですよね。
越前 現代から何十年も過去へ遡って、ときに過去から過去へ遡って、色々解明する。そういうタイプのミステリは僕も好きです。今もそういうのを訳してたりするんだけど。
服部 謎のスケールが大きくなりますし、ロンドンなどの当時の描写も楽しめる。大河ドラマみたいな楽しみがあります。

湿地&声

佐々木 次はアーナルデュル・インドリダソン『声』です。
服部 ああ、泣いちゃう。泣いちゃう(涙声)
佐々木 この作品はアーナルデュル・インドリダソンの〈エーレンデュル〉シリーズの……カンペを見ないと発音が難しい(笑)。アイスランドの作品です。
越前 北欧は発音が難しいよね。あとカタカナがなかなか覚えられない。
佐々木 私はインドリダソンを「ドリドリさん」と呼んでいます。ドリドリさんの代表作が翻訳第1弾の『湿地』。第2弾に『緑衣の女』ときて、第3弾が『声』。服部先生は本書のどういったところがお好きなんでしょう。
服部 本当に切ないんですよね。事件自体は、まあ人が殺されてるんで大変なことなんですけど、美しくて、ものすごいヒューマンドラマなんです。そして全体的に、暗い。
佐々木 捜査官自体も家庭に問題を抱えている、いかにも北欧ミステリという感じです。
服部 でもあの国、幸福度ランキング高いんですよ!
越前 高いですよね。
服部 ランキング高いのに、なぜこんなに暗いのかとは思うんですけど、素晴らしい作品です。シリーズ内では『声』がいちばん好きで、これもたしか翻訳ミステリー大賞をとったんですよね。
(編集部注:『声』は第7回翻訳ミステリー大賞&読者賞をダブル受賞した)
佐々木 スウェーデン語の翻訳者、柳沢由実子先生に翻訳していただいている、小社の人気シリーズです。最近『悪い男』という最新刊も刊行になりました。北欧ミステリは読むと大変ですけど、すごく胸にずしっとくる。私も『声』の初読時はすごく衝撃を受けましたし、こういう作品を書ける国はすごいなと思いましたね。
服部 体調がよくないと読めないですね。『湿地』『緑衣の女』は重かった。あの重さは、『声』では若干だけど軽くなる感じです。
佐々木 『緑衣の女』は凄まじい作品でした。でも辛い事件を描く必然性もわかるし、読むとそれがまた胸に染みる。

ヴァイオリン職人シリーズ

佐々木 あと1作が『ヴァイオリン職人の探究と推理』。ポール・アダムの作品です。
服部 登場人物が温かいんですよね~。まあ人は死ぬんですよ。でも温かい。主人公は職人さんのおじいちゃんで、もうそれだけで、最高です。青木悦子さんの翻訳もほんとに素晴らしくて、大好きなシリーズなんですけど、3作しかない。
佐々木 もともと本国では2作しか出ていなくて、この『ヴァイオリン職人の探究と推理』が日本で人気となり、3作目を日本オリジナルで書いてくださいと著者さんにお願いしたら、書いてくれまして(!)。3作目は日本だけで刊行されたというシリーズです。ヴァイオリン職人のおじいさんと刑事が、楽器にまつわる謎解きをする。服部先生は、楽器が面白そうと思って手にとられましたか?
服部 カバーデザインを見て、ジャケ買いに近かったかもしれないですね。
佐々木 人は死ぬけれども残酷な感じはなくて、音楽や食の描写を楽しめます。2作目のタイトルは『ヴァイオリン職人と天才演奏家の秘密』。大ヴァイオリニスト・パガニーニの秘密に迫る。
服部 2作目のパガニーニの偉大さってすごいですよね。パガニーニは変なやつなんですけど、もうヴァイオリンの超絶技巧がとんでもない。作中では時代が飛ぶんですよね。パガニーニの時代が描かれて、パガニーニ絡みのヴァイオリンが現代でどうなっちゃってるかも描かれる。
佐々木 楽器とか音楽とか、旅行が好きな方にもおすすめしたい作品ですね。3作目はノルウェーに行きます!
服部 青木先生も音楽がお好きなんですよね。
佐々木 すごく音楽好きということで、これは私がリーディングをお願いして、翻訳に至った作品です。
服部 美しい。
佐々木 面白い。
越前 このシリーズ、根強い人気がありますよね。
佐々木 3作目を書いてと著者にお願いして、数年後にとつぜん原稿が来ました。4作目もお願いだけはしているので、もしかしたら、またいつか書いていただけるかもしれないです。

◇総括――東京創元社の翻訳ミステリとは?

