霊の長居の成れの果て
勝山海百合 Umiyuri KATSUYAMA
本書はケヴィン・ブロックマイヤーThe Ghost Variations: One Hundred Stories(Pantheon, 2021)の全訳である。二頁前後の物語が百編収められており、テーマ別に〈幽霊と記憶〉〈幽霊と運命〉〈幽霊と自然〉〈幽霊と時間〉〈幽霊と思弁〉〈幽霊と視覚〉〈幽霊とその他の感覚〉〈幽霊と信仰〉〈幽霊と愛と友情〉〈幽霊と家族〉〈幽霊と言葉と数〉に分けられ、著者による〈主題の不完全な索引〉も付されている。
ところで、ドイツの作曲家ロベルト・シューマンが晩年に作曲したピアノ独奏曲「主題と変奏」は、Geistervariationen(幽霊変奏曲)とも呼ばれ、英語でGhost Variations、本書の原題と同じだ。ブロックマイヤーがこのピアノ曲を着想源の一つにしたことは想像に難くない。
著者のブロックマイヤーは、一九七二年にアメリカ合衆国フロリダ州で生まれ、アーカンソー州リトルロックで育ち、現在も同地に居住する小説家だ。大学卒業後にアメリカで最も歴史のある創作講座であり、小説家や詩人、ジャーナリストが多数輩出していることで知られる――カート・ヴォネガットも講師を務めていた――アイオワ大学文芸創作講座(アイオワ・ライターズ・ワークショップ)で学び、一九九七年にMFAを取得。同年にイタロ・カルヴィーノ短編賞を受賞してデビューしてからは、雑誌に短編を発表したり、長編小説を上梓したりしており、その中には十代の読者を対象にしたものも含まれている。
日本での紹介はイタロ・カルヴィーノ短編賞受賞作「ある日の〝半分になったルンペルシュティルツヒェン〟」(小川隆訳)が『SFマガジン』二〇〇四年六月号に訳載されたのを始めに、死者たちの暮らす街を舞台にした長編『終わりの街の終わり』(金子ゆき子訳、ランダムハウス講談社、二〇〇八年)と、短編集『第七階層からの眺め』(金子ゆき子訳、武田ランダムハウスジャパン、二〇一一年)の二冊がある。本書はブロックマイヤーの十三年ぶり、三冊目の邦訳となる。
本邦で最初に刊行された『終わりの街の終わり』では、死んだ人間が生者の世界からある街にやってきて暮らしを続けている。住民は自分が死んでいることを理解しているが、街はアメリカのどこかの地方都市のような場所で、天国にしては薄汚れており生活感がある。街の住民たちは、死者を記憶していた生者が死ぬと住民が消える仕組みがあると認識していた。いっぽう生者の世界では感染症が発生しパンデミックによる大量死が起こっていた。死者の街では住民が減り、街が縮みはじめ、残った住民全員の共通点はローラ・バードという女性を知っていることだった。ローラは南極基地に一人残され、辛くも感染を免れていたのだ……。クリス・コロンバスによる映画化の計画があったものの、今のところ進行は止まっている。
『終わりの街の終わり』はパンデミックが背景にある世界で、原著は二〇〇六年刊行。ご存じのように二〇一九年からCOVID-19が世界中で流行し大勢が亡くなっている。ワクチンが開発され接種も行われたがウイルスは変異を続け、二〇二四年現在も感染症はとどまるところを知らない。この経験からブロックマイヤーはよりリアルなパンデミックを描くように……ならなかった。彼は死後の世界を、死者の社会を、幽霊の愚かさ、悲しさといったものを描くことに執心した。死者世界の秩序、幽霊の生活を考え続け、書きも書いたりその数なんと百。それが本書だ。ブロックマイヤーはデビュー時期が近く、どちらも日常と不思議が接続する作品を書くせいかケリー・リンクと並んで語られることが多い作家だが、昨年邦訳されたリンクの比較的最近の二つの短編、「スキンダーのヴェール」(中村融訳、エレン・ダトロウ編『穏やかな死者たち シャーリイ・ジャクスン・トリビュート』所収)と「白猫の離婚」(金子ゆき子訳、『すばる』二〇二三年十二月号)では、現実的な生活にストレンジな事象が入り込んではくるものの、ブロックマイヤーほどはリンクは死にも幽霊にも接近してはいない。少なくとも本書ほどには。
ところで、あなたは「幽霊」にどんなイメージを持っているだろうか?
