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 前回の「にちにち読書」の更新日を見て戦慄(せんりつ)する。2023年3月。一年前じゃないか!! どこが「にちにち」なんだもはや「年々読書」だよ。一年に一回更新の読書日記のどこが日記なのよ。
 というひとりツッコミ大会はこのあたりにしておいて、久々すぎる更新となりました。待っていて下さった方すみません(主に担当さん)……いや、2023年は本当にぼろぼろからスタートし、引きこもりが極まり、新入りの猫「てんち」を迎えたことは嬉しい出来事でしたが、8kg体重が増加するなど謎の迷走をしていたんです。でもいわゆる「夜明けの前が一番暗い」タイミングだったようで、処方された新しい薬もよく効き、2024年になってからは憑きものが落ちたように元気です。わーい。色々やることがたくさんだ!
 ですのでまた読書日記という名の、日々雑文と本や映画やアニメなどのカルチャーの鑑賞記録を再開したいと思います。お付き合いのほど、よろしくお願い致します。


●2023年某日 『グッド・オーメンズ』

 2023年の半ばからイギリスのドラマ『グッド・オーメンズ』(アマゾン プライム ビデオ限定)にハマり、ついでに悪魔クロウリー役のデヴィッド・テナントさんにハマった。私は『ドクター・フー』を観ていないので、彼がシリーズナンバーワン人気を誇る10代目ドクターとは知らんかった。
 長身痩躯で美形という今までにないタイプの人にハマったのは、クロウリーがあり得ないくらいに魅力的だったからで、この人はとにかく動いてナンボの人だなあと思った。ロックスターのように体をくねらせて歩き、いちいちオーバーリアクションなのに、誰もがクロウリーを愛さずにはいられなくなるような、圧倒的チャームの魔法がある。実はあまりこのタイプの俳優を見たことがなくて、類例がすぐ思い浮かばない。うーん、ジェームズ・スチュアートとか?
『グッド・オーメンズ』シーズン1は、地球が始まって6000年、恐竜も古代の地球も存在しなかったという設定で旧約の「神」が語り手。神と天使と悪魔が存在するそんな世界で、ふいに出会った天使と悪魔が6000年の友情を温め、まるでホラー映画の傑作『オーメン』のごとく現われた〝悪魔の子〟を探し出して、世界の終わりを防ぐ、という話。少し補足すると、オーメンは〝悪魔の子〟〝反キリスト〟たる少年ダミアンを巡り悪魔崇拝や「前兆(オーメン)」が提示される不可解なホラー映画です。シーズン2はよりクィアな展開となり、いやーもう本当にシーズン3を首を長くしてお待ちしてます。原作はテリー・プラチェットとニール・ゲイマン。亡くなったテリーの遺志を継ぐ形でニール・ゲイマンが脚本を完成させ、そしてシーズン2は新たに書き下ろしたドラマだ。とてもキュートなコメディなんだけど、まあもうあの悪魔。悪魔がやばい。
 正反対の性格・性質をしているふたりが、互いに唯一無二の存在として結託する。もし自分の目の前から消えてしまったら人生がすっかり色あせ、途方に暮れてしまうようなコンビが好きなのだが、『グッド・オーメンズ』の天使アジラフェルと悪魔クロウリーはまさにそういうふたりである。長い長い時間をかけて友情が変化していくさまも、まあ観ててもどかしいけど本当に良いものだとしみじみする。私はアジラフェルの一本気すぎる善意が理解できるため、彼へのバッシングがちょっときつい。いや本当にだめなんだけどね、わかってるけどもね。
 ともあれ、原作/脚本のニール・ゲイマンの「知」を重んじる姿勢が滲(にじ)み出ていて好もしい。とりわけシーズン2では「知」の要素が色濃く現れていて、安心する。
 私は小さい頃、近所のプロテスタント系教会の日曜学校に通っていて、旧約聖書と新約聖書の基本的なところを読み、それなりに教えを受けた経験がある。当時はちゃんと説教を聞いていたし、わりと熱心な信者だった。なぜ真面目に信じていたかというと、単に世界を平和にしたかったからだ。でも動物好きだった私は、エデンの園にやってきた蛇が悪者扱いされるのも、羊を生け贄(にえ)にしたら褒められるのも嫌だったし、神に疑問を投げかけてはならないというのも嫌だった。修行中のイエスを誘惑する荒野の悪魔も悪いやつには思えなかった。それに家族の健康を祈っても神は聞いてくれないのである。神が本当にいたとしても、私の神ではないんだと気づいて、小学三年生の時に私は神から離れた。
 あの時と同じ気持ちが、特にシーズン2のアジラフェルとクロウリーを見ていると甦(よみがえ)ってくる。特に第2話のヨブ記回が心の底から好きである。最後、どこまでも青く美しい海を寂しく眺める、神にもサタンにもつけず天国にも地獄にも馴染めない、世界でたったふたりぼっちの孤独な天使と悪魔を、私は愛してやまない。

