『シェフ』ゴーティエ・バティステッラ/田中裕子 訳

 行きつ戻りつを繰り返しているとはいえ、着実に秋は深まっている……います……いますよね。
 秋と言えば食欲、そして読書(この順でいいのだろうか?)、そんな秋に東京創元社が贈る美食にまつわる人間ドラマです。そして美食小説です。

 フランスの元ミシュラン編集部員だった著者が描いた、ある三つ星シェフの生と死の物語です。
 本書はカゼス文学賞――これは、ドゥ・マゴ文学賞に対抗して、やはりサン=ジェルマン・デ・プレにある、アーネスト・ヘミングウェイ、アンドレ・ジッド、アラン・ドロン、ロミー・シュナイダーらが通った《ブラッスリー・リップ》が創設した文学賞、と、海辺の文学賞――これはサーブル・ドロンヌ市(大西洋に面した町)と「フィガロ・マガジン」が主催する文学賞の二つを受賞しました。。
《ブラッスリー・リップ》はこんなお店です。パリ観光にいけば、立ち寄る確率の高いお店です。

 

 三つ星シェフ、ポール・ルノワールが世界最優秀シェフの称号まで得て、栄光の頂点にあったのに、ネットフリックスの番組製作のための取材期間中に、猟銃自殺を遂げたのです。
 いったいなぜ? 
 三つ星シェフの猟銃自殺というと、2003年のベルナール・ロワゾーの自殺、2016年のブノワ・ヴィオリエの自殺を思い浮かべられる方が多いと思います。星を失うのではないか、という重圧はそれほど大きいものらしいという報道も多く見られました。
 本書のポール・ルノワールの場合はどうだったのでしょう。

 幼い日に料理上手の祖母が始めたレストランでの経験、祖母の腕(味)を認めた、女性で初めて星を取ったシェフとの出会い、祖母に連れられていったパリの、鴨料理で有名なあの《トゥール・ダルジャン》での経験……。
 余談ですが、トゥール・ダルジャン Tour d'Argent とは銀の塔の意。そういえば、歌舞伎座の近くにビーフシチューの店、《銀之塔ひらい》というお店があるけれど、ここから取ったのですね。最近は《銀之塔》としかいわないのかもしれません。



 ポール・ボキューズの店での修業、兵役期間中にヘリ空母の厨房で料理を担当、パリの《ムーランルージュ》での仕事。パリの下町でのビストロ開店、結婚、離婚、田舎の店、星の獲得……。
 様々な出来事が、ネットフリックスの取材に答える店のスタッフたちの証言を挟みながら語られていきます。スタッフの中には日本人のパティシエールも登場します。
 とにかく、三つ星シェフの生涯なのですから、涎(よだれ)の垂れそうな料理の数々。お腹は鳴りつづけです。
 そしてうっとりとしながら読み進めていると、衝撃の事実が……。
 ひとには、秘密が……。

 美食、策謀、嫉妬……そして愛と孤独。
 フランス美食業界の光と影を見事に描ききった傑作小説を、深まる秋の夜長に是非お読みください。

 訳者の田中さんは、フランス料理店を切り盛りしていらっしゃる方です。これほど適役の訳者もいらっしゃいません。『グランミシュラン~ミシュラン調査員のことば~』フィリップ・トワナール編(アンドエト刊)という大部の本の翻訳もしていらっしゃいます。
 どうぞ美食の世界へ、複雑な人間ドラマの世界へ!

シェフの後ろ姿の素敵なカバー画は上杉忠弘さん、装丁は岡本洋平さん(岡本デザイン室)によるものです。