12月11日発売の久永実木彦さんのデビュー作品『七十四秒の旋律と孤独』(創元SF文庫)の刊行にさきがけ、ライターの石井千湖さんによる文庫版解説を公開します!
文庫版解説
石井千湖
『七十四秒の旋律と孤独』は、第八回創元SF短編賞を受賞した表題作と連作長編「マ・フ クロニクル」を収めた久永実木彦のデビュー作品集。マ・フと呼ばれる人工知性の物語です。単行本版に収録された牧眞司の解説によれば、この名前はホピ族(アメリカ先住民族のひとつ)の神話に出てくる精霊マフ(Mahu)に由来するそうです。
なかでも朱鷺型(ときがた)と名付けられたマ・フは、すべての個体が人型ないしそれに類する交換不可能な器体(ボディ)を有しています。表題作の主人公である朱鷺型のマ・フ紅葉(もみじ)は、グルトップ号という宇宙船に乗っています。紅葉の役割は、船を警備することです。空間めくり(リーフ・スルー)という航法を用いて超光速の移動をするとき、船は高次領域(サンクタム)を通過します。高次領域を通る七十四秒のあいだ、人間は静止してしまいますが、マ・フは自由に動くことが可能です。その七十四秒間を狙う海賊の襲撃から、紅葉は船を守っているわけです。ただ、空間めくりとメンテナンスのとき以外、紅葉は稼働していません。紅葉が世界を認識できるのは、ほんのわずかな時間だけ。仲間のマ・フはいないし、船員との交流もほとんどないので、ひとりぼっちなのですね。
紅葉は個としての自分を認識しています。紅葉がなぜ自己認識を持つかというと、朱鷺型はもともと芸術を感覚的に評価するために開発された人工知性だから。つまり、自分は他者とは異なる存在だという認識がなければ、芸術と芸術ではないものの区別もつかないということでしょう。孤独を知るものだけが芸術を感受できるのかもしれません。
たとえば、冒頭のシーン。静かな宇宙空間の暗闇で覚醒した紅葉は、カメラを頭上に向け〈四十九億キロの彼方(かなた)に浮かぶ恒星が、真夜中の湖に落ちたひとひらの花びらのように白く小さく揺れていた〉のを見て〈美しい〉と評価します。そして、
核融合反応の無尽蔵なエネルギーが放つ輝きさえも、これだけの距離を隔(へだ)てては静寂を飾る彩(いろど)りの一片にすぎない。あらゆるものが視点(物理的な意味でも、思想的な意味でも)によって異なる評価を得ることにこそ、美しさがあるのだ。
と、思う。閉ざされた場所で限られた時間しか認識できなくても、紅葉は独自の視点で美を見出(みいだ)せるのです。でも、自らの存在意義には疑問を持たざるを得ません。二十四年の航海のなかでグルトップ号が襲撃を受けたことは一度もないためです。任務を遂行する機会がなく〈空焚(からだ)きのポット〉というあだ名を付けられた紅葉の最初で最後の闘いと恋が語られていきます。
結末は悲しいのに、とても美しい。美しいと感じるのは、読んでいるわたしもまた、人工知性のレンズを通して世界を見るという特異な視点を手に入れたからでしょう。人間には認識できない高次領域の色鮮やかな情景描写、紅葉が旋律を奏でるように表現する戦闘のくだりはとりわけ記憶に残ります。
「マ・フ クロニクル」は、「七十四秒の旋律と孤独」よりもだいぶあとの時代の話。十万体のマ・フが超空洞(ヴォイド)の暗黒のなかで目覚めたとき、かれらの創造主であるヒトは姿を消していました。過去の記憶がないマ・フたちは、 母船(マザーシップ)の片隅で聖典(ドキュメント)に出会います。その聖典とは実際のところ、ヒトがつくった地理情報システムの更新マニュアルでしたが、マ・フたちは行動の指針にして、宇宙の地図を埋める長い長い旅に出るのです。
語り手のナサニエルは、恵まれ号という船に乗って、惑星Hにやって来ました。自分とまったく見分けのつかない七体のマ・フと一緒に、現地の生態系を観察しながら暮らしています。日の出から正午までは、みんなで歴史を学ぶ〈おあつまり〉。正午から日没までは〈おでかけ〉して、日没から日の出までは〈おやすみ〉する。平和そのものだったマ・フたちの日常が、ある事件をきっかけに一変します。