 しかしシーズン2も公開してしまったし、『ブロードチャーチ~殺意の町~』など日本で見られるテナントさんの主演作品はあらかた鑑賞した頃、10月7日にパレスチナのハマスがイスラエルを攻撃した。そしてイスラエルからのガザへの報復攻撃が激化したことで、なんとなくキリスト教関連のものから気持ちが離れてしまった。非人道的攻撃、一方的な殺戮(さつりく)と虐殺、迫害でしかないイスラエルの凶行を早く止めねばという気で焦ったせいか、創作物を摂取できずにいた。とはいえ、当事国から離れている人間が心痛で何もできなくなるより、心身の健康を保たないと支援も出来ないと私は考えるタイプなので、何か適当なものはないか……と探し始める。
 ちなみに『ブロードチャーチ』はサスペンスとミステリを愛好する東京創元社読者にとってもおすすめです。共演は『女王陛下のお気に入り』で主演女優賞を獲得したオリヴィア・コールマン。断崖絶壁のある海辺の小さな街ブロードチャーチで起きた少年の死亡事件。少年の遺族の間に生まれるどうしようもない溝、遺族と友人だった刑事の焦り、そして新任で上司で、非常に憎たらしく性格があまりよくない警部補。これらが絡み合って謎めく事件の真相を追っていくのだけど、アン・クリーヴスだと思っていたらなんとヒラリー・ウォーだった!みたいな作品で、非常に面白いです。シーズン1とシーズン2は続いていて、シーズン3は独立しているんだけど、なんとシーズン3だけはWOWOWオンデマンドで限定配信のみ、しかもすでに終了という……私は滑り込みで観られたのですが、実はこのシーズン3が傑作でして……どうにかオンライン配信を復活させるか、テナント人気に便乗してDVD化しないかと期待しています。


天使と悪魔
フランシス・マクドーマンド
2019-05-31




 観るものがなくなってしまってぼんやりする日々、ふと以前友人が「『ぼっち・ざ・ろっく!』結構面白いよ」と勧めてくれたのを思い出した。正直、女子高生とバンドって『けいおん!』と何が違うんだと思っていたのだけれど、音楽の趣味が合う(と私は一方的に思っている)その友人が「曲がわりといいんだよね」と言うので、んじゃあ観てみるか……と、録画していたものを再生してみた。
 
 ――鑑賞すること数分、私は腹を抱えて笑い出してしまった。いや、決して『ぼっち・ざ・ろっく!』がダメで笑っているのではない。ただあまりにもぼっちちゃんもとい主人公の後藤ひとりが私と同じことを言い同じことをしでかすので、他人事じゃなさすぎて笑うしかなかったのである。
 自分のことを「ミジンコ」と自虐し(マジで自称していたのでミジンコ人のLINEスタンプを持っている)、想像上では強い人間で、ありとあらゆる妄想を膨らませ、架空インタビューから架空処刑、架空地獄に落ちて働き、妄想に耽(ふけ)りすぎて周りが知らんうちに勝手にネガティブゾーンへ陥(おちい)る。きらきらしたいのにカメラがクソ苦手すぎて写真を撮られると顔が死に、ボーカルで容姿も整っている喜多ちゃんみたいな子に引け目を感じ、ものすごい勢いで相手を持ち上げ、自らのミジンコぶりを加速させる。大人しくてかわいいとかじゃなく、どっちかというと不気味で、変に友情に夢を見ているし、嫌われることも普通にありそうだけど、まわりのみんなが優しいからどうにか生きている。インターネット上ではわりとうまくやれてるように見えるが、現実では隅っこの方で生きている――わりに、自分が絶対に自信を持っている部分では頑固で、信念は曲げられず、火事場の馬鹿力を発揮しがち。
 いやまあさすがにぼっちちゃんほど臆病ではないし、自分でやるべきことは結構積極的に突っ込んでいく方だが、外向的な虹夏(にじか)ちゃんや喜多ちゃんのような目つきを人から向けられたことが多々ある。鑑賞中は本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになり、針のムシロだった。いや……本当に迷惑かけっぱなしですみません……。
 これまで自他共に認める、似ている架空のキャラクターは『映像研には手を出すな!』の浅草みどりだったのだけれども、ここに後藤ひとりが加わった。私の本名はひらがな3文字で最後が「り」なので、ミジンコチーム「○○り」って感じである。

