解説の柿沼瑛子先生は、第1巻『ワニの町へ来たスパイ』刊行以来ずっと〈ワニ町〉シリーズを応援してくださっています。〈ワニ町〉がここまで人気者になったのは柿沼先生と東野さやか先生が読書会で『ワニの町へ来たスパイ』を課題書に取りあげてくださったことがきっかけのひとつです! この場を借りてお礼を申し上げます。(編集部)
解 説
「蒸し暑い土曜日の夕方、わたしはルイジアナ州罪深き町(シンフル)にバスから降り立ち、自分が地獄に落ちたことを確信した」
われらのワニ町シリーズもいつのまにか七作目に! このシリーズを初めて読む方のために簡単に説明しておくと、腕っこきのCIA工作員であるヒロイン・フォーチュンは、義憤に駆られて武器商人アーマドの弟を殺してしまい、敵側から懸賞金を懸けられる身となり、上司のはからいでアメリカ深南部の超保守的な湿地地帯の町に身をひそめることになる。趣味は編み物で元ミスコン女王の司書という、本来の自分とは正反対の身分を与えられたフォーチュンはうんざりする思いを抱えてピンクのスーツケースを引きずり、慣れぬハイヒールに苦戦しながら信心深いバイブルベルト(主にアメリカ南部を中心とする保守的で信仰心があつく伝統的価値観を大切にするエリア)の小さな町にやってくる。引用したのはシリーズ第一作『ワニの町へ来たスパイ』でシンフルの町にバスから降り立ったフォーチュンの第一印象だ。はたして本当にそこが「地獄」だったかどうかは、これまでのシリーズを読んできた方にはもうおわかりだろう。
第一作『ワニの町へ来たスパイ』のカバーには、フォーチュンがひとりきりで壊れたハイヒールを手に、ボートの舳先からシンフルを見つめている後ろ姿だけが描かれている。そして二作目からは必ずガーティとアイダ・ベルのふたりが一緒にいる。ガーティとアイダ・ベルはシンフルを影で牛耳るシンフル・レディース・ソサエティの重鎮(?)なのだが、おばあちゃんズ呼びも気の毒なので、ここではシンフル・レディースのおばあさんということで〈シン・グランマ〉と呼ばせていただく。フォーチュンは半ばシン・グランマたちに引きずられるようにして地元の揉め事(けっこう重大な犯罪につながっていることが多い)の捜査に巻き込まれていくうちに、この町と意外に水が合うことに気がつく。バイブルベルトの超保守的な湿地地帯の小さな町というのは見かけだけで、密造酒やらギャングやら汚職やら、さらには愛憎嫉妬の渦巻くグレイゾーンだったのだ。そしてそこは彼女にとっては新たな出発地でもあった。
第一作でガーティと出会い、とんちんかんな歓迎を受けたフォーチュンは「この世のどこかで何かが傾いた気が」する。そしてその後に訪れるのがあの有名な(?)プディング争奪戦である。町を牛耳るもうひとつの勢力ゴッズ・ワイヴズの女ボス、シーリアに対抗するべく、フォーチュンがその工作員としての能力を最大限にいかしてフランシーンのバナナプディングを獲得するあのシーンでは、何かとアクションに目を奪われがちだが、実はけっこう重要な瞬間だったのではないかと思う。それまで己の任務のことだけしか考えず、ひたすら目の前のことを片付けていく暗殺者マシンだったフォーチュンは、おそらくここで「覚醒」したのだ。例えば何もしたくないほど精神的肉体的に疲れているとき、たった一杯の珈琲でもパフェでもビールでも、まあなんでもいいのだが、美味しいものを口にしたとたん、しみじみとため息が出るような、乾ききっていた砂漠に慈雨がしみこんでいくような体験をしたことはないだろうか? 美味しい食べ物にはそれだけの「力」がある。なぜかといえばそこには作り手の(人間だろうと機械だろうと)「情」が宿っているからだ。その「情」の味を知った者はもう元どおりの自分ではいられない。それはフォーチュンがこれまで自分に否定してきた、というよりは禁じてきた愛や友情や深い人間関係といった心の一番柔らかい部分にはたらきかけるエッセンスのようなものなのだ。シン・グランマのふたりとの友情はもちろん、カーター保安官助手とのロマンスや、手を差しのべてくれる人の「情」を彼女は躊躇しながらも受け入れていく。その「情」を象徴するのがフランシーンのバナナプディングなのだろう。だからシーリアみたいな嫌な女でも、フランシーンのプディングにすがらずにはいられない。そのシーリアに輪をかけて嫌な彼女の(死んだはずの)元夫もフランシーンのカフェに朝食を食べに来ていた。
