【編集部より】
本記事は2022年7月27日にジュンク堂書店池袋本店で開催された、レイモンド・チャンドラー『長い別れ』(創元推理文庫)刊行記念対談の第二部(後半部分)です。第一部(前半部分)はWebマガジンでの公開に先立ち『紙魚の手帖』vol.7(2022年10月刊)に掲載されていますが、この第二部は本邦初公開となります。どうぞお楽しみください。

●第一部(前半部分)の記事はこちら



●『長い別れ』の構造[承前]

杉江松恋(以下、杉) この小説で僕が非常に好きなのは、マーロウがどこで何を考えているかは明確に書かれていなくても、じっくり読んでいくと後からなんとなくわかってくるところなんです。
田口俊樹(以下、田) そうだよね。
 探偵が何を考えているかがよくわかるミステリはいいミステリです、と声を大にして言いたい。『長い別れ』は、文章からマーロウの考えがどう読み取れるのかを、読者が興味津々で読む小説だと思うんですよ。田口さんがロジャー・ウェイドの手記についておっしゃった「for」というひとつの単語からどういう意味が取れるのかということまで、考えてみれば深い意味があるということ。そこが長所だと思んです。で、翻訳の話からもう少し伺いたいんですが、この小説にはチャンドラリアンが好んで口にする「ギムレットにはまだ早すぎる」とか、いろいろなかっこいい文章があるじゃないですか。
 そう、かっこいいよね(笑)。
 それだけでキャッチコピーとして成立するような文章がいっぱいあるわけですよね。田口さんとしてはもちろん、先行訳と同じ文章を使うわけにはいかないということもあり、有名すぎる文章をどうやって訳そうかという葛藤や逡巡があったと思うんです。
 そうね。話はそれるかもしれないけど、チャンドラーはそういう、気の利いた文章の書き手だ、という評価があるでしょう。二十年、もしかするともっと前かもしれないけど。まだネットが一般的じゃないときの話です。バートレットの引用句辞典というのがあるんですよ。向こうの作家は引用句辞典と類義語辞典を置いて小説を書くなんて当時は言われてたぐらいだったんです。それでね、チャンドラーはさぞかしいくつも載っているだろうと思ったら、一つしかない。
 ひとつですか。なんだろ、『長い別れ』ですか?
 Big Sleep(邦題:『大いなる眠り』)。チャンドラーほど文学的じゃない作家もいくつも載ってるんだよ。そのころの、あの分厚いバートレットの引用句辞典で。意外でしたね。あのころ、「タフじゃなきゃ生きられない」とか流行ったじゃない。なのに、向こうの評価はそんなものなのか、なんて思ったことがあるんです。
 邦訳でとにかく祀り上げられたということもあるんでしょうね。
 そういう意味で、意識した文章もありましたね。「別れを告げるということは、ほんの少し死ぬことだ」とか。そういうのをいろいろ考えました。これは楽屋話になりますけど、最初は「別れを告げるということは、ちょっぴり死ぬことだ」って書いたんですよ。そしたらダメ出しされちゃって。
 ははは。
 「ちょっぴりは可愛らしすぎないか」って。そう言われればそうかもしれない。あと有名な台詞としては最後の「警官に別れを告げる方法は云々」というところもやっぱり意識しましたよ。作品の最後だから目立つしね。それで色々考えた挙句、これは私のちょっとした企業秘密なんだけど、こういうときは直訳してしまおうと。「警官に別れを告げる方法はいまだひとつたりと発明されていない。」とやったんです、inventなんで、そのまんまなんですよ。清水さんも村上さんも工夫しているでしょう。
 それぞれ「発見されていない」と「見つかっていない」にされてますね。
 そうか。これは、けっこう今も気に入ってます(笑)。あと「ギムレットには早すぎる」ね。清水さんの訳も村上さんの訳も「ギムレットには早すぎるね」だったんですね。ここのところは、口にする人物はおずおずとマーロウの前に現れるわけですよ。だから私は、「早すぎるよね」と「よ」を入れたわけ。これも気に入ってます。