 いや、私のことはどうでもいいんだよ!!

 作品としての『ぼっち・ざ・ろっく!』は非常に素晴らしいアニメだった。『けいおん!』と違うのは、全員ちゃんと練習しているところだ(『けいおん!』はお茶ばっか飲んでる……)。それに、「女子高生」がまったく「イロモノ」でなく、ちゃんと等身大の、音楽が好きで、ギターが好きで、しっかりバンドをやっている10代の物語になっているのがいい。
 主人公のぼっちちゃんは、前述で散々なことを書いたけれども、実はめちゃくちゃ努力していてギターの腕がすこぶる良く、ネット上では人気を集める実力者なのである。引っ込み思案で自信がなさすぎ、ステージでもろくに実力が発揮できなかったけれども、本当にいざとなった時、彼女は「猫背のままで虎に」なる。うつむいて、長い前髪が顔にかかり、まったくかわいくもなく、笑いも恥じらいもせず、ただひたすら凄まじいギターテクニックを披露する。その姿は神がかってすらいて、聴衆を惹きつけて放さない、どこまでもかっこいいギタリストだ。
 ぼっちちゃんだけでなく、まわりの少女たち、大人の女性たちもとてもいい。みんな本気で音楽と生きているのだ。性的に消費されることを目的としないアニメで、ただただ好きなことを突き詰めよう、少しでも自分を良くしようと努力している女の子たちが、ごく当たり前に描かれている。アニメも今ではここまで来られるんだなあなんてしみじみしてしまった。スタッフたちの世代が変われば、認識が変われば、いくらでも新しい道を進める。
 脚本とシリーズ構成は、『恋せぬふたり』『30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい』、そして今年話題の朝ドラ『虎に翼』の脚本家でもある吉田恵里香さんである。女性の描き方がニュートラルで素晴らしいのは、きっと吉田氏のおかげでもあるのだろう。
 監督は斎藤圭一郎さんで、この後に『葬送のフリーレン』でも抜群のセンスを発揮し、今大注目の若手監督となっている。斎藤監督のやたらアートアニメに凝る姿勢と手書き動画にこだわるとこが好きです。ぼっちちゃんの妄想パート、あるあるすぎてずっと面白いけど、一瞬『マッドマックス 怒りのデス・ロード』みたいなのもあって好き。
 そうそう、音楽も良かったのでライブ・ブルーレイを買いました(本編も全巻買った)。一番好きな曲は「カラカラ」です。次が「あのバンド」、「星座になれたら」。推しは酒飲みすぎベーシストきくりさんと虹夏ちゃんです。
 男性ファンが多い作品だけど、できたら女性に観てもらいたいなあと思っております。虹夏ちゃんや喜多ちゃんの、ぼっちちゃんの真の実力を目撃した後、なんで早く言ってくれなかったのとか、少し侮っていたゆえの嫉妬のような感情を、一瞬で飲み込んで普段通りに振る舞おうとしてくれる、あるいは、侮っていた故に言わなかったことを打ち明ける覚悟を決めてくれる、そういう善性が繊細に丁寧に描かれていて、平等で、信頼できるのです。