と、いささか本作のストーリーの紹介が遅くなってしまったが、シン・グランマたちの天敵シーリアが新町長に就任したことで巻き起こった騒ぎはいっけん落着したかにみえて、シンフルの町はいまだ落ち着かない。そこに長年行方不明で、死んだのではないかと噂されていたシーリアの夫が戻り、フランシーンのカフェでハブとマングースよろしく派手に対決したあとで、シーリアの家にとんでもない置き土産を残していく。おりしも最近シンフルではアーマドの組織の影をちらつかせる物騒なものが出回り、フォーチュンを弟の仇とつけねらうアーマドの手が、ついにシンフルにも及び始める。もしアーマドと対決するようなことになれば、せっかくいい感じになってきたカーターにも正体を明かさなければならず、それどころかシンフルにいられるかどうかも危うい。そんなところにハリケーンが襲来し(初めてすさまじい自然災害に遭遇するフォーチュンの驚きぶりとワクワクぶりが楽しい)そして嵐の後には、フォーチュンの公私にわたるシリーズ最大(今のところ)の危機が訪れる……。
このシリーズのいいところは、作者の思い入れを押しつけて読者を傷つけたりはしないことだ。これはシリーズものにありがちなのだが、だんだんシリーズが進んでいくうちに、主人公に深み(?)を与えようとひどい目にあわせたり、いりもしない不幸な過去だのをつけ加えたがる作者がいる。だが、いわせてもらうなら、キャットウーマンや峰不二子やドロンジョ様の隠された陰の(それも不幸な)顔なんて誰が見たい! たしかにフォーチュンにだって、スーパースパイの父親との葛藤や、「この世で一番美しい女性」である母親に対するコンプレックスはあるかもしれないが、それを含めて今の変化しつつある自分を「肯定」しているのだ。本作のラスト近くでフォーチュンはひとつの大きな決断を下さなければならなくなる。だがいったんバナナプディングの味を知ってしまったフォーチュンが元どおりの自分に戻ることはない。なぜならそれが自分の選んだ道だからだ。
「帰れば〇麦、帰れば〇麦」という某コマーシャルではないけれど、どんなに疲れてイヤなことがあっても帰ったらアレがあるという幸せ、「どこかにこういう町があってこういう人たちがいる」と考えただけで人生がちょっぴり明るくなる――それが読者にとっての「ワニ町」だ。だからこそ、永遠に冬が終わらないように思えるマンガ『ミステリと言う勿れ』のようにシンフルの夏が永遠に続いてほしいとも思うが(さすがに二十五作では夏のまんまではいられないだろう)読者は心配する必要はない。これから先にあらわれるのはアップデートされたフォーチュンだからだ。
「シンフルに来るのは嫌でしかたがなかったのに、来てみたら、これまでの人生で最高の出来事だった。仕事以外の世界に対して目が開かれた。職務という理由がなくても、人との関係が築けた。わたしを大切に思ってくれる人たちがいると信じられるようになった」と本巻のラスト近くでフォーチュンは回想するが、今回のハリケーンとそれに伴う事件がもたらしたのは絆の再確認だけでなく、フォーチュン自身の新たなスタンスなのだ。本作でアイダ・ベルに工作員としての仕事が恋しいかと訊ねられたフォーチュンは迷うことなく「恋しい」と言い切る。「わたしは標的に迫るときのぞくぞくする感じがすごく好き。自分のしたことが世の中をほんのわずかでもましな場所にするとわかっていることも」
だから今回の『嵐にも負けず』は、ある意味では第一作への「回帰」ともいえる。本来の戦う女としての自分にフォーチュンはふたたび目覚めるのだ(それはシン・グランマたちも同じである)。人間としてプロとしてアップデートされたフォーチュンに、これからどんな未来が待っているかは作者のみが知るところだが、たとえ美食のせいでウェストがゴムの服しか入らなくなろうと、いつかカーターに自分の正体を明かさねばならなくなろうと、フォーチュンには幸せになってほしい、そしていつまでもシン・グランマたちと暴れまわってほしいというのが、わたしたち読者の切なる願いである。
柿沼瑛子
「蒸し暑い土曜日の夕方、わたしはルイジアナ州罪深き町(シンフル)にバスから降り立ち、自分が地獄に落ちたことを確信した」