●マーロウの思考について

 村上春樹(むらかみ・はるき)さんは『ロング・グッドバイ』の訳者解説にすごくいい評論を書いていらっしゃいます。これはぜひお読みいただきたいんですけど、マーロウは考えていることはちゃんと口に出して言うんだけど、文体のために真意はよくわからないようになっていると、そこに着目した内容なんです。それを受けて言うと、この小説は訳文を掘り下げすぎると、元の趣向を台無しにしてしまうかもしれない。だからマーロウにあまり近づきすぎてもいけないんじゃないかと思うんですよね。翻訳しているときの田口さんは、かなりマーロウに近いところにいらっしゃったと思うんですけど、どのへんでいちばん心理的な距離は縮まりましたか。
 今までいろんな私立探偵を訳してきたんですけど、マーロウはね、すごく納得できる主人公だったんです。ただ一つ大きな謎があって、なんでテリー・レノックスにそんなに肩入れするんだ、と思うんですよ。あと、失踪事件のあとで、なぜウェイド夫妻にかかわるのか、このふたつが大きいですね。常識人ならあまりやらないだろうと思われる行動をしているから。でも最初の方にマーロウがレノックスに言ってますよね、「お前のことはなんか気になっちゃうんだよ」みたいなことを。そういう人って世の中にいる。人たらしみたいな魅力を持っているやつで、それにたまたま波長が合ったんだろうと。ファム・ファタールならぬ、オム・ファタールなんだ、テリー・レノックスは。そういう意味では小説の中で象徴的な存在なのかもしれない。
 なるほど。
 その一点を除くと、マーロウってきわめて常識的で、行動が理にかなっている。レノックスの謎はそんなことかな、と。あとロジャー・ウェイド夫妻に関わった理由は明らかですよ! アイリーンに惚れたんです。
 あ、そういう説なんですか(笑)。
 どう考えても! だって最初の登場シーンからもうそうじゃない。夢が歩いてやってくるんですよ。ヒロイン登場ですよ、まさに。マーロウはアイリーンに惚れたからいろいろ手を尽くす。これはわかりやすいですね。なぜテリーに惹かれたか、のほうがわからない。その二点以外は、それほどマーロウについては考えなかったですね。さっきも言ったように、すんなり行動が納得できる探偵だったから。
 ローレンス・ブロックのマット・スカダーと比べてどうですか。
 ああ、スカダーはね、「なぜそんなことするのか?」って思ったりすることはある(笑)。それでときどき心が離れたりすることがあるけど、フィリップ・マーロウについてはなかったですね。ずっと寄り添えたというか。そんな言い方すると気持ち悪いか(笑)。
 テリー・レノックス問題については、村上春樹さんがさっきの評論で面白いことを書いてらっしゃっるんですね。これは、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』なんだという説を書いてらっしゃる。『グレート・ギャツビー』は、主人公が自分の夢を叶えるために邸宅を作る。その夢に猛進していくために、どんどんおかしな方向に人生が外れていく。金を持ったダメ男の話をニックという男が語るわけですけど、村上さんはテリーとマーロウをギャツビーとニックの関係に重ねて見るんですね。テリー・レノックスの中にマーロウは自分を見ているんじゃないかと。鏡像としての自分を見ているという。それはかなりしっくりくる解釈でした。主人公の「I(アイ)」は自分を語らないんですけど、レノックスに投影している自己というのは「I'(アイダッシュ)」みたいなものなので、I'が出てくると、対象に深く入れ込んでしまうと。そのあとに出てくるロジャー・ウェイドはレノックス・パート2みたいなものなので、そこでもまた自分を投影するようになる。そんな感じで納得していたので、田口さんのオム・ファタールという解釈は新鮮でおもしろかったです。
 それが合っているかどうかはわからないけどね。
 もうひとつ伺いたいんですけど、田口さんはハメットをはじめ、さまざまな私立探偵小説、ハードボイルドといわれる作品を訳してこられましたが、チャンドラー-マーロウのラインにいちばん近いとかんじられたのは、これまででどれだったでしょうか。
 それはね、グリーンリーフなんです。
 ああ、スティーヴン・グリーンリーフ。
 あれは読んだときに、これマーロウだよな、と思った記憶があるんです。自分の訳した作品だと、ジミー・サングスターですね。角川文庫で『脅迫』という長篇が一つだけ出ている。
 海岸の町が洪水かなんかで水浸しになるところから始まる話ですよね。僕もあの小説すごい好きです。
 ね。おれもわりと好きで。この探偵、マーロウじゃんってそのときも思いましたね。で、長いおつき合いのブロックさんと(マイクル・Z・)リューインさんについてはね、そんなにマーロウどうこうと思ったことがないですね。
 ああ、ふたりともちょっとずつマーロウじゃない感じがしますよね。
 強いて言えばね、「タフじゃなければ生きられない。優しくなければ生きている資格がない」というのに合わせれば、タフなのがスカダーで、優しい方がアルバート・サムスンかなと。あ、そうそう。ちょっと、宣伝になっちゃいますけど、今度『スクイズ・プレー』(新潮文庫)というニューヨークが舞台の私立探偵小説を訳したんですよ。なんと作者はポール・オースター【註:この後二〇二四年四月に亡くなられました】。ポール・ベンジャミン名義で四十年近く前に出した作品なんだけど、これがマーロウへのオマージュ、しかも『長い別れ』を強く意識したみたいな作品なんですよ。ちょうど『長い別れ』を訳し終わったところだから、ピンときたのかもしれない(笑)。場面とか台詞とか、読んでいただければ絶対わかるはずで、彷彿とさせます。キャラクターの設定なんかは全然違うんですけどね。