 ほぼ一年間引きこもって運動もろくにせずストレスからくる暴食を繰り返していたら、当然の帰結としてめちゃくちゃ体重が増え、肥満の領域に入ってしまった。経験したことがない肉の付き方で、「こんなところにまで脂肪がつくのか!?」と驚いた。脇の下に肉が付くってご存じでした……? 私は最近まで知りませんでした。人体は不思議。いや不思議じゃなくて必然なのよ。自業自得です。
 さすがにこれはまずい、しかし個人でどうにかしようというレベルを超えている。それで、近所のジムに通い出した。隣接の整骨院が経営しているジムで、パーソナルトレーナーがついてくれるのである。
 教習所で普通免許を取得したときにしみじみ実感したけれど、私はスケジューリングが下手すぎ、自分の自由意志に任せて予定を組もうとすると、なんだかんだと別の予定を入れてしまい先延ばしして自滅する。なので躊躇(ちゅうちょ)せず一括で金を払い、先方にスケジュールを決めてもらって、強制的に行かなければならない状況に自分を追い込むことにした。先に入った予定の約束は真面目に守る特性を活かすのだ。
 ビギナーゆえに時間は毎回30分で、週に2日のコースになった。よく担当してくれる若いトレーナーさんはかなり手加減してくれる。「はーい、いいですよー、そーう、はーいオッケー」といういつものかけ声に励まされていると、本当にこんなスローペースで大丈夫なんだろうかと心配してしまうが、実のところビギナーオブビギナーにはこの手加減が何より大事だと後でわかる。
 ダンベルありのスクワットやランジ10回でもう息があがるし、ペースを上げすぎたりやりすぎたりするとすぐ関節や筋肉を痛め、結局数日は使い物にならなくなってしまう。元々運動神経がよかっただけに、一年怠けただけでここまで衰えたことにショックを受ける。でも怠けたのは自分なのだ。大反省会を行いながら、毎回真面目に通って鍛えている。
 ちなみに引きこもりはちゃんと治り、前年末あたりから積極的に外へ出てます。心がばっちり元気になってみたら、見捨てすぎてきた体はぼろぼろだったというオチ……とりあえず筋トレだけでなく食事制限もしつつ、できるだけ外へ出て歩き回り、動画を見てストレッチに励む日々である。

 さて、読書。
 シオドア・スタージョン『夢みる宝石』(川野太郎訳 ちくま文庫)を読んだ。
 実はスタージョンを読んだことがなく、恥ずかしながら復刊前の永井淳訳版も存在すら知らなかった。それがなぜ手に取ったかというと、柴崎友香さんの『百年と一日』ちくま文庫版解説を依頼された際、筑摩書房の担当さんが送って下さったためである。たぶん私が好きだろうと思って下さったのだろうが、これがストライクだった。

 不思議な物語である。冒頭、ホーティーという8歳の少年が何かをしでかし、学校中から忌み嫌われてしまう。一体何をしたのか、養父母にも「けがれたちび」呼ばわりされるとはよっぽどのことかと思っていると、ただ蟻を食べただけだという。
 少年は何も間違っていない。少し変わった行動に出ただけなのに、糾弾され、軽蔑され、暴力を振るわれ、彼を嫌悪する養父アーマンドによる事故で指を三本切り落とされてしまう。慌てたアーマンドが妻を呼ぶ間にホーティーは家から逃亡し、二度と戻らなかった。
 偶然出会えた幼なじみの少女ケイに慰められつつも、何も知らない彼女に黙ったまま、ホーティーは立ち去る。そしてたまたま信号待ちをしていたトラックの荷台に飛び乗り、街を出ようとした。その時、荷台にいた何者かに手を摑まれた――ホーティーと同じくらいの背丈をした、太った少年。彼はホーティーの血まみれの手に同情し、親切に接してくれる。
 ハバナと名乗ったその少年は、実は低身長症の成人男性で、他のふたりの女性も同じだった。ひとりは明るい性格のバニー、もうひとりは美しく知的なジーナ。三人と、そしてトラックを運転しているソーラムはカーニバルのフリーク・ショーで働いているという。
 ハバナとバニーはホーティーにもカーニバルに加わるよう誘うが、ジーナは反対する。しかしホーティーが持っていたおもちゃの人形を目にするや否や態度を180度変え、ホーティーにカーニバルへの参加を勧める。その代わりにジーナはいくつかの条件を出した。ジーナの妹だと嘘をつくこと、そして女の子であると嘘をつくように指示をした。
 カーニバルの団長は〝人食い〟と渾名される男、モネートル。冷たく、厳しく、人間を強く憎んでおり気難しいが、ほんの少し優しいところもある――ホーティーの切断された指に同情し、治療もしてくれる。しかし彼には非常に強い執着心があった。地球の原理では考えられない力を発揮する、謎の水晶に対する執着だ。
 ジーナは人食いに協力しつつ、警戒し、ホーティーを護ろうとする。ホーティーは持ち前の賢さと肉体の変化のしなさでそつなく日々をこなして、カーニバルに馴染んでいく。だが異変が起きる。喪ったはずの三本の指が再び生えていたのだ。

