まえがき
二〇一八年から名古屋のカルチャーセンターで「アガサ・クリスティを読む」という講座を受け持っています。毎月一冊、クリスティの作品から課題図書を決めて読んできてもらい、執筆の背景やミステリの構造、伏線がどのように張られているか、読みどころなどを解説する講座です。
最初はどれほど受講生が集まるものかまったく読めなかったのですが、思いがけず多くの申し込みがあり、コロナ禍(か)での半年の休講を挟んでまもなく七年目を迎えます。
私の人気もまんざらではない、とうっかり自惚(うぬぼ)れかけましたが、人気なのは私ではなくクリスティでした。そりゃそうだ。テーマがクリスティだったからこそ申込者が多かった。クリスティならお寺の境内(けいだい)にいる鳩(はと)が講師でもやはりたくさん集まったでしょう。いや、それは別の理由でめっちゃ集客するか。
受講生の中には、昔からクリスティが大好きでほとんど読んでいるという人もいる一方で、知っているのは有名作のタイトルくらいという人もいます。そんな人でも『オリエント急行の殺人』と『アクロイド殺害事件』の犯人は知っていたという事実には涙を禁じ得ません。ねえ、このふたつならもうネタバレしてもいいと思ってない?
他に、ケネス・ブラナーの映画や三谷幸喜の翻案ドラマで初めて内容に触れたという人もいます。ジョン・ディクスン・カーやエラリー・クイーンが好きで、同じ本格ミステリ黄金期のクリスティにも興味があったという人もいれば、クリスティとマープルのどっちが作家でどっちが探偵だったっけ?という人もいました(さすがに今は分かっていると思いたい)。
いったいなぜ、クリスティの作品はこうもたくさんの人々を魅了するのでしょう?
アガサ・クリスティ。一八九〇年に、アガサ・メアリ・クラリッサ・ミラーとしてイギリスのデヴォン州で誕生。幼少期は学校には行かず、家庭で教育を受けました。小さな頃から読書に親しみ、十二歳の頃には自分で小説を書くようになります。
一九一四年にアーチボルド・クリスティと結婚。戦争中に薬局で勤労奉仕をしたのをきっかけに書いた、毒薬を使ったミステリ『スタイルズ荘の怪事件』で作家としてデビューしました。
一九二六年に刊行した『アクロイド殺害事件』で一躍人気作家の仲間入りを果たしますが、この年は母の死やアーチボルドからの離婚の申し出など辛い出来事が続き、失踪事件を起こすまでになります。そんな彼女を立ち直らせたのは娘の存在と、中東での考古学という新たな趣味、そしてそこで出会った考古学者マックス・マローワンとの再婚でした。
以降、一九七六年に亡くなるまで、ミステリ界のトップランナーであり続けたのです。
メアリ・ウェストマコット名義で書いた恋愛小説も入れれば七十二作の長編、中短編は百五十九作(死後に発見されたものや同じ内容でタイトルを変えたものもあり、正確ではありません)、その他に戯曲、旅行記、自伝などが刊行されています。彼女の作品は世界中で翻訳され、〈聖書とシェイクスピアに次いで読まれる作家〉という偉大な称号を得るに至りました。
五十年から百年も前の小説が今でも読み継がれ、翻訳も時代ごとにアップデートされ、新たな映画やドラマが作られるというのはすごいことです。
もう一度書きます。
いったいなぜ、クリスティの作品はこうもたくさんの人々を魅了するのでしょう?
その理由は、クリスティが生きた時代の息吹が十全に含まれているにもかかわらず、ミステリとしてはまったく古びないという点にあります。どういうことか。それを本書でお伝えします。予備知識がなくても楽しめる入門書を目指しましたが、マニアの方にも喜んでもらえるような工夫も加えたつもりです。境内の鳩よりはわかりやすく解説できていると思います。思いたい。
なお、本書は東京創元社の本ですので、創元推理文庫のタイトルや表記、引用を使いますが、同文庫でクリスティの全作が網羅されているわけではありません。創元推理文庫で未刊の作品は、早川書房のクリスティー文庫のタイトルや表記を使っています。いやもう、これがややこしい! ポワロ(創元)だったりポアロ(早川)だったり、クリスティ(創元)だったりクリスティー(早川)だったり、作品のタイトルや短編集の収録作が異なったり。読む方もややこしいでしょうけど、書いてる方はもっとややこしかったので、それを乗り越えた根性に免じてご容赦ください。私の作った著作リストを逐一チェックした編集者Sさんは、ほぼゾンビになってました。ありがとう。生きて。
でもまあ、そういう別の出版社の同じ作品を読み比べるのも楽しいものですよ。なんせクリスティー文庫と創元推理文庫で結末の違う小説もあるんですから!(それが何かは本文でどうぞ)
二〇二三年十二月 大須観音の鳩に追いかけられた日に
大矢博子
二〇一八年から名古屋のカルチャーセンターで「アガサ・クリスティを読む」という講座を受け持っています。毎月一冊、クリスティの作品から課題図書を決めて読んできてもらい、執筆の背景やミステリの構造、伏線がどのように張られているか、読みどころなどを解説する講座です。
最初はどれほど受講生が集まるものかまったく読めなかったのですが、思いがけず多くの申し込みがあり、コロナ禍(か)での半年の休講を挟んでまもなく七年目を迎えます。
私の人気もまんざらではない、とうっかり自惚(うぬぼ)れかけましたが、人気なのは私ではなくクリスティでした。そりゃそうだ。テーマがクリスティだったからこそ申込者が多かった。クリスティならお寺の境内(けいだい)にいる鳩(はと)が講師でもやはりたくさん集まったでしょう。いや、それは別の理由でめっちゃ集客するか。
受講生の中には、昔からクリスティが大好きでほとんど読んでいるという人もいる一方で、知っているのは有名作のタイトルくらいという人もいます。そんな人でも『オリエント急行の殺人』と『アクロイド殺害事件』の犯人は知っていたという事実には涙を禁じ得ません。ねえ、このふたつならもうネタバレしてもいいと思ってない?