われらのワニ町シリーズもいつのまにか七作目に! このシリーズを初めて読む方のために簡単に説明しておくと、腕っこきのCIA工作員であるヒロイン・フォーチュンは、義憤に駆られて武器商人アーマドの弟を殺してしまい、敵側から懸賞金を懸けられる身となり、上司のはからいでアメリカ深南部の超保守的な湿地地帯の町に身をひそめることになる。趣味は編み物で元ミスコン女王の司書という、本来の自分とは正反対の身分を与えられたフォーチュンはうんざりする思いを抱えてピンクのスーツケースを引きずり、慣れぬハイヒールに苦戦しながら信心深いバイブルベルト(主にアメリカ南部を中心とする保守的で信仰心があつく伝統的価値観を大切にするエリア)の小さな町にやってくる。引用したのはシリーズ第一作『ワニの町へ来たスパイ』でシンフルの町にバスから降り立ったフォーチュンの第一印象だ。はたして本当にそこが「地獄」だったかどうかは、これまでのシリーズを読んできた方にはもうおわかりだろう。
第一作『ワニの町へ来たスパイ』のカバーには、フォーチュンがひとりきりで壊れたハイヒールを手に、ボートの舳先からシンフルを見つめている後ろ姿だけが描かれている。そして二作目からは必ずガーティとアイダ・ベルのふたりが一緒にいる。ガーティとアイダ・ベルはシンフルを影で牛耳るシンフル・レディース・ソサエティの重鎮(?)なのだが、おばあちゃんズ呼びも気の毒なので、ここではシンフル・レディースのおばあさんということで〈シン・グランマ〉と呼ばせていただく。フォーチュンは半ばシン・グランマたちに引きずられるようにして地元の揉め事(けっこう重大な犯罪につながっていることが多い)の捜査に巻き込まれていくうちに、この町と意外に水が合うことに気がつく。バイブルベルトの超保守的な湿地地帯の小さな町というのは見かけだけで、密造酒やらギャングやら汚職やら、さらには愛憎嫉妬の渦巻くグレイゾーンだったのだ。そしてそこは彼女にとっては新たな出発地でもあった。
第一作でガーティと出会い、とんちんかんな歓迎を受けたフォーチュンは「この世のどこかで何かが傾いた気が」する。そしてその後に訪れるのがあの有名な(?)プディング争奪戦である。町を牛耳るもうひとつの勢力ゴッズ・ワイヴズの女ボス、シーリアに対抗するべく、フォーチュンがその工作員としての能力を最大限にいかしてフランシーンのバナナプディングを獲得するあのシーンでは、何かとアクションに目を奪われがちだが、実はけっこう重要な瞬間だったのではないかと思う。それまで己の任務のことだけしか考えず、ひたすら目の前のことを片付けていく暗殺者マシンだったフォーチュンは、おそらくここで「覚醒」したのだ。例えば何もしたくないほど精神的肉体的に疲れているとき、たった一杯の珈琲でもパフェでもビールでも、まあなんでもいいのだが、美味しいものを口にしたとたん、しみじみとため息が出るような、乾ききっていた砂漠に慈雨がしみこんでいくような体験をしたことはないだろうか? 美味しい食べ物にはそれだけの「力」がある。なぜかといえばそこには作り手の(人間だろうと機械だろうと)「情」が宿っているからだ。その「情」の味を知った者はもう元どおりの自分ではいられない。それはフォーチュンがこれまで自分に否定してきた、というよりは禁じてきた愛や友情や深い人間関係といった心の一番柔らかい部分にはたらきかけるエッセンスのようなものなのだ。シン・グランマのふたりとの友情はもちろん、カーター保安官助手とのロマンスや、手を差しのべてくれる人の「情」を彼女は躊躇しながらも受け入れていく。その「情」を象徴するのがフランシーンのバナナプディングなのだろう。だからシーリアみたいな嫌な女でも、フランシーンのプディングにすがらずにはいられない。そのシーリアに輪をかけて嫌な彼女の(死んだはずの)元夫もフランシーンのカフェに朝食を食べに来ていた。