 このあらすじまででまったく序盤である。本作の長さはむしろ短い方で、ページ数にすると281ページしかない。しかし圧縮され、知性と奔放な想像力の両輪で生み出された物語は、濃密で不可解でありながら胸躍る冒険譚となっている。
 はっきり言って傑作だ。すごい作品で、これを今まで読んでこなかった自分をちょっと叱りたい。矛盾点も多いし、わりと書きながら考えたんじゃないかなみたいな設定のブレもあるが、そんな細かいことはどうでもよくなるくらいに、感情を、心を揺さぶられる。
 ジャンルを分けるならば、ヤング・アダルト小説の延長線上にある、有機的なSFだと思う。宇宙船も異様な理論も出てこないし、1940年代後半のアメリカの空気を感じ、巡業サーカスに憧れを抱く孤独な人間たちの感性を全部詰め込んだような雰囲気の作品だが、やっぱりこれもSFなのだ。陰惨で暴力的な場面も多々ありながら幻想的で、読書にある程度慣れている場合は中学生から楽しめると思う。
 魅力的な登場人物たち。とりわけ並外れた記憶力と理解力を持ち、激しい怒りと正義感を併せ持つホーティーと、冷静でありながらも内側に情熱を秘める善良なジーナは、読者の共感を呼ぶ、愛さずにはいられないふたりである。
 それでいて、私はこの「敵役」であるモネートルがどうしても憎めなかった。いや、何かが違っていたらひょっとすると善の味方になっていたかもしれない、傲慢(ごうまん)で賢くて孤独な人間が好きなのです。
 反面、もうひとりの「敵役」であるアーマンド――ホーティーの養父――の気持ち悪さたるや。きっと著者はこういうアメリカの英雄的議員の高級スーツの下に潜む(いや隠せてすらいないが)グロテスクさ、尊大であるゆえに幼稚な精神性を持つ人間を激しく嫌っているんだろうな、と思った。

 とにかく、スタージョンの公平さが素晴らしかった。差別的な視点も教科書的で安易な「少数派への思いやりの皮をかぶった見下し」も一切なく、当たり前の話なのだけど、低身長症の人々も他の〝フリーク〟たちも全員、ただまっすぐに人間として捉えているところが素晴らしかった。彼らを特別扱いするわけでもないが、かといってその姿の描写やその姿ならではの悩みを描かないわけでもなく、むしろ積極的に寄り添っていく。ひたすらに純粋で善良な精神が根底にずっと流れていて、残酷なのに温かく優しい手触りが残る。
 スタージョンがレイ・ブラッドベリやハーラン・エリスンに影響を与えたという逸話にはかなり首肯した。特にエリスンは偽善を嫌うので、スタージョンのこういうまっとうさに彼は安心した気がする(愛読者の勝手な想像だけど)。『夢みる宝石』のクライマックス、というか最後の最後で、私は読書で久々に泣いてしまった。貫き通した善良さがこういう形で結実する尊さを、1950年の刊行から70年以上が経ってもなお、受け取ることができる。それは紛う方なき名作の証拠だと思う。
 とりわけスタージョンは、SF史上はじめて同性愛をテーマにした作品を書き、しかし受け入れられずなかなか日の目を見させられずに孤軍奮闘していた人なだけに、より一層力強い。
 その短編「たとえ世界を失っても」が収録された『20世紀SF〔2〕1950年代 初めの終わり』(河出文庫)で、編訳者のひとり中村融は「本篇は同性愛を肯定的に描いた最初のSFとして名高い。題材が題材なだけに方々の雑誌から敬遠され、けっきょく〈ユニヴァースSF〉という二流誌の五三年六月号に掲載されて陽の目を見たという。わが国でもこの作品を収録した短篇集『一角獣・多角獣』(五三・早川書房)が訳出されたとき、割愛されたという経緯がある。」と書いた。
 