佐々木 おふたりのお好きな作品を聞いてまいりましたが、東京創元社の翻訳ミステリと聞いて、思い浮かぶイメージはございますか?
服部 やっぱり謎解き、フーダニット、ホワイダニット……それがコンパクトにまとまっている。今はホロヴィッツが代表かと思いますけど、謎解きミステリってやっぱり面白いんですよね。東京創元社さんの作品は完成度が高いので、楽しみにしてます。
佐々木 越前先生はいかがでしょう。
越前 まあおんなじですね。もちろん東京創元社は本格ミステリだけではないんだけど、本格が核になっていて、一定のレベルは満足できるようになってます。昔からそう思う。マークがついてたのは何年前でしたっけ。
佐々木 以前はジャンルマークというのがありまして、弊社文庫の本格ミステリの背表紙には「おじさんマーク」、サスペンスには「黒猫マーク」などがついてました。
(参照記事:翻訳ミステリについて思うところを語ってみた・その13 創元推理文庫の背表紙はカラフルなのだ
越前 当時は本格ミステリをたくさん買っていたし、今もそっち方向を読みたくなります。他のジャンルでもきちっとした謎解きがあるなと思います。安心して読める。
服部 安心安全。人が死ぬので安全ではないですね。安心して読めるミステリです。
佐々木 とても嬉しいお言葉をいただきました。


●これからの翻訳者に求められるのは

◇翻訳する上でいちばん大切にしていること。

佐々木 ここからは翻訳のお仕事について、イベントご参加の方々のご質問も交えてお伺いできればと思います。まずは、おふたりが翻訳をしている上で、最も大切にしていることはなんでしょうか。
越前 誰がいちばん大事か――作者か読者か――ということは常に考えます。そして、どちらかを選べと言われれば読者を選ぶだろうな、という姿勢で翻訳していて。でも読者を考えれば考えるほど、作者を考えることにもなる、と思っています。迷うことはいっぱいあって、たとえばどのくらい噛み砕いて訳すか、とか。読者のことを考えれば、わかりやすいのがいい……とも限らない。読者は作者のことを知りたいんだから。作者が小難しい物言いをする人だったら、原則としては小難しいものにすべきだろうし。でも最終的にどちらかに落とすなら、読者のほうかなと。
佐々木 服部先生はいかがでしょう。
服部 やっぱり読者の方は大切です。
越前 買ってくれるし。
服部 買ってください! 以前の読書会ライブで山田蘭先生が、「本が持っているエネルギーを余すところなく伝えなきゃいけない」とおっしゃっていて、うわぁそうだよ!うん!(力強く手を打つ)それそれぇい!と思いました。作品自体がもっているエネルギーを欠かさないように伝える。
越前 言葉の表面だけじゃなくて、ということですよね。
服部 まあそれがなかなか……(悩)。できていればいいかな、と思います。
佐々木 伝わってると思います!
服部 私もどちらかというと、わかりやすく伝えたいなと。翻訳ものは読みづらいとよく言われます。素晴らしい作品がたくさん出ていますから、そんなふうに言われないように、わかりやすくとは心がけています。
佐々木 『自由研究には向かない殺人』の主人公ピップは、原文で「She is」とあるところを「彼女は」じゃなく「ピップは」とするなど、細かい工夫をされていますね。
服部 それは田村義進先生の教えです。
越前 僕ら門下生は原則としてそうですね。
服部 「彼女は」「彼は」と使うときももちろんあるんですけど、キャラクターとの距離が出ちゃうかなと。ぴたっと貼りつきたい。
越前 ぴたっとね。自然な日本語を考えるとたいてい「彼」「彼女」は落ちていく。それは主語が落ちるという日本語の構造にも関係するんですけど、自然と代名詞が落ちていくべきだと思います……けど、話は脱線しますが、『飛蝗の農場』はそれをひっくり返したやつです。あえて「彼」「彼女」だらけにしているんですが、これも読んでみてのお楽しみ。例外的にはそうすることもあります。

◇翻訳したいと思える作品って?

