渡邊利道 Toshimichi WATANABE
本書は、アメリカの作家セコイア・ナガマツが二〇二二年に発表した長編小説How High We Go in the Darkの全訳である。気候変動とパンデミックで人類が破滅の危機に瀕する近未来の一時期を中心に、人類発生以前から遠未来まで悠揚たる時の流れにわたって、相互に関連する複数の登場人物をモザイク状に描いた作品で、ニューヨーク・タイムズのエディターズ・チョイスに選ばれるなど多くのレビューで好評を博し、第一回アーシュラ・K・ル゠グイン賞ではファイナリストとなり特別賞(次席)を獲得している。著者は名前からすぐわかるように日系アメリカ人であり、登場人物の多くが日系人に設定されていたり、物語の舞台となる場所に複数の日本の地域が選ばれたりしているので、日本の読者には親しみやすい部分がある一方、アメリカから見た日本及び日本人のありようという未知の部分を味わうことができる作品だ。
物語はシベリアではじまる。語り手は考古学と進化遺伝学を専門とする学者クリフ・ミヤシロ博士。彼は、気候変動対策のプロジェクトで作業中に事故死した娘クララが発見した三万年前の少女の死体を研究し、娘と仲違いしたまま生き別れになってしまったことを悔やみ、娘の生き方をもっと理解したいと願っていた。クララが遺した日記を読みながら研究を進める中、三万年前の少女の死体から発見された未知のウイルスによって、体内の臓器が違う臓器に変容してしまうという奇怪な感染症にプロジェクトの参加者が次々に罹患していく。次の章では舞台はロサンゼルスに移動し、「北極病」と名付けられたその感染症はすでに全世界に波及、子どもと身体的な弱者に対して猛威を振るっている。語り手は売れないコメディアンのスキップ。彼は子どもを北極病で失った大富豪が建設した、遊園地を模した安楽死のための施設で着ぐるみをかぶって、死にゆく子どもたちを最後まで楽しませる仕事に就いている。そこで彼は一組の母子と出会い、深く関わっていくことになる……と、このように物語は章ごとに毎回舞台と語り手を変え、感染症と気候変動が世界を変容させる未来史として綴られていく。
病者たちが異様な空間に閉じ込められて、熱気球ほどの大きさの虹色の球体に現れるそれぞれの過去を見る幻想的な挿話や、臓器移植用に遺伝子操作された豚が人語を話しだしたり、故人が生前に遺した音声データを再生するロボット犬、宇宙からもたらされた技術によって建造された恒星間宇宙船で外宇宙へ飛び出す人々など、いかにもSF的なさまざまな物語が語られる。宇宙船を見送った地球ではその後、治療法が確立して再生が図られるがその歩みはゆっくりであり、大量死のために人口が激減して奇妙な風習が浸透し、林立する高層ビルには巨大産業となった葬儀社が入って新たな葬送方式が次々に生み出されていく……。人類発生以前の歴史から数百光年離れた外宇宙の惑星に人類が到達する遠未来まで壮大なスケールで物語は展開するのだが、それでも人々の死がもたらした喪失感は決して埋められることはなく、ただ、傷を抱えた痛みを受け入れて生きていくほかないという現実が静かに提示される。
発表された時期もあり、いかにもポストコロナSFと思われそうな作品だが、作者が本作を構想したのはCOVID-19が流行するよりも前で、作者の祖父が逝去し、その悲しみを癒す一種の自己治療の試みとして書きはじめ、パンデミックの前にはほとんど書き上げていたのだという。もちろん、作品を推敲して仕上げるに当たっては同時進行するパンデミックによる混乱が少なくない影響を与えているだろうが、しかし、安易な救済や癒しに道を開かず、ただ静かに埋められない喪失と向き合って理不尽な世界と決して和解しないという態度は、親しい人の死という個人的な体験から来ているのに違いない。
ブライアン・W・オールディスは、その長編評論『十億年の宴』で、第二次世界大戦後のイギリスで流行した終末SFを、文明が崩壊して人々が次々死んでいく状況を傍観者として抜け抜けと生き残る物語として「心地よい破滅」と名付けて批判したが、本作で生き残る人々の多くは家族関係が崩壊し、過酷な世界に孤独を抱えて取り残されていくようであり、その苦しみや悲しみの描写は執拗かつ切実で、しかも絶望にも陥らず現実的な冷静さを失わない。感染症に関するさまざまな陰謀論なども語られながら、登場人物たちはそうした極論には終始距離をとっており、性格的に難のある、他人と協調できない人物もいるものの、概ね誰もが理性的に行動し、他者への思いやりや内省も欠かさない。悲しみの中に宙吊りになりながら、誰もが「よりよく生きたい」という願いを失っていないのが、むしろ読むものに希望を与えてくれるのだ。深く傷ついた経験を持つ人にこそポジティヴに読まれるのではないかと思われる、非常に現代文学的なSFだ。