 加えて指摘しておきたいのは、今回の復刊がとても素晴らしい出版企画だったことだ。訳者の川野太郎さんは90年生まれとのことで、活躍中の翻訳家のなかではかなり若い世代の方だろう。そして抜群に訳文がうまい。非常に読みやすく、優れたYA、児童書の気配を残しつつも、辛辣(しんらつ)で残酷な場面は容赦ない筆のふるい方をする。また、スタージョンの倫理観を削がず、読んでいて不快な気持ちになる言葉選びのない優れた表現で、そういう点でも素晴らしかった。
 担当の編集者Kさんは、柴崎友香さんの傑作短篇集『百年と一日』も連載時から担当されていたという。個人的に海外でもっと評価され、ブッカー賞のロングリストに載ってもおかしくない作品だと思っているので、これと併走された方と聞くと、めちゃくちゃすごい編集者さんじゃないか!と興奮してしまった。私より全然ベテランの方かもしれないし、若い方かもしれないので、今すごく失礼なことを書いている気がする。いずれにせよごめんなさい、だが、やっぱり才能というのは必ずしも実際に書く人だけのものじゃないと実感しているのです。書く人がいても、それを率いたり、企画を立てたり、サポートしたり、理解したり、そういう才能がまわりにいてくれなかったら、書く人はまったくだめだと私はよく知っているから。

 文芸の未来は、まだ明るい。スタージョンのような昔の作家、しかし正しい倫理観を維持し続けて奮闘してきた人が、新しい世代によって改めてまた見出されていく。文芸の先は暗いようにどうしても思ってしまいがちだけれど、そんなことない、きっとまだ道は残っていて、拓(ひら)く場所があると信じられる、そんな読書だった。


夢みる宝石 (ちくま文庫 す-31-1)
シオドア・スタージョン
筑摩書房
2023-10-10



 ジムに加えて隣接の整骨院にも通うようになった。小学生時代から丸まっている猫背を矯正し、骨盤の歪みも治すのが目的だ。
 ジムに通うようになって、ちゃんとしたトレーナーさんに体の動きを毎回見てもらっていると、自分がいかに動けていないか、間違った体の使い方をしてきたのかがわかる。スクワットをする時に膝がコキコキ鳴るのは、膝関節が内側に入りすぎているせいだった。腰も反っているからまっすぐに下ろせず、太ももではなく腕や腰に力が入って、スクワットの効果もあまり出ない。骨盤が歪(ゆが)んで右足の方が短くなっている。背中が硬すぎ、ちょっとしたいつもと違う動きで腰や首、肩甲骨がすぐ痛んでしまう。
 私は小さい頃からやたらと背筋が弱く、片腕は上からもう一方の腕は下から背中に向けて、自分の手と手を繋ぐ、というのが生まれてこの方できたためしがない。繋ぐどころか指先さえ触れあわない。器械体操クラブにいた時も、前方宙返りは余裕でできるのに、バク転やバク宙はまったくできなかったのは、背筋力が皆無だったせいだ。それでよく走り高跳びができたと思うけど、まあなんかあれは勢いもあったと思う。跳べばいい話だし。
 そもそも広背筋という存在すら知らなかったので、腕の下から背中にかけてこんなに大きな筋肉があるとはびっくりした。しかしYouTubeに山とある広背筋のストレッチ動画を見ながら動いても、肩甲骨はなんとなくわかってきたものの広背筋の感覚が全然わからない。脇の下はかろうじて伸びてるのがわかる。しかし背中の中心部となると、ぴくりとも動く気配を感じないのだ。
 そういうのがたくさん判明し、筋トレオタクの友人の勧めもあって、筋トレも大事だけどとりあえずはまず体の関節を整えなきゃ、という話になったのである。たぶんもう骨からがちがちで筋肉を伸ばしたところで関節が硬すぎるから無理なのだろうということだ。
 私はこれまで、整形外科には結構しょっちゅう通っていたものの、整骨院には行ったことがなかった。知らなかったんだけど骨盤矯正ってフランケンシュタインの怪物が拘束されてるみたいな寝台に横になって、どんな仕組みかよくわからんけど下からばこんばこんでかい音を立てながら圧をかけられるんですよ。調べてみたらトムソンベッドという名前らしい。
 で、実際に施術を受けてみると、本当に骨盤がまっすぐになるので、歩き方が変わるし、なんなら車の運転席の位置もちょっと変えないといけなくなる。すごーい。でも一週間くらい経ってしまうと元に戻りやすく、なんとか維持できるようにならないとなあと、折に触れて正しい姿勢を意識している。
 しかし本当に背中は課題だ。ちょっとひねっただけですぐ大ダメージがくる体をどうにかしないと、この先もっと老いていったら完全に動けなくなってしまう。今もストレッチするとすぐ痛むので、若干途方に暮れつつある。