●新訳について

 ちょっと、面白いことを思い出しました、新訳を出す意味合いみたいなものはいろいろあると思うんだけど、二十年くらい前に鴻巣友季子(こうのす・ゆきこ)さんが『嵐が丘』の新訳を出されたんです。私は翻訳学校で講師をしてるんですが、生徒の多くは女性なんです。その中で読書会をやってまして、二十人ぐらいの生徒さんが、みんな『嵐が丘』を課題作に要望してきた。へーっ、と思ってね。私は、まあ読まない……あっ、君は読むかもしれないけど(笑)。
 読みますよ。ヒースクリフ好きですよ。
 生徒のだいたい多くが、少女のころに読んで、新訳が出たんでもう一度読んでみたいっていうのでやったんですよ。で、正直言って、「めんどくせえな」って感じで読み始めたら、面白い面白い! 面白い話だね、あれ! で、意気込んで読書会に行ったら……元文学少女たちが、みんな浮かない顔してるの。
 ええ? なんでですか。
 こんな嫌な話だったんですか、って言うわけ。
 つまり、純愛物語として記憶してたんでしょうね。
 そう。だってヒースクリフってめちゃくちゃ嫌なやつじゃない(笑)。「どうしてこんなやつに憧れたのかわからない」って人が出てきた。これが新訳の役割なのかもしれない。おれ自身は『嵐が丘』をけなすつもりはまったくないんだけど、要するに『長い別れ』についても同じことが起きるかもしれないと思うんですよ。村上さんの訳が出たときにも「すごくよくわかった」「すっきりした」「こんな話だったのか。よくわかりました」……「でも、清水訳が好きです」っていう人はいたわけです。
 そういう声はありましたね、当時。
 あったでしょ? で、今回も読者のレビューなんかを見ると、「さすがベテラン。話がよくわかりました」「でも村上訳が好きです」って人がいるわけですよ(笑)。おれはエンタメ翻訳はそれでいいと思ってる。
 解説書くときに読み比べて思ったんですけど、田口さんはわりと汚い言葉を拾ってますよね。マーロウの。実は村上さんは、わりとスルーしている。それは気づかれましたでしょ。訳されていて。
 ええ。おれの感覚だと、マーロウがあまりに上品すぎた気がしましたね。
 透明な感じなんですよね。
 そうそう。あと村上さんの解説? 長いあとがきには一言も「ハードボイルド」って言葉が出てこない。おそらくハードボイルドとしては読んでおられないんじゃないかな。ハードボイルドなんかのサブジャンルにとらわれない、大きい文学として読んでおられる。でもおれは、これどう考えたってエンタメだと、思ってるわけですよ。村上さんのような読み方はできないかもしれないけども、おれはおれでエンタメとして読んで、十分面白いし、面白さをできるだけ人に伝えたい、と思いましたね。
 この前にも話に出ていますが、僕は30章が要だと思っています。田口さんに前、「30章はどう気をつけて訳したんですか」とお訊きしましたよね。で、なんておっしゃったんでしたっけ?
 君の言わんとすることが全然わかってなかった(笑)。言われてから読み直して「あ、そうか!」と思ったんだよ。
 きっと田口さんはミステリ翻訳をいっぱい手がけてらっしゃるから、ここがミステリとしては要になる仕込みの部分だと思われて訳したんだろうな、と思っていたんです。それでお訊きしたら(笑)。
 すみません、気づいてなかった(笑)。でもちゃんと君の言うことは理解しましたよ。
 もちろん田口さんはエンタメ翻訳者としての勘を働かせて、物語の起伏を演出するのに大事な場面だということは無意識のうちに頭に入れて訳されたんだと思うんです。見事な訳文なので、ぜひ30章は気をつけて読んでいただきたいんですね。話は変わりますけど、この小説を最初に読んだのはいつ、何歳ぐらいだったかって覚えてますか?
 高校のときに読んだつもりになってたんですよ。でも、どう考えても読んでない(笑)。翻訳始めてからだと思うな。おれが高校のころだったらポケミスで買っているはずでしょ。持ってないんですよ。文庫で買っているから二十代、翻訳始めたころに読んだんでしょうね。
 じゃあきっと、翻訳修行中の目で読んでますよね。じゃあ、それ以前はチャンドラーだし、なんとなく有名だよねみたいな感じだったんですね。
 知ってるつもりになってた。読んでもないのにね(笑)。
 これだけ有名な作品だと、同じように読んだつもりになってる方もいらっしゃると思うんです。ぜひ、この機会に読んでみてください。
 本当にいい話です。いい小説です。
 特にミステリ・ファンの方は、田口訳で読み始めると肝の部分がよくわかるはずですから、それから清水訳に戻ってみてもいいかもしれないです。清水さんは清水さんで、本当に雰囲気を出すのがうまいんですよ。田口訳を読んでから読むとまた印象も変わると思います。イベント視聴者から「さっきから話に出ているふたつの殺人は、両方とも、かなり不可能ではと思いますが、かといって作品の質を損ねるものでもないと思いますが、その点はいかがでしょうか」というご質問をいただいています。これ、具体的に答えちゃうとネタバラシなので代表して僕が答えますが、ひとつめについては、いかにも一九五〇年代的な粗っぽさがあっていいなと思いますね。ふたつめに関しては、これ、僕が原稿を受けた編集者なら、もうちょっと偶然の要素を排した計画にするかな、という気は確かにします。でもそういう状況が出来上がってしまったが故の結果でもあるんですよね。