日本に長く暮らす読者であれば、腰から下が薄ぼんやりしている白い着物の女性であったり、血まみれで髪を乱した甲冑の男性を思い浮かべるかもしれない。あるいは白いシーツを纏って浮遊するタイプだろうか。何度閉めても薄く開いている押し入れの暗がりにひそむタイプの幽霊のことが頭から離れない人もいるかもしれないが、本書『いろいろな幽霊』は、読者の幽霊の枠をこれでもかと広げてくる。これが幽霊? これも幽霊という具合に。
ブロックマイヤーは「幽霊」をどんなものだと考えているのだろうか。やや長いが『終わりの街の終わり』から引用する。牧師の息子で盲目の登場人物が思いを吐露する場面にヒントがあるように思う。
〈死んだら、霊という紐がぷっつり切れて、その人のもとに残されるのは、一方に肉体――粘土と鉱物の塊――もう一方に魂だ。霊はその二つの相互作用を果たす役割しかなく、水面に風が吹いてできるさざ波のようなものだ。風を取り去り、水を取り去ったら、さざ波だってなくなる。それがなくならなかったら? もしもなくならなかったら――盲目の男にとっては憶測にすぎないのだが――人は幽霊と呼ばれる存在になる。幽霊とは、霊がぐずぐずと長居した成れの果てだ。風と水のないさざ波であり、肉体と魂から切り離された紐だ。〉
本書の冒頭の一編「注目すべき社交行事」は、法律事務所の入り口に繰り返し現れるうら若き女性の幽霊の話だ。この女性は、法律事務所がまだ舞踏室だった百七年前、十五歳のときにこの場所で失恋をする。想いを寄せていた男性が別の女性の手を取り、それを目にした彼女は舞踏室を出て行くのだが、この瞬間の自身の振る舞いに執着し、死後――そう、このときに悶死したわけでも舌を嚙んで死んだわけでもなく――に幽霊になって、足の踏み出し方や腕の曲げ具合を変えながら二秒か三秒の動作を幾度も繰り返す。彼女がその一角にとり憑いているのは、「自分の感情の真の複雑さを表現し損ねた」と思っているからで、法律事務所勤務の青年たちはその様子を眺めては、人間の愚かさと悲しさと、そうなるかもしれない自分の未来を思う。
この女性の幽霊の場合、同じ場所にしか出現しないので地縛霊のような気がするが、彼女の執着対象は場所ではなく、そのときの感情だ。場所はたまたまであり、傷ついた心ごとそこにつなぎ留められてしまったのだ。「でもどうしてそこに?」の問いが浮かんだとして、読者の心中に幾つかの答えが去来はしても、正解はおそらくない。結局のところ、無意味だったり愚かに見える自縄自縛も含めて幽霊なのだろう。
この話を読んで思い出したのが不動産にまつわる怪談である。その物件では誰もいないのにバタン……となにかが倒れる音がするというものだ。霊感の強い人がその部屋を見に行ったところ、かつてこの部屋で自ら命を絶った人が、踏み台を蹴り倒したときを、死の縁を渡った瞬間を何度も繰り返しているのだという。これは「注目すべき社交行事」の類話と言ってもいいだろうか。「繰り返される瞬間」の意味ではよく似ている。異なる点は、舞踏室が死の現場でなかったのが幸いして舞踏室の女性を見ても人はことさら恐れないが、踏み台が倒れる音のほうは人を怖がらせるところだ。しかしどちらもブロックマイヤーが言う「霊がぐずぐずと長居した成れの果て」である。
「再生可能資源」では、大手多国籍石油化学企業の不仲の部長二人が重役研修旅行に出かけた先で(おそらくは激しい言い争いのさなかに)頁岩の絶壁もろとも湿地に落ちる。泥の下、巨岩に押し潰されて七百万年、更に百万年、新しく誕生した種が、二人の肉体だったものが変化した石油燃料に火を点ける。この二人は、死んで幽霊になっても、その肉体から離れることなく百万年を重ねている。もしかしたら不仲だったのは生前の何年かだけで、幽霊になってからは和解してそれなりに楽しく過ごしたかもしれないし、愛とか情とかといったものとは決別し、単に幽霊としてあっただけかもしれない。いずれにせよ人類が滅び、別種の知的生命体が生まれて進化して、石油燃料に火を点けるまでの八百万年。気が遠くなるがこれも長居の成れの果てといえよう。
本書はこのような短いが濃厚な掌編が連なる一冊で、悲しさが漂っていたり、取り返しのつかないことをしてしまった後悔の苦さがあったり、可笑しみがあったり、広大な宇宙の一隅で永遠の孤独を託つような寒さもあったりする。
死んだ途端にこれまでの記憶や社会的な繫がりが断絶することはない、生きた人間と同等の愚かさのままでかまわないので、死後の世界でも生前と変わらぬ暮らしがあって欲しいという著者の切なる願い、祈りが込められているようでもある。
人が集って奇妙な話や怖い話、いわゆる怪談を語る「百物語」という催しがある。百の灯明を点し、話が一つ終わるごとに消していき、最後の一つを消した際に怪異が起こると言われているため、百まで語らずに切り上げるのが作法とされている。筆者も京極夏彦氏を立会人とした百物語に参加したことがあるが、このときも九十九話で打ち止めとなった。
【編集部付記:本稿は『いろいろな幽霊』書き下ろし解説の転載です。】
■勝山海百合(かつやま・うみゆり)
岩手県生まれ。2006年「軍馬の帰還」で第4回ビーケーワン怪談大賞を受賞。また翌07年に「竜岩石」で第2回『幽』怪談文学賞短編部門優秀賞を受賞し、同作を含めた短編集『 竜岩石とただならぬ娘』により本格的にデビューを果たす。11年、『さざなみの国』で第23回日本ファンタジーノベル大賞を受賞。主な著作として『厨師、怪しい鍋と旅をする』『玉工乙女』『狂書伝』ほか、現代語訳を手がけた『只野真葛の奥州ばなし』などがある。また、既発表の翻訳短編にユキミ・オガワ「さいはての美術館」、S・チョウイー・ルウ「沈黙のねうち」「稲妻マリー」「年々有魚」、L・D・ルイス「シグナル」などがある。
岩手県生まれ。2006年「軍馬の帰還」で第4回ビーケーワン怪