佐々木 おふたりには、翻訳したいと思える作品の条件・要素はありますか?
越前 面白いことは大事なんですけど、海外の作品である必要性もちょっと考えます。日本の作家が同じことをやっていれば、出す必要がないのかもしれない……極論するとね。海外の作品について常に考えるのは、自分に似ているものと、自分と違うもののバランスです。日本の立場から見て「同じようなことを考えている」という共感の面白さと、「違うことを考えている」という面白さ。それは考えだけじゃなく、事物や風物にも同じだと思う。そのバランスがいい作品、両方を満たす作品を日本で紹介していくべきだと思っています。
服部 今お金払いたくなっちゃいました。素晴らしい講義……
越前 本を買ってください。
服部 承知しました!
越前 『自由研究』のシリーズは、共感する部分も多いんだけれど、微妙に日本の高校生との違いも楽しめるところが、より良いと思う。
服部 ピップは高校生ですが車に乗っていて、行動範囲が日本とは全く違います。酒とかもがんがん飲みます。
佐々木 日本では成人年齢が最近18歳になりましたが、イギリスでは1960年代から18歳が成人年齢で、その違いが大きいのかなと思っています。大人びていますよね。
服部 イギリスは学校制度もめっちゃめちゃ難しいです。Aレベルの試験とか。
越前 コンプリヘンシブスクールとか。
服部 このあたりは訳注で説明したんですけど……何かいいアイデアはございますか?
(編集部注:訳注とは日本ではなじみのない言葉などを説明するため、翻訳者が訳文に添える注記のこと)
越前 訳注はなるべく減らしたいとは思うけど、細かいところは仕方ないんじゃないですか? 説明のために訳文が変になるよりは、訳注を入れた方がいいと思う。
佐々木 なるほど……服部先生が翻訳したいと思える作品の要素はいかがでしょう。
服部 やっぱり、キャラが立っていることです。
越前 ……黒後家……黒後家……
服部 読みます読みます!
佐々木 キャラクターがお好きじゃないかも、となったときは躊躇(ためら)われますか。
服部 そうですね……
越前 たとえばミネット・ウォルターズの作品には、ものすごく嫌なやつが出てきますよね。必ず出てくる。で、嫌な部分が最後まであるんだけども、慣れてくるとこいつの良さもわかってくる。途中で改心するとかそういうことじゃなくて、この嫌さも人間なんだなとわかってくる。そういうのは、好きとは違うかもしれないけど、深いと思う。
服部 ウォルターズは、ひと言で言えない人間描写が魅力的だと思います。中編「養鶏場の殺人」にも、とんでもない人が出てきますよね。
越前 いちばんひどいのが『鉄の枷』に出てくる男。あれはすごい。
服部 訳しているとのめり込んじゃうタイプなので、キャラクターに「おい!やめろ!」とか思います。
越前 そういうときは休憩されますか。
服部 どっか行っちゃいますね。散歩いったり猫なでたり猫吸ったり。

◇これからの翻訳者に求められるのは?

佐々木 お次は、特に越前先生に伺いたい質問です。先生はお弟子さんもたくさんいらっしゃいますけど、若手の翻訳者さんに期待されていることはございますか。
越前 これも話すと長くなるんだけど……やっぱり、まずは自分で面白い作品を見つけてくることが大事だと思います。これからの時代は、待っているだけでは何も動かないと思う。作品の面白さだけじゃなく、ひょっとしたらプラットフォームの話になってくるかもしれないですけど。どういう形で本を紹介していくか、というところも関係するかもしれない。もちろん、英語をちゃんと読めるとか、ちゃんと文章を書けるというのは当たり前のことだけど、それ以外にあるとすれば、面白い本を自分で見つけてくるということ。そして抽象的な言い方ですが、新しいことを始められる人。そう思います。
服部 翻訳につながる本を見つけるのは大変なんですよね。
佐々木 本国で刊行されている作品は、すでに翻訳権が決まっていることも多いです。
(編集部注:原書が本になる前の段階で、原稿をもとに翻訳可否を検討することも多くあります。)
越前 ミステリは特に多いですね。でも、出版社の検討から漏れているものもけっこうあります。『ロンドン・アイの謎』はそうですし。MWA賞(アメリカ探偵作家クラブ賞)とかCWA賞(英国推理作家協会賞)も、長編部門以外の作品は漏れていたりする。エリザベス・ウェイン『コードネーム・ヴェリティ』はMWA賞のYA部門の受賞作を、翻訳者の吉澤康子さんが持ち込んだんですよね。そういうことは意外にまだまだあったりすると思うんで、諦めることはないと思う。
服部 YA市場は、まだそういう作品がぽつぽつとありそうですよね。
越前 YA、児童書のほうがあると思う。
佐々木 検討してみると「本当に子供向け……?」と思う作品が結構あります。先ほどお話に出た『コードネーム・ヴェリティ』は、第二次世界大戦下を舞台にした濃密な物語で、英米ではほんとうにこれをティーンエイジャーが読んでいるのかと思うと、すごい作品です。

◇「ここはうまく訳せた!」会心の訳文は?