本作では近年しばしば話題にのぼる気候変動と感染症が世界の崩壊をもたらすのだが、SFでは環境破壊と疫病は人類の終末の二大要因であると言っていい。そういう意味では本作は非常に伝統的な作品でもある。
終末SFとか、破滅テーマなどと言われるSF作品の流行は、二つの世界大戦において科学技術の発展がもたらした大量死と、その後の核戦争の恐怖に起因する。「心地よい破滅」の代表的な作例としては、ジョン・ウィンダムの『トリフィド時代』があり、人類を盲目にする流星雨が人工衛星や核実験の影響ではないかと示唆され、また食人植物トリフィドが遺伝子工学の産物とされている。核戦争による破滅を扱った作品としては、本作と方向性は逆だがテイストの似ているネヴィル・シュートの『渚にて』がある。従来のSFでは科学技術で破滅の危機を乗り越える物語が多かったが、この作品では人々が静かに滅びを受け入れるのが画期的だった。小松左京が一九六四年に発表した、生物兵器として開発された致死率百パーセントのウイルスによって人類が破滅の危機に瀕する『復活の日』は、COVID-19のパンデミックによって再注目されたが、もともとはシュートの作品の影響を受けているとされる。戦争には関係のない、生活の質を向上させる技術による環境破壊をテーマにした作品では、J・G・バラードが一九六五年に発表した『旱魃世界』で、大量の工業廃棄物によって海面が化学物質の膜に覆われ、水分が蒸発できなくなって大規模な旱魃が訪れるのが挙げられるだろう。一九七〇年代の後半から科学者の間でしばしば話題となっていた「地球温暖化現象」は、八八年に米国議会で取り上げられてから一気に「問題」として拡散し、多くのSF作品で取り上げられるようになる。実際近年頻発する自然災害や異常気象の要因として語られることが増えたこともあって、いまや気候変動SFというサブジャンルが成立するに至っている。感染症は、ペスト以来しばしば大量死をもたらしてきたいわば伝統的な災厄であり、一九二〇年前後のスペイン風邪、八〇年代のHIVなど枚挙にいとまがなく、カミュの『ペスト』のような古典を始め、架空のパンデミックを描いた近年の作品にはチャック・ウェンディグの『疫神記』などがある。本作はそうした流れの最先端にある作品だと言えるだろう。
最後に作者について。セコイア・ナガマツは一九八二年アメリカ合衆国のカリフォルニア生まれ。ハワイとサンフランシスコで育ち、シリコンバレーのハイスクールを卒業後、グリネル大学で人類学の学士号を取得し、南イリノイ大学ではクリエイティヴ・ライティング・コースでMFA(芸術修士)も取得した。現在は創作のかたわら聖オラフ大学の英語科准教授としてクリエイティブ・ライティング・コースを担当し、ミネアポリスで妻と猫と犬とaiboとともに暮らしている。単行本は本書の他に二〇一六年に刊行されたWhere We Go When All We Were Is Goneがある。ゴジラやろくろ首、桃太郎などが出てくる日本のポップ・カルチャーと民間伝承を巧みに織り交ぜた作品集で、本作同様、家族の崩壊が全編を通して大きなテーマになっている。本作にも登場する新潟に二年ほど住んでいたことがあり、日本が舞台の作品の多くはその時の経験も反映されていると思われる。本作は二冊目の単行本で、初の長編小説。とあるインタビューではイタロ・カルヴィーノとジョゼ・サラマーゴの影響があると語っている。SFファンのみならず、海外文学の愛読者にぜひ読んでいただきたい作品だ。
■ 渡邊 利道(わたなべ・としみち)
1969年生まれ。作家・評論家。2011年、「独身者たちの宴 上田早夕里『華竜の宮』論」で第7回日本SF評論賞優秀賞を受賞。2012年、「エヌ氏」(『ミステリーズ!』vol.90掲載)で第3回創元SF短編賞飛浩隆賞を受賞。