 おっしゃる意味すごくよくわかります。よくよく考えると、どこまで計画してあったのか、どこまで偶然かっていうことが、実はわからないんですね。
 はい。ここは本作のいいところでもあって、計画性と、衝動的な部分とかが混然としています。どこまでが衝動の産物なのかが見えないんだけど、謎解きが語られる段になって、なんとなく整理がつくんですね。ここは衝動だったんだろうな、ここはちゃんと考えたんだろうなっていうのを、腑分けしながら読むのも面白いと思います。あと、これは田口さんへ僕からの質問です。ローレンス・ブロックさんが来日されたときおっしゃってましたけど、田口さんは自分の原文のまちがっているところを指摘してくれる、翻訳者であると同時にいい編集者でもあった、と。本書のあとがきでも、そのへんの作者が間違えている箇所については触れていらっしゃいますね。そういう原文の間違いを修正したりとか、あるいは日本の読者にはさらっと読んだだけではわからない箇所を補われたりとか、そういう配慮をされたところはありますでしょうか。僕が以前田口さんに教えていただいたのは、2章についてです。
 ああ、マイノリティに関するところ?
 2章で交わされる会話で、サンフランシスコに昔いたという話題が出て、清水版だと「サンフランシスコだね」「フリスコだよ」というやりとりがあるんですね。ここ、田口さんは少し言葉を補われています。「『サンフランシスコ』と私は機械的に言った。『おれはフリスコって言うんだよ。地元のやつらにはそう呼ばれるのを嫌がってるやつらもいるみたいだが、知ったことかい』」と。この補足にあたる分がたぶん、当時の庶民感覚みたいなものを調べた上で補われてるんじゃないかと思うんです。
 ごめんね、そこ、わかんないとこなんだよ。村上さんもわざわざあとがきに書いておられて、原文は「マイノリティなんか知るかよ、サンフランシスコってけっこうな呼び名があって、それ自体に文句言ってる人も……」という感じだけど、一応調べたんですよ。都市に愛称があるじゃない。ニューヨークだとビッグアップル、シカゴはウィンディシティとかね。でもサンフランシスコは、シスコだったりフリスコだったりサンフランスとか、色々あるんです。それを面白くない、って言う人たちがいて、ネットには転がっているんですよ。村上さんがおっしゃっているように、もともとヒスパニックが多かった、メキシコ系とか。サンフランシスコっていうのは、セント・フランシスコじゃない、聖フランシスコ。それを略すなと。カトリックのヒスパニックの人が多いから、聖人の名前をフリスコなんて言うなってことですね。でも結局はっきりしなかったんですよ。で、誰を持って少数派とするか、というのも実は曖昧なんですけど、言わんとしているのは彼にとって「そういうやつらがなんと言ったって知ったこっちゃないと、おれはフリスコと呼ぶんだ」ということですけど「やつら」が具体的には誰を指すのかってことですよね。そういう呼び方をすることに反対してる「やつら」なのか、ヒスパニック全般なのか、そこはわからない。もっと言うと、話の舞台になっているロサンジェルスから見れば、サンフランシスコってちっちゃいんで、サンフランシスコのやつらがどう言おうと知ったことか、という意味にもとれる。いろいろな解釈は成り立つんだけど、マイノリティそのものは誰を指してるのか、ちょっとわからないです。
 なるほど。そこはお考えになられたんですね。『長い別れ』は、チャンドラーがそれまで書いてきたものとはちがうマーロウ像を生み出した画期的な作品でした。一人称の私立探偵小説というのはやはりここで確立したんだと思います。僕の『読みだしたら止まらない! 海外ミステリーマストリード100』のアイデアは、100 Must-read Crime Novelsからもらったんですけど、海外で『長い別れ』はどういう扱いなのかと思って見たら、チャンドラーは『大いなる眠り』『さらば愛しき女よ』で、これは取り上げられてないんですよ。
 ええっ、そうなんだ。
 そうなんです。でも『長い別れ』ですよね。何べんも言っているように、一人称の視点で、犯罪とその計画をどう書いていくかという技法は、この作品で確立したと言ってもおかしくない。一人称犯罪小説の書き手としてのお手本になる作品だなと思います。『グレート・ギャツビー』の話も出ましたけど、チャンドラーにとっては、自分がもともと持っていた英国の教養であるとか、文学に対する憧れみたいなものも昇華されて入っている。チャンドラーの最高傑作はやっぱりこれじゃないかなと思いますね。