 さて読書。
 ベンハミン・ラバトゥッツ『恐るべき緑』(松本健二訳 白水社エクス・リブリス)を読み終わった。
 東京創元社の担当Sさんに勧めてもらって買った本だ。版元の紹介文によると「科学の常識を塗り替えた学者たちの奇妙な人生と、それぞれに訪れた発見/啓示の瞬間。チリの新鋭による、前代未聞の〈科学小説〉!」とあり、私は科学者や数学者、物理学者が新しい理論をくみ上げるまでのノンフィクションが大好きなので、これはと思った。
 けれども読みはじめて戸惑う。帯に「フィクション」とあるが、はじめのうちは、どこをフィクションだと思ったらいいのかわからなくなる。

 第一短編「プルシアン・ブルー」は、化学、毒の話だ。ナチスの戦犯を裁くニュルンベルク裁判のヘルマン・ゲーリングの爪が深紅に染まっていたところから、言葉は淡々と事実を述べて何かの形を紡(つむ)ごうとする。ヒトラーを含めたナチスの高官たちは毒と拳銃で自殺していき、絶滅収容所に連行されたユダヤ人たちはガス室に閉じ込められ殺虫剤ツィクロンBで死に、やがて絵画で使われる高価な青色顔料から、化学合成された青酸、つまりシアン化合物の発見の話に至り、第一次世界大戦のベルギー、イーペル付近の塹壕で起こった悲劇へと話が進む。
 ある晴れた日の朝、塹壕で眠る兵士たちの前に巨大な緑の雲が這い寄ってきた。雲が通り過ぎると、のどかだった朝の風景は一変した。飛んでいた鳥は落ちて血を吐き、牛も馬も倒れて、あらゆる動物が巣穴から出てきて息絶えている。兵士たちの死体が転がり、喉をかきむしり、銃で自分の頭を撃った者もいた。
 毒ガスだ。このガス兵器を開発したのは誰だったのか――フリッツ・ハーバー、実在したユダヤ系ドイツ人の天才化学者だった。
「プルシアン・ブルー」はこのフリッツ・ハーバーの形へと収束し、爪痕を残しながら終わる。この余韻がのちのち生きてくるのだが、この本が描こうとしている巨大なビジョンのまずはじめのパズルのピースとして、保留しながら読むといいと思う。

 この奇妙な短篇集は、実在した伝説的な学者たちを主人公に進んでいく。つまり人類史上に残る発見をした化学者、天文学者、物理学者、数学者たちだ。二編目の「シュヴァルツシルトの特異点」はアインシュタインの一般相対性理論の解を出したカール・シュヴァルツシルトの話、三編目「核心中の核心」はABC予想の証明に挑んだ望月新一と、並外れた天才でありながら数学を恐れ放棄したアレクサンドル・グロタンディークの逸話を、四編目「私たちが世界を理解しなくなったとき」においては量子力学の思考実験で有名なエルヴィン・シュレーディンガーと、不確定性原理を導き出し量子力学の分野を切り開いたヴェルナー・ハイゼンベルク、そしてフランスの理論物理学者ルイ・ド・ブロイについて書いている。
 正直、史実と虚構の区別がつかなくなっていくので、事実誤認の危険性があると怪しみながら読んでいたのだが、望月新一の描写がもはや本人からかけ離れ、ほとんどポアンカレ予想を解いたグレゴリー・ペレルマンになっているあたりから、ああこれはフィクションなんだな、と思うようになった。それだけでなく、やはりだんだん常軌を逸していき、読む人はこれがノンフィクションだとは信じなくなると思う。
 天才たちの驚異的な頭脳による発見。それは人類の希望のようでいて、まったくそうではないことが、本書を読んでいると強く実感できる。
 奇妙なのは、ノンフィクションや学術書のように直接この危険性について説明されるのではなく、やはり創作物として表現されている点だ。たとえばシュヴァルツシルトの特異点、つまりブラックホールの存在の示唆は、あまりにも広大すぎる宇宙の怖さ、人智を超えるどころか物理法則すら無視する可能性への絶望的な戦慄を、読者である自分までも深淵の縁に立ってしまい、震えているかのような気になるのだ。これは装置としての小説の効果だろう。
 こうした恐怖、戦慄はいずれの短編でも味わうことになる。難解な方程式を解いていくドキュメンタリー方式の感動やカタルシスではなく、宇宙の虚に潜む深淵と目を合わせてしまい、もう後には引き返せなくなった天才たちの感覚とシンクロすることで、科学と数学がこじ開けてしまった開けてはいけない扉の向こうを体感できる。
 私はメガロフォビア(巨大物恐怖症)なので、宇宙のことを考えるとめちゃくちゃ怖い。特に木星が怖くて、想像するだけで膝が震える。その怖さは数式や理論物理学もたぶん同じだ。
 