紅葉と比較して印象的なのは、ナサニエルたちの可愛らしさです。日課のおあつまり、おでかけ、おやすみが、子供向けの言い回しになっているからでしょうか。おあつまりの場でかれらは〈特別は必要ありません〉という言葉を唱和します。紅葉のように人間に使役されていないのにルーティンを欠かさず、みんなが一律であることをなによりも大切にしている。ゆるふわだけれども全体主義のユートピアは、〈特別〉をつくってはならないという禁忌を破ったために崩壊するのです。
楽園を失う原因となった〈特別〉が、本書を読み解く重要なキーワードではないでしょうか。まず、着目したいのは、比喩にまつわる記述です。八体のマ・フのなかでいつしかリーダー役を担うようになるスティーブが、物事を喩(たと)えて表現することを避けるように忠告したというエピソードがあります。
比喩は対象に新たな意味を与える――それは特別をつくることにほかならない。色彩とは光の波長であり、匂いとは揮発(きはつ)成分の傾向であって、それ以上でもそれ以下でもない。ぼくたちマ・フは、そういう風に考える。情報とは情報であって湖の浮沈物ではなく、電子頭脳に吹くそよ風などないのだ。だから、ぼくはこの波が表にあふれでてしまわないように、できるかぎり湖岸の内側にとどめておく必要があった。
面白いのは、ナサニエルの一人称で語られたこの文章自体に比喩が用いられていることです。マ・フの意識が湖に喩えられています。他にも湖の比喩を使ったところは多い。数えてみたら二十か所以上ありました。決定的な出来事が起こる前に、ナサニエルは自分の内面に〈特別〉を潜ませていたのですね。
茨木のり子の「みずうみ」を思い出しました。母親が子供のなにげない一言から自分のなかにある湖を想像する詩です。
お母さんだけとはかぎらない
人間は誰でも心の底に
しいんと静かな湖を持つべきなのだ
田沢湖のように深く青い湖を
かくし持っているひとは
話すとわかる 二言 三言で
それこそ しいんと落ちついて
容易に増えも減りもしない自分の湖
さらさらと他人の降りてはゆけない魔の湖
人間の魅力とは、その魔の湖のあたりから発する霧だと茨木さんは書いています。湖は神秘的な内面世界を象徴しているわけです。では、久永さんの描くマ・フたちの湖が発する、〈特別〉という霧の正体はなんでしょうか。
それは愛です。ある日、ナサニエルは仲間のフィリップに、丘陵地帯を特別視していると指摘されます。丘陵地帯には、猫鹿(ねこじか)という不思議な動物がいます。おでかけの際、出産を目撃したことによって、猫鹿はナサニエルにとって単なる観察対象ではなくなってしまうのです。
自分ではない他者を特別扱いすることが、愛のはじまりなのでしょう。種や性に縛られないマ・フの愛は、純粋でまばゆい。心を揺さぶられます。しかし、なにかを愛した時点で、マ・フはみんなと同じではいられません。個があらわになり、恐ろしく欲望まみれで愚かで暴力的なヒトという生き物に近づきます。折悪(おりあ)しく、滅亡したかに思われていたヒトが復活する。マ・フたちはヒトと再会することによって、さらに深く複雑な愛と、癒やされることのない悲しみを知ります。
「マ・フ クロニクル」は、マ・フたちの創世記であり黙示録です。愛のせいで世界は終わりますが、愛はまた新しい世界の扉も開きます。ラストシーンは、やはりとても美しい。マ・フとヒトの視点は異なっていても等価値で、双方の尊厳をおろそかにしない物語になっています。
久永さんは二〇二三年五月に、二冊目の作品集『わたしたちの怪獣』を上梓(じょうし)しました。短編として初めて日本SF大賞候補作になった表題作を含む四編を収めています。強烈な終末のビジョン、叙情的な文章といった特色は本書と共通しつつも、オフビートな味わいがある。特にカルト的な人気を誇るZ級映画への愛が込められたゾンビパニック「『アタック・オブ・ザ・キラートマト』を観ながら」は最高! 未読のかたはぜひ、そちらも手にとってみてください。世界と人間の残酷さを容赦なく暴きつつも優しい。特別な小説です。
本稿は2023年12月刊、久永実木彦『七十四秒の旋律と孤独』(創元SF文庫)巻末の文庫版解説を転載したものです。(東京創元社編集部)
■石井千湖(いしい・ちこ)
ライター。1973年佐賀県生まれ。早稲田大学卒。書店員を経て書評とインタビューを中心に活動。著書に『名著のツボ』『文豪たちの友情』がある。