佐々木 これは参加者の方からのご質問です。「お二人の訳書で、ここは上手く訳せた!という会心の一文はありますでしょうか?」。まずは越前先生、いかがでしょう。
越前 思いついたのは、今年の秋に復刊する作品です。作品名はまだ言えないんですが。今まで訳したすべての作品のなかで、訳しながら自分で笑い転げた、唯一に近い作品なんですよ。ある箇所があんまりにも面白くておかしくて、布団に入ってからも笑いが止まらない夜が何日も続きました。それが会心といえば会心かな。
服部 自分の訳に笑っちゃうの、すごく嬉しいです。
越前 そうそう。自分で笑うのはなかなか難しいことだから。
服部 不気味ですけどね。
佐々木 服部先生はいかがでしょう。
服部 『自由研究』の原書に、「Thank you, thank you, thank you.」というフレーズがありました。私はクイーンが好きなんです。エラリー・クイーンじゃなく、歌うほうの。だからフレディ・マーキュリーが来日したときに「ありがとうベリーマッチ」と言っているのを聞いて、「うわーんフレディ! いつか使いたい!」と思っていたんです。で、「Thank you, thank you, thank you.」を「ありがとありがとベリーマッチ」にさせていただきました。もうこれ以上のお気に入りは出ません。フレディありがとう。
越前 一生に一度はやりたかった、という翻訳ですね(笑)
佐々木 訳文に対して余計なことを言わなくてよかった、と今すごく思ってます(笑)

◇無人島に持っていきたい海外ミステリ

佐々木 「お二人にとってのベスト海外ミステリを教えて欲しいです」というご質問も来ています。ベストでもいいですし、無人島に持っていきたいとかでもいいと思います。
越前 ベストは『黒後家蜘蛛の会』なんですけど、無人島に持っていきたいのは、数年前に翻訳したフレドリック・ブラウン『真っ白な嘘』という短編集に収録されている、無人島に取り残された男の話(「歴史上最も偉大な詩」)。本書のなかでいちばん好きなのがこの短編で、ぜひ無人島で読んでもらいたい。あとベスト2というなら、文藝春秋から出た『フリッカー、あるいは映画の魔』です。
服部 ああー。
越前 最近も読み直したんですけど、『薔薇の名前』級のすごい作品だなと思いました。で、『薔薇の名前』よりずっとわかりやすい(笑)。映画好きは狂喜乱舞するし、秘密結社好きも狂喜乱舞する話なんだけど、そのどちらでもない方にもおすすめです。過去の謎を解いていく……歴史ミステリというジャンルの頂点だと思ってます。
佐々木 ありがとうございます。服部先生はいかがでしょうか。
服部 やっぱり『忘れられた花園』です。衝撃的な面白さですから。あとは『ダ・ヴィンチ・コード』
越前 ありがとうございます(笑)
服部 5回か6回読みました。あまりに面白すぎて。
越前 僕より読んでるかもしれない(会場笑い)。ああいうタイプのものって夢中になりますよね。
服部 うんちく系とも言いますか。
越前 うんちく系で、過去の謎を解いていくという。『黒後家蜘蛛の会』もそうなんですけど、さまざまなジャンルの知識をわかりやすく書いているという意味では『ダ・ヴィンチ・コード』と一緒といえば一緒。そういう作品は何度でも読みたくなる。謎解き一発じゃないから。

◇映画やコミックは参考にしますか?