 エピローグとして「夜の庭師」が収録されている。これがとても見事なエピローグで、ここに辿り着くまでに脳を使い果たしてぼろぼろになった読者を、さらなる示唆で包む。特にラストの一文に込められたものは、この物語全体の終着点としてこれ以上のない表現で、見事だった。
 未来は良いものだ、しかし同時に、未来が連れてくるのは圧倒的な破壊だ。

 そして本作がさらに重層的な意味を持つのは、反対意見、批判されるべき側面もあるところだ。この本は科学や数学の恐ろしさを書く一方で、この本の存在自体が、創作の危険領域へ踏み込んでいる。
 イヴァン・ジャブロンカが『歴史は現代文学である 社会科学のためのマニフェスト』(真野倫平訳 名古屋大学出版会)で表した意見、歴史学にナラティブの視点を取り入れて新しい風を吹き込もうという試みは、以前から何度か歴史学や人文学の間で起こっている。今またこれが問題になっているのは、SNSの登場以来、より一層強まる「ナラティブ=物語化」への希求だ。
 ナラティブ自体は当事者の声を拾う市井の人文学、社会学、歴史学として正しい。しかし、創作の才能を持っている人間が放つナラティブはどうだろうか。
 何を信じさせるのも自由自在な言葉の才能を持つ創作者は、事実を容易に変形させられる。
 
『恐るべき緑』はその危険領域に完全に両足を入れている。
 史実と学術の間に創作が堂々と立ち、人間に何かを体感させる。それは非常に素晴らしいことだが、ある意味、これは「フェイクの時代の文学」だ。確かに本作はマジックリアリズムの要素があるため、これをノンフィクションだと信じる人はいないだろうが、どこまでが史実でどこまでが創作なのかがわからないものは、誰かの事実誤認を呼び、何かを間違えていく。
 
『恐るべき緑』は紛(まが)う方なき傑作で、凄まじい読書体験が出来る重厚な名著だ。それは間違いない。しかし同時に、創作の危険領域に入ってしまった本でもある。
 これもまた、創作の倫理観を揺さぶり、「レモンの木」を切りかねないものになっている。

恐るべき緑 (エクス・リブリス)
ベンハミン・ラバトゥッツ
白水社
2024-02-18



■深緑野分(ふかみどり・のわき)
1983年神奈川県生まれ。2010年、「オーブランの少女」が第七回ミステリーズ!新人賞佳作に入選する。13年、入選作を表題作とした短編集でデビュー。15年刊の初長編『戦場のコックたち』は、三つの年末ミステリベストランキングでベスト3にランクインしたほか、第154回直木賞、2016年本屋大賞、第18回大藪春彦賞の候補となるなど高く評価されている。著作に『ベルリンは晴れているか』(筑摩書房)、『この本を盗む者は』『空想の海』(KADOKAWA)、『カミサマはそういない』(集英社)、『スタッフロール』(文藝春秋)などがある。

オーブランの少女 (創元推理文庫)
深緑 野分
東京創元社
2016-03-22


戦場のコックたち (創元推理文庫)
深緑 野分
東京創元社
2019-08-09