「翻訳のはなし」第6回
「声が大事なんです」市田泉
一年中、くる日もくる日も自室で仕事をしている。たまには気分を変えて図書館まで散歩し、学習室で訳文の推敲(すいこう)をしよう、などとはけっして思わない。公共の場で推敲などしたら周りに迷惑をかけてしまう――推敲をしていると、つい音読したくなるからだ。
訳文を音読しながらチェックする作業は、翻訳学習者だったころ、文のリズムを整えるのに有効な気がして始めた。それがいつしか推敲時に欠かせない習慣と化して、いま現在まで続いている。
訳しては音読し、手を入れては音読していると、気になってくるのは、登場人物がどんな声かということだ。ときには登場人物に限らず、地の文にふさわしいナレーションまでどんな声かと考えてしまう。そして想像を膨らませる。
幼少のころよりアニメ好きなので、頭の中には、さまざまな声優さんの美声がインプットされている。そんな脳内データバンクを検索して、あの方の声がぴったりだわ、とキャスティングできたときはかなりうれしい。うまくキャスティングできないときも、愛らしいが幼すぎない声とか、理知的で鼻にかかった声とか、主要人物の声は作業を進めるうちにだいたいイメージができあがっていく。
声をいとぐちに、キャラクターの輪郭を(ナレーションなら物語の空気を)可能な限りくっきりさせようとしているのだ。声を明確に想像すればするほど、人物の性格や佇(たたず)まいが頭の中で固まってくるように思える。
そういえば、これはごくまれにしか起こらないのだが、わたしがキャスティングするまでもなく、キャラクターがひとりでに特定の声優さんの声でしゃべり始めることがある。
初めてそれを経験したのは、まだ駆け出しのころ、ジョナサン・キャロルの『木でできた海』を訳したときで、アストペルなる謎めいた人物の台詞(せりふ)がいつのまにか滝口順平(たきぐち・じゅんぺい)さん(『ヤッターマン』のドクロベエ様役が懐かしい!)の声で脳内に響いていた。めんくらったが楽しかった。
何年か前にケン・リュウの「訴訟師と猿の王」を訳したときは、主人公の訴訟師、田皓里(テイエン・ハオリ)の言葉が中尾隆聖(なかお・りゅうせい)さんの声で聞こえてきた。中学生のころから大好きな声優さんなので、たいそう胸がときめいた。あれは涙なくしては読めない作品で、大泣きしながら訳し、ゲラを直したものだが、声に関する限りは幸せであった。
こんなふうに自然と声が決定する登場人物は、輪郭のくっきり具合も際立っていて、目の前に姿が立ち上がらんばかりである。とはいえこれは自力で起こせる現象ではなく、天から降ってくるのを待つしかない。次はいつ起こるかと楽しみにしている。
さて、そんなこんなでキャラクターがどんな声かは決定した。
決定したからには……推敲時の音読においては声色(こわいろ)を使わねばならない。
妖艶(ようえん)な美女から渋いおじさんまで、イメージする声を真似て訳文を読み上げつつ、その声にぴったりの言い回しを模索し、調子を整えていく。読み方は拙(つたな)いし美声でもないし、仮にだれかが耳にしたとしたら、なんだこれは、と当惑すること請(う)け合いだが、だれも聞いていないからよいのである。
そんなわたしの推敲作業に先ごろ大ピンチが訪れた。
コロナ禍により、娘がリモート授業を受け始めたのだ。
これ以上コンパクトにするのは難しいほど小さなわが家、隣室には授業を受けている娘。声が出せない! でも音読したい。ぼそぼそ読むんじゃなくて、はっきり声色を使い分けて読みたい!
苦悩しながら無言で推敲し、ふと気がつくと、引き結んだ口を訳文に合わせてもごもごと激しく動かしている自分がいた。これもまた、見ている人がいたら、さぞかし奇妙な光景だったに違いない。
ともあれ、そんなエア発声で対処するうちに二年が過ぎ、この春、娘は就職して、職場に近いアパートに引っ越していった。おかげでいまはまた、気がねなく声に出して推敲する毎日である。ちなみにいま訳している姉妹ものの語り手の声は、某声優さんの某アニメでの演技をイメージしており、音読も精一杯それを意識している。
わたしが頭に浮かべている声が、そのまま読者に伝わってくれたら、というのはかなり無理のある願いだとは思う。それでも、こんなふうにして仕上げた訳文を読んだ人が、なんとなくキャラクターの声が聞こえてくるようだ、と思ってくださったら、こんなにうれしいことはない。
■市田泉(いちだ・いづみ)
1966年生まれ。お茶の水女子大学文教育学部卒。英米文学翻訳家。訳書にジョーンズ『銀のらせんをたどれば』『チャーメインと魔法の家』、ジャクスン『ずっとお城で暮らしてる』『なんでもない一日』『処刑人』、ジョイス『人生の真実』、サマター『図書館島』『図書館島異聞 翼ある歴史』、ハンド『過ぎにし夏、マーズ・ヒルで エリザベス・ハンド傑作選』、モーゲンスターン『地下図書館の海』、ジョンソン『九月と七月の姉妹』他多数。