これまでのSF作品で散々描き尽くされてきたからなのか、二十一世紀の世界には最初からずっと、どこかしら懐かしさを感じさせる空気が漂っているような気がする。
舞台は作者の出身地でもある茨城県土浦(つちうら)。すでに月や火星に基地が建設されているのに、コンピュータにはまだフロッピーが使われインターネットもごく一部で利用されているに過ぎない世界の夏紀(なつき)と、宇宙開発はまだ端緒についたばかりだが、量子コンピュータの運用が始まっている世界の登志夫(としお)。それぞれ別の宇宙で生きている十七歳の二人は、幼い頃土浦の亀城(きじょう)公園で、それぞれトシオ、ナツキという名前の子と一緒に空をゆくグラーフ・ツェッペリン号を見たという記憶を持っていた。しかし土浦にグラーフ・ツェッペリン号が来たのは一九二九年のことで、どれだけ記憶が鮮明でもそれはありえない出来事なのだ。登志夫の世界ではインチキだったことが証明されている重力制御装置が夏紀の世界では実用化され、その夏紀の世界では量子力学が異端の科学としてものすごくマイナーな存在だったり、ところどころオカルト知識がちりばめられているのが、遊び心を感じられて楽しい。物語は二人の視点が章ごとに入れかわり交互に語られるスタイルで、それぞれの世界で微妙な違和感を醸(かも)し出す小さな事件が起き、それらが相互に関連してしだいに不穏な気配も現れ、ついに電子メールをきっかけにして夏紀と登志夫は世界の隔(へだ)たりを超え互いの存在を探り当てる。作者お得意の歴史改変の技法で、二つの現代日本の変容の差異に現れるノスタルジーと歴史の「if」が交差するSF的想像力が、一度きりの十七歳の夏という感傷と結びついて忘れがたい鮮烈な印象を残す。ことに夏紀の「ごく普通の女の子」としてのリアルな描写が素晴らしく、悩める天才少年という趣(おもむき)のある登志夫とのコントラストも鮮やか。ビターでせつない結末もきっぱりした読後感は爽快だ。
伊野隆之(いの・たかゆき)『ザイオン・イン・ジ・オクトモーフ イシュタルの虜囚(りょしゅう)、ネルガルの罠』(アトリエサード 二三〇〇円+税)は、日本SF新人賞受賞作、『樹環惑星』(徳間文庫)以来十三年ぶりの単著。TRPG発のシェアード・ワールド〈エクリプス・フェイズ〉と世界観を共有する連作集で、日本SF作家クラブ公認ネットマガジン「SF Prologue Wave」に掲載された短編をまとめた長編に、スピンオフ短編と書き下ろしを加え、おまけと前記TRPGのルールブックの訳者の一人である岡和田晃(おかわだ・あきら)による解説コラムが付いた充実した一冊。舞台は二十三世紀の太陽系。人類は高度な科学技術によって事実上の不死を実現したが、超AIの暴走で絶滅寸前に追い込まれ、瓦礫(がれき)と混乱の中で巨大な企業複合体の支配する過酷な世界に生き延びていた。実業家として巨万の富を得ていたザイオンは、軍用AIの襲撃を逃れて精神だけで地球を脱出したものの、金星の小悪党マデラの計略で彼の所有物であるタコ型義体(オクトモーフ)に押し込められ、覚醒後は監視役のカラスに突かれながらひたすら社会の底辺層で搾取(さくしゅ)される羽目に陥(おちい)る。しかし、もともと抜け目のない資本家であるザイオンは、間抜けなマデラの裏をかき自由を手に入れていく。金星の経済構造を逆手(さかて)にとっての成り上がり、古巣である企業複合体ソラリスの魔の手との火星での騙(だま)し合いといった物語は痛快極まりない。カラスとの乱暴な掛け合いのコメディタッチの可笑(おか)しみや、タコの身体を気に入って縦横に使いこなすザイオンのしたたかさの隙間に、時折地球の思い出が過(よ)ぎっていく複雑な郷愁が混じって、大人のエンターテインメントの味わいがある本格SFの傑作だ。
■渡邊利道(わたなべ・としみち)
作家・評論家。1969年生まれ。文庫解説や書評を多数執筆。2011年「独身者たちの宴 上田早夕里『華竜の宮』論」が第7回日本SF評論賞優秀賞を、12年「エヌ氏」で第3回創元SF短編賞飛浩隆賞を受賞。