佐々木 もうひとつ読者の方からのご質問を。「人物の口調など、翻訳する上で参考にする物はありますか?  例えば映画やドラマ、コミックなど」。いかがですか。
越前 最近はあまり参考にしてないかもしれない。以前は翻訳に向けて、類似の作品を読んだりしてましたけど。自分の話じゃないですが、翻訳者の中村有希さんはコミックをばんばん読むって言ってましたね。
服部 翻訳者さんには、映画とかコミックお好きな方多いですよね。
越前 コミックはいちばん手っ取り早く口調を研究できる。あと、俳優に当てるということも、作品によってはやります。
服部 おー、そうなんですか。
越前 英米の俳優の場合もあるし、日本の俳優の場合もあるけれど、ぴったりの人がいた場合はやる。ダン・ブラウン作品のロバート・ラングドン教授は……
服部 トム・ハンクス?
越前 じゃないんですよ。ジョージ・クルーニーのイメージで訳してたら、映画でトム・ハンクスがラングドン教授を演じて、最初はちょっと戸惑った(笑)。実際、ジョージ・クルーニーも候補に入ってたらしい。トム・ハンクスは『インフェルノ』のあたりではもう走れなくなって、息が上がってたし。
佐々木 なるほど。服部先生はいかがですか。
服部 『エロイカより愛をこめて』という漫画があって、もしスパイスリラーの仕事がきたら参考になるだろうなと思っています。東西冷戦の時代の話です。
越前 あと、何度も『黒後家』の話をして恐縮なんですけど、あの作品のキャラクターはけっこう僕の頭に入っています。池央耿さんの翻訳で喋り方が全部頭に入ってるから、引き出しにいるのが『黒後家』の6人、ヘンリー入れて7人だったりするかもしれない。そのくらい、この作品には影響を受けてます。

◇最後に――今後の翻訳のお仕事

佐々木 今後のお仕事の告知などをぜひと思います。越前先生いかがでしょうか。
越前 まずは『飛蝗の農場』のジェレミー・ドロンフィールド。いまはノンフィクション作家になっています。歴史ノンフィクションを書いていて、そのうちのひとつ、アウシュヴィッツについての作品が、河出書房新社から今年中に出ます。アウシュヴィッツ――最も厳しい収容所ですね。そこにお父さんが送られそうになったときに、息子が自ら志願してアウシュヴィッツに行くという。
服部 わ……
越前 ノンフィクションなんだけれど、フィクションを読んでいるような……そんなドロンフィールドの新作をお届けできます。『飛蝗の農場』と合わせてお楽しみください。
佐々木 ありがとうございます。では服部先生お願いします。
服部 ホリー・ジャクソンの〈向かない〉シリーズではないスタンドアロン(独立)作品、Five Surviveを2025年に刊行します。もうひとつ、こちらは持ち込んだ作品で、第二次世界大戦下のロンドンを舞台にした、少年探偵団みたいなノリのお話です。またこれが可愛いんですよ子どもが。あんまり子ども好きじゃないんですけど。あとわんこが出てきます。わんこも可愛いんですよ。猫のほうが好きですけど。
越前 あっはっはっは(笑)
服部 デボラ・ホプキンソンという、児童書分野で活躍する作家の作品で、どちらも東京創元社から刊行予定です。
佐々木 おふたりとも、今日は楽しいお話をありがとうございました!

(2024年4月12日 東京・代官山蔦屋書店にて収録) 




■越前敏弥(えちぜん・としや)
1961年生まれ、東京大学文学部卒業。英米文学翻訳家。ダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』『オリジン』、エラリイ・クイーン『災厄の町』『フォックス家の殺人』『十日間の不思議』、フレドリック・ブラウン『真っ白な嘘』『不吉なことは何も』など訳書多数。主な著書に『翻訳百景』『文芸翻訳教室』『この英語、訳せない!』などが、共著に『シートン動物記で学ぶ英文法』などがある。

■服部京子(はっとり・きょうこ)
翻訳者。中央大学文学部卒業。主な訳書にボーエン『ボブという名のストリート・キャット』、キム『ミラクル・クリーク』、ジャクソン『自由研究には向かない殺人』『優等生は探偵に向かない』『卒業生には向かない真実』など。

黒後家蜘蛛の会1【新版】 (創元推理文庫)
アイザック・アシモフ
東京創元社
2018-04-12


忘れられた花園 上 (創元推理文庫)
ケイト・モートン
東京創元社
2020-04-03


声 (創元推理文庫)
アーナルデュル・インドリダソン
東京創元社
2018-01-12


ヴァイオリン職人の探求と推理 (創元推理文庫)
ポール・アダム
東京創元社
2014-05-30