「翻訳のはなし」第9回
「現地在住者の翻訳作業は社交から久山葉子

 東京創元社で北欧ミステリを訳させてもらうようになって十年が過ぎた。スウェーデンミステリを十八冊を訳す機会に恵まれ、プライベートでは地元スンツヴァルでスウェーデン・ミステリフェスティバルという文学イベントの実行委員になって九年目。登壇する作家の方々の講演を拝聴したり交流したり、公私ともにスウェーデンミステリ漬けの十年を過ごしてきた。なお、このミステリフェスティバル、今年で十二回目の開催だが、第一回は当時まだ存命だったマイ・シューヴァル氏がいらしていて、直接お話しできたことは一生の自慢だ。噂どおり、極めて毒舌なおばあちゃんだった。

 他に作家と会える機会といえば、毎年九月にヨーテボリで開催されるブックフェア。出版社・エージェント・作家といった業界関係者が一堂に会し、普段はメールのやりとりのみの人たちと対面で会える嬉しさがある。わたしの場合、昼間はエージェント各社とライツセンターでミーティングをしたり、出版社のブースで三十分刻みで行われる作家登壇予定をチェックして、気になっている方や今度訳す予定の方に挨拶に行ったりする。そして夜はエージェントが開催するディナーやパーティーへ。エージェント所属の作家と食事やお酒を楽しみながらじっくりお話することができる。

 昨年のブックフェアで印象深かったのは、毎年ミステリフェスティバルで司会をお願いしているシャシュティン・ベリマンが招待してくれたカクテルパーティーだ。彼女はスウェーデンを代表するミステリ評論家で、カクテルに詳しい作家ハンス=オロフ・エーベリと共著で『スウェディッシュ・ノワール・カクテルズ』というカクテル本を刊行、そのリリースパーティーだった。三十三人のミステリ作家に捧げるカクテルを考案し、レシピとともに作品紹介がされている大型本で、パーティーに行ってみるとカクテルを捧げられた作家が詰めかけていた。右を向けばアンデシュ・ルースルンド、左を向けばホーカン・ネッセル、他にも大勢来ていて、どっちを向いても視界には有名ミステリ作家。ブックフェア会場の片隅を仕切った狭いエリアだったが、あれほどミステリ作家密度の高い空間は後にも先にも存在しないだろう。

 わたしはノルディン・エージェンシーのオーグレン英里子(えりこ)さんと参加したのだが、独り寂しげにカクテルグラスをもつ年配の女性大物作家を発見し、すかさず二人で近づいた。豊かな金髪のおかっぱがトレードマークの七十八歳、インゲル・フリマンソン氏で、日本では集英社文庫から二〇一一年に『悪女ジュスティーヌ』シリーズが刊行されている。三人で話しているうちに、フリマンソン氏が「あら、あなた、ノルディン・エージェンシーといえば……創業者のノルディン氏は大変な事故に遭ったという話を聞いたけれど、まだ生き……あ、いや、その後どうしていらっしゃるの?」と目を輝かせて質問されたので、わたしは思わず「やだー先生、その発想は職業病じゃ……」とつっこんでしまったが、英里子さんの話では本当に事故があったらしい。大物ミステリ作家の妄想ではなかったようで、大変失礼しました。フリマンソン氏も「いえいえ、職業病ってわけじゃないのよ。本当にそういう事故があったの」と優しく微笑んでくださった。幸いノルディン氏(スウェーデン初の作家エージェント)は命を取り留め、現在もお元気でいらっしゃるという。

 あの夜は奮発してブックフェア会場の上にある高級ホテルに泊まったのだが、翌朝、高層階のレストランで豪勢な朝食を独り貪(むさぼ)っていると(おひとりさまも平気なタイプ)、隣のテーブルに座ったキラキラカップルがミステリ作家のモンス・カッレントフトと新パートナーの女性だった。カッレントフトといえば、わたしが初めて訳したミステリ『冬の生贄(いけにえ)』『天使の死んだ夏』『秋の城に死す』の著者。『冬の生贄』は彼の出世作で、スウェーデンではシリーズは十四作目まで続き、他シリーズも合わせると三十冊近い著作のある大作家となった。昔は長らくスキンヘッドがトレードマークだったのに、なぜか今は髪がふさふさで、「実は髪の毛あったんだ」と当惑させられる。最近の作品はわたしも読んでいないが、いつもお酒ばかり飲んでいたモーリン(主人公の女性警官)は今でも元気なのだろうか。著者本人も深酒による失敗談には事欠かない方だが。

 久しぶりにカッレントフト氏と話せて、わたしも翻訳の仕事を初めてもらった頃の気持ちがよみがえった。無我夢中で(締切を)駆け抜けた十年だったが、次の十年もがんばろう。翻訳者の仕事の在り方に正解はないが、わたしにとっては社交や人脈構築による情報収集も大切な仕事のひとつ。なにしろマイナー言語の訳者というのは基本持ち込みで生きているのだから。これからもスウェーデンから面白いミステリを紹介していきたいので、どうぞよろしくお願いいたします。



■久山葉子(くやま・ようこ)
翻訳家。1975年兵庫県生まれ。神戸女学院大学卒。スウェーデン在住。主な訳書にペーション『許されざる者』、ネッセル『殺人者の手記』、ハンセン『スマホ脳』などが、エッセイ集に『スウェーデンの保育園に待機児童はいない――移住して分かった子育てに優しい社会の暮らし』がある。



この記事は〈紙魚の手帖〉vol.11(2023年6月号)に掲載された記事を転載したものです。


紙魚の手帖Vol.11
熊倉 献ほか
東京創元社
2023-06-12