他に、ケネス・ブラナーの映画や三谷幸喜の翻案ドラマで初めて内容に触れたという人もいます。ジョン・ディクスン・カーやエラリー・クイーンが好きで、同じ本格ミステリ黄金期のクリスティにも興味があったという人もいれば、クリスティとマープルのどっちが作家でどっちが探偵だったっけ?という人もいました(さすがに今は分かっていると思いたい)。
いったいなぜ、クリスティの作品はこうもたくさんの人々を魅了するのでしょう?
アガサ・クリスティ。一八九〇年に、アガサ・メアリ・クラリッサ・ミラーとしてイギリスのデヴォン州で誕生。幼少期は学校には行かず、家庭で教育を受けました。小さな頃から読書に親しみ、十二歳の頃には自分で小説を書くようになります。
一九一四年にアーチボルド・クリスティと結婚。戦争中に薬局で勤労奉仕をしたのをきっかけに書いた、毒薬を使ったミステリ『スタイルズ荘の怪事件』で作家としてデビューしました。
一九二六年に刊行した『アクロイド殺害事件』で一躍人気作家の仲間入りを果たしますが、この年は母の死やアーチボルドからの離婚の申し出など辛い出来事が続き、失踪事件を起こすまでになります。そんな彼女を立ち直らせたのは娘の存在と、中東での考古学という新たな趣味、そしてそこで出会った考古学者マックス・マローワンとの再婚でした。
以降、一九七六年に亡くなるまで、ミステリ界のトップランナーであり続けたのです。
メアリ・ウェストマコット名義で書いた恋愛小説も入れれば七十二作の長編、中短編は百五十九作(死後に発見されたものや同じ内容でタイトルを変えたものもあり、正確ではありません)、その他に戯曲、旅行記、自伝などが刊行されています。彼女の作品は世界中で翻訳され、〈聖書とシェイクスピアに次いで読まれる作家〉という偉大な称号を得るに至りました。
五十年から百年も前の小説が今でも読み継がれ、翻訳も時代ごとにアップデートされ、新たな映画やドラマが作られるというのはすごいことです。
もう一度書きます。
いったいなぜ、クリスティの作品はこうもたくさんの人々を魅了するのでしょう?
その理由は、クリスティが生きた時代の息吹が十全に含まれているにもかかわらず、ミステリとしてはまったく古びないという点にあります。どういうことか。それを本書でお伝えします。予備知識がなくても楽しめる入門書を目指しましたが、マニアの方にも喜んでもらえるような工夫も加えたつもりです。境内の鳩よりはわかりやすく解説できていると思います。思いたい。
なお、本書は東京創元社の本ですので、創元推理文庫のタイトルや表記、引用を使いますが、同文庫でクリスティの全作が網羅されているわけではありません。創元推理文庫で未刊の作品は、早川書房のクリスティー文庫のタイトルや表記を使っています。いやもう、これがややこしい! ポワロ(創元)だったりポアロ(早川)だったり、クリスティ(創元)だったりクリスティー(早川)だったり、作品のタイトルや短編集の収録作が異なったり。読む方もややこしいでしょうけど、書いてる方はもっとややこしかったので、それを乗り越えた根性に免じてご容赦ください。私の作った著作リストを逐一チェックした編集者Sさんは、ほぼゾンビになってました。ありがとう。生きて。
でもまあ、そういう別の出版社の同じ作品を読み比べるのも楽しいものですよ。なんせクリスティー文庫と創元推理文庫で結末の違う小説もあるんですから!(それが何かは本文でどうぞ)
二〇二三年十二月 大須観音の鳩に追いかけられた日に
この記事は1月29日発売の大矢博子『クリスティを読む! ミステリの女王の名作入門講座』著者まえがきの全文を転載したものです。(編集部)
■大矢博子(おおや・ひろこ)
1964年大分県生まれ。書評家・文芸評論家。ミステリや時代小説などエンターテインメント小説をメインにした新聞・雑誌への書評寄稿のほか、多数の文庫解説を執筆。ブックナビゲーターとして中京圏のラジオ出演やイベント司会などでも活躍中。翻訳ミステリー名古屋読書会主宰。2018年から栄中日文化センターにて講座「アガサ・クリスティを読む
ミステリーの女王 その世界と魅力」を担当し、人気を博す。著書に『読み出したら止まらない! 女子ミステリーマストリード100』『歴史・時代小説
縦横無尽の読みくらべガイド』などがある。