●タイトルについて

 The Long Good-byeというタイトルは曖昧なんじゃないか、と田口さんもおっしゃっています。この題名は具体的に何を指しているのか、ということがよくわからないですね。
 そう。どう思います。Long Good-byeって言葉自体、わかったようでわからない。私なりに考えて、これまた困ったときのリューインさんだのみで、訊いたんですよ。
 あ、聞かれましたか。
 とにかくリューインさんは「たしかにGood-byeにつく形容詞としてLongは珍しい」と。だから、このタイトルが何なのか考えさせられるのは、英語でも同じらしいですね。
 リューインさんが言うには、たとえば死者を看取るのが長い看病の末だったときだとか、いろいろな場面が考えられるっていうわけ、Long Good-byeには。シチュエーションによってはLong Good-byeって言えるだろうと。ただ、これという慣用はないというわけ。
 なるほど。
 じゃあこの作品のLong Good-byeは何を指すかっていうことについては、リザ・コディさんがすごく論理的に説明しています。最初にテリーの訃報が届いて、それから彼の五千ドルが送られてくる。そのときに、手紙の中に、ギムレット飲んでくれとか、煙草の一本も添えてくれ、とテリーはマーロウに言うわけです。さよならを言ってくれ、おれに別れを告げてくれ、ということです。そこからずっとあって、最後にもう一度Good-byeが出てきますよね。
 あー、なるほど。テリーの手紙が着いてから巻末までが、ずーっと長い"Long"だと。
 そうそう! それがLong Good-byeだというのがリザ・コディさんの説なんです。リューインさんもそれはなかなかいいんじゃないかとおっしゃる。だからおれもそれで(笑)。
 僕もそれいいと思いますね(笑)。引き延ばされた別れ、という。いいですね、その説。
 いいでしょう。わかりやすいじゃない。
 ちょっと紹介しそびれたんですけど、『レイモンド・チャンドラーの生涯』(早川書房)というフランク・マクシェインの評伝を見ると、チャンドラーは結末を三回書き直してるんです。有名な「警官に別れを告げる方法」云々は最後のバージョンで出てきたものらしいですね。二回目書いてみて、どうもあっさりしてるなあ、よし、こってりしてやるかっていって、この一文を付け加えてチャンドラーは終わりにしたんですよね。そのぐらい、最後の幕引きは、「別れる」ことの小説なんだということを、強調したかったんでしょう。
 そうそう。それと邪推かもしれないけど、チャンドラーは長患いだった奥さんのシシイを看取ったでしょう。そうすると別れって言葉が頭にどうしても去来する。この作品には"Good-bye"という単語が三十何か所出てくるんです。多いよ。やっぱり別れの小説だなって思う。
 ちょっとずつ長い別れをシシイにしているのかもしれないですね。チャンドラーは若いころ浮気でシシイをたくさん泣かせています、しかもシシイはすごい姉さん女房なんですよね。略奪婚の形で結婚し、不遇時代もチャンドラーを見捨てないでいてくれた。その奥さんを看病しながらの執筆であり、看取りであったんですよね。そのことも。
 あるかな、と思うんですよ。もしかしたらね。


