「翻訳のはなし」第7回
「グランジェ翻訳裏話――謎の翻訳家・高岡真」平岡敦
これまで手掛けた作家のなかでもとりわけ思い出深いのが、ジャン=クリストフ・グランジェだ。
もう二十年以上前、最初に訳した『クリムゾン・リバー』(創元推理文庫)で、初めてベストセラーなるものを経験した。フレンチ・アルプス山間(やまあい)の大学町で起きた奇怪な殺人と、そこから三百キロも離れた小村で起きた謎の墓荒らし。一見、無関係な二つの事件がやがてひとつに結びつき、その裏に隠された恐ろしい陰謀が少しずつ明らかになる展開は、ぞくぞくするような面白さだった。それを追うベテラン警視と若い警部コンビのキャラも立っていて、バディものとしてもよくできていた(当時はまだ、そんな呼び方はしていなかったと思うが)。
マチュー・カソヴィッツ監督がジャン・レノ、ヴァンサン・カッセルというフランスの二大スターを配して作った同名映画の公開もあいまって、これが驚くほどよく売れた。発売日前に重版が決まったなんて、あとにも先にもこの本だけだ。「書店からの注文がすごくて」と電話口から聞こえた担当編集者Iさんの声は、今でもよくおぼえている。その後も順調に版を重ね、二〇一八年には新たに吉野仁(よしの・じん)さんの解説を付した新版も出してもらった。
ところでこの作品、東京創元社からリーディングを依頼されてレジュメを提出したあと、某H書房からも読んでみないかと声がかかって、これにはちょっと困った。エージェントがおすすめ作品として、あちこちに売り込んでいたのだろう。どうしたものかと思案したものの、他社ですでにリーディングをしたのでと打ち明けるほかなかった。H書房の編集者氏はフランス語ができる人だったので、それなら自分で読んでみますと言っていたが、最終的にオファーをしたのかどうかまでは確かめていない。けれどもしあのとき、H書房が出すことになっていたら、わたしのところに翻訳がまわってこなかったかもしれないし、引き続きグランジェ作品を訳すことにはならなかったかもしれない。ちょっとしたタイミングで、ひとの運命は変わってしまうものだと(というのも大袈裟(おおげさ)だけれど)つくづく思う。
創元推理文庫からは続いて『コウノトリの道』、『狼の帝国』と、グランジェの作品が二作出された。『狼の帝国』の訳者は高岡真(たかおか・しん)となっているが、これはいったい何者だろうと疑問に思っている方もおられるのではないだろうか。奥付の訳者紹介には「フランス文学翻訳家、フランス・ミステリ研究家」としか書かれていないし、訳書はあとにも先にもこの一冊きり、ネットで検索してもどこにも情報が出てこないという、まったく謎だらけの翻訳者なのだ。そこでここに高岡真の正体を、特別に公開しよう。などともったいをつけるほどのことではないが、実はこの本、フランス語翻訳家の高橋啓(たかはし・けい)さん、藤田真利子(ふじた・まりこ)さん、そしてわたし平岡敦の三人による共訳なのです。三人の名前から一字ずつをとって高岡真。タネを明かせば、なーんだっていう話だろう。
そもそもの発端は、わたしの翻訳が遅れたことにある。フランスで原書が出版されてほどなく東京創元社が版権を取得し、翻訳を引き受けたところまでは順調だったが、ちょうどほかの仕事も立て込んでいた時期で、すぐに取りかかることができなかった。またしてもジャン・レノ主演で映画化されたのは知っていたものの、日本で公開されるにはまだ間があるだろうと高をくくっていた。そんなこんなでようやく五分の一くらいを訳し終えたころ、急に映画公開が決まったというニュースが飛びこんできた。しかも公開日まで、あと三か月と少しのときに。これでは、どうがんばっても間に合わない。配給会社の話によると、正月映画として予定していた別の作品の都合がつかなくなり、急遽(きゅうきょ)ピンチヒッターとして白羽の矢が立ったらしい。
そこで高橋、藤田両氏に助力を乞うこととあいなったが、さすがベテランのお二人だけあって、長編小説を途中から、しかも短期で訳すという無理難題に見事応えてくださった。おかげで『狼の帝国』は映画『エンパイア・オブ・ザ・ウルフ』公開とほぼ同時に、書店に並べることができた。
もしや百年後にでも、《日本におけるフランス・ミステリ翻訳史》をものしようという奇特(きとく)な方があらわれたとき、《高岡真》とは誰ぞやと頭を悩ませないでもすむように、ここにこうして告白した次第である。
■平岡敦(ひらおか・あつし)
1955年生まれ。早稲田大学文学部卒業。中央大学大学院修了。現在中央大学講師。訳書にJ=C・グランジェ『クリムゾン・リバー』、F・カサック『殺人交叉点』、G・ルルー『オペラ座の怪人』(日仏翻訳文学賞受賞)ほか多数。