と、いささか本作のストーリーの紹介が遅くなってしまったが、シン・グランマたちの天敵シーリアが新町長に就任したことで巻き起こった騒ぎはいっけん落着したかにみえて、シンフルの町はいまだ落ち着かない。そこに長年行方不明で、死んだのではないかと噂されていたシーリアの夫が戻り、フランシーンのカフェでハブとマングースよろしく派手に対決したあとで、シーリアの家にとんでもない置き土産を残していく。おりしも最近シンフルではアーマドの組織の影をちらつかせる物騒なものが出回り、フォーチュンを弟の仇とつけねらうアーマドの手が、ついにシンフルにも及び始める。もしアーマドと対決するようなことになれば、せっかくいい感じになってきたカーターにも正体を明かさなければならず、それどころかシンフルにいられるかどうかも危うい。そんなところにハリケーンが襲来し(初めてすさまじい自然災害に遭遇するフォーチュンの驚きぶりとワクワクぶりが楽しい)そして嵐の後には、フォーチュンの公私にわたるシリーズ最大(今のところ)の危機が訪れる……。
このシリーズのいいところは、作者の思い入れを押しつけて読者を傷つけたりはしないことだ。これはシリーズものにありがちなのだが、だんだんシリーズが進んでいくうちに、主人公に深み(?)を与えようとひどい目にあわせたり、いりもしない不幸な過去だのをつけ加えたがる作者がいる。だが、いわせてもらうなら、キャットウーマンや峰不二子やドロンジョ様の隠された陰の(それも不幸な)顔なんて誰が見たい! たしかにフォーチュンにだって、スーパースパイの父親との葛藤や、「この世で一番美しい女性」である母親に対するコンプレックスはあるかもしれないが、それを含めて今の変化しつつある自分を「肯定」しているのだ。本作のラスト近くでフォーチュンはひとつの大きな決断を下さなければならなくなる。だがいったんバナナプディングの味を知ってしまったフォーチュンが元どおりの自分に戻ることはない。なぜならそれが自分の選んだ道だからだ。
「帰れば〇麦、帰れば〇麦」という某コマーシャルではないけれど、どんなに疲れてイヤなことがあっても帰ったらアレがあるという幸せ、「どこかにこういう町があってこういう人たちがいる」と考えただけで人生がちょっぴり明るくなる――それが読者にとっての「ワニ町」だ。だからこそ、永遠に冬が終わらないように思えるマンガ『ミステリと言う勿れ』のようにシンフルの夏が永遠に続いてほしいとも思うが(さすがに二十五作では夏のまんまではいられないだろう)読者は心配する必要はない。これから先にあらわれるのはアップデートされたフォーチュンだからだ。
「シンフルに来るのは嫌でしかたがなかったのに、来てみたら、これまでの人生で最高の出来事だった。仕事以外の世界に対して目が開かれた。職務という理由がなくても、人との関係が築けた。わたしを大切に思ってくれる人たちがいると信じられるようになった」と本巻のラスト近くでフォーチュンは回想するが、今回のハリケーンとそれに伴う事件がもたらしたのは絆の再確認だけでなく、フォーチュン自身の新たなスタンスなのだ。本作でアイダ・ベルに工作員としての仕事が恋しいかと訊ねられたフォーチュンは迷うことなく「恋しい」と言い切る。「わたしは標的に迫るときのぞくぞくする感じがすごく好き。自分のしたことが世の中をほんのわずかでもましな場所にするとわかっていることも」
だから今回の『嵐にも負けず』は、ある意味では第一作への「回帰」ともいえる。本来の戦う女としての自分にフォーチュンはふたたび目覚めるのだ(それはシン・グランマたちも同じである)。人間としてプロとしてアップデートされたフォーチュンに、これからどんな未来が待っているかは作者のみが知るところだが、たとえ美食のせいでウェストがゴムの服しか入らなくなろうと、いつかカーターに自分の正体を明かさねばならなくなろうと、フォーチュンには幸せになってほしい、そしていつまでもシン・グランマたちと暴れまわってほしいというのが、わたしたち読者の切なる願いである。
本記事は2024年4月刊のジャナ・デリオン/島村浩子訳『嵐にも負けず』(創元推理文庫)解説を全文転載したものです。(編集部)
■柿沼瑛子(かきぬま・えいこ)
英米文学翻訳家。主な訳書にビクトリア・シェパード「妄想の世界史」、アルジス・バドリス「誰?」、ジプシー・ローズ・リー「Gストリング殺人事件」、C・A・スミス「魔術師の帝国」(共訳)、ローズ・ピアシー「わが愛しのホームズ」、パトリシア・ハイスミス「キャロル」、アン・ライス「ヴァンパイア・クロニクルズ」「眠り姫シリーズ」などがある。共著書に『耽美小説・ゲイ文学ブックガイド』『女性探偵たちの履歴書』など。