●むすび

 視聴者からの質問です。「『長い別れ』にかぎらず、できるものならばチャンドラーに質問してみたい、ということはありますか」。これは田口さんにですね。
 おおー。まあそうだね、マーロウが事件の真相に気がついた箇所があるでしょう。そういうことだ思うんだけど、あそこで気がついたんですよね、と聞いてみたいですね。
 なるほど。チャンドラーは、ちゃんとミステリ的な構造について考える人だったんで、探偵の物の考え方をどう組み立てていたかは僕も聞いてみたいですね。
 飯の種じゃなくて真面目にミステリを考えていたのがよくわかりますよね。
 一人称探偵小説の書き手が、今でもお手本にすべき点が多々あります。あまり私立探偵小説に関心がなくて、謎解き中心の作品ばかり読んでる方も、騙されたと思って、この作品を読んでいただけると、ああこんなことが一人称の謎解き小説にはできるんだということがいっぱい詰まってる小説だと思いますので、ぜひ、田口訳『長い別れ』読んでいただければと思います。本日は田口さんにお話をたくさん伺いました。最後に田口さん、読者にメッセージをひとことお願いします。
 ほんとに面白い小説なんで、ぜひ、買っていただければ、ありがたいと思います(笑)。
 それに尽きますよね(笑)。周りの方にもぜひおすすめください。それでは本日はどうもありがとうございました。
 ありがとうございました。

(2022年7月27日、ジュンク堂書店池袋本店にて収録) 



■レイモンド・チャンドラー(Raymond Chandler)
1888年、アメリカ合衆国シカゴ生まれ。両親の離婚後、母親とともにイギリスに渡り、ロンドンのパブリック・スクールで教育を受ける。英国籍を取得し、海軍省勤務、新聞記者を経て、1912年にアメリカに戻る。第一次世界大戦後に小説を書き始める。1933年に〈ブラックマスク〉誌に「脅迫者は射たない」を発表したのを皮切りに執筆活動に専念。1939年に発表した長篇第一作『大いなる眠り』は、フィリップ・マーロウものの第一長篇でもある。同書並びに『さらば愛しき女よ』、『長い別れ』はチャンドラーの傑作長篇として名高い。1959年没。

■田口俊樹(たぐち・としき)
1950年生まれ、早稲田大学第一文学部卒。英米文学翻訳家。主な訳書、D・ハメット『血の収穫』、R・マクドナルド『動く標的』、R・チャンドラー『長い別れ』、B・テラン『その犬の歩むところ』、L・ブロック『死への祈り』他多数。

■杉江松恋(すぎえ・まつこい)
1968年東京都生まれ。慶應義塾大学卒業。国内外のミステリをはじめとする文芸書やノンフィクションなど、幅広いジャンルの書籍について書評・評論活動を展開。読書会・トークイベントの主催も精力的にこなす。主な著書・共著に『バトル・ロワイアルⅡ 鎮魂歌』『東海道でしょう!』『読み出したら止まらない!海外ミステリーマストリード100』がある。


長い別れ (創元推理文庫)
レイモンド・チャンドラー
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2022-04-28


プレイバック (創元推理文庫)
レイモンド・チャンドラー
東京創元社
2024-04-30