アメリカ探偵作家クラブ賞を二度(最優秀処女長篇賞と最優秀長篇賞)受賞した作家、ロス・トーマスの、十四年ぶりの翻訳である。『愚者(ぐしゃ)の街』(松本剛史訳 新潮文庫 上七一〇円+税/下七五〇円+税)だ。一九七〇年に書かれた小説なので、半世紀以上の時を経(へ)て日本語になったわけだが、いやはやどうして、物語の躍動(やくどう)感は新鮮そのもの。騙(だま)し騙され殺し殺されのスリルをたっぷりと味わうことが出来る。
香港(ホンコン)で十年もの長きにわたって秘密諜報(ちょうほう)員として活動したルシファー・C・ダイ。彼は、異国の監獄での三ヶ月の拘束からの解放後、サンフランシスコに移動させられ、そして若手実業家とその仲間から奇妙な依頼を受ける。メキシコ湾近くのスワンカートンという街を〝腐らせてほしい〞というのだ。タイムリミットは二ヶ月。報酬は五万ドル。ダイは依頼人を訝(いぶか)しみつつも、現地入りする……。
全体としては街を腐らせるという依頼の遂行を軸(じく)とする本作だが、上巻の大半はダイという主人公を克明に描くことに費(つい)やされている。スワンカートンでの現在の描写と、その数ヶ月前の諜報活動の顚末(てんまつ)に織り込むかたちで、彼の幼少期からの半生(はんせい)が、丹念に綴(つづ)られているのだ。モンタナ州で一九三三年に生まれた際に母を失い、その後父とともに上海(シャンハイ)に渡った彼は、三七年の中国空軍による上海爆撃で父親の命を奪われる(父の腕だけを摑(つか)んだまま幼いダイが彷徨(さまよ)うシーンは印象深い)。
そして読者は、その後の娼館(しょうかん)での生活や太平洋戦争の影響などを通じて、モンタナで生まれた子供が、英語もろくに喋(しゃべ)れないまま、客から小金を掠(かす)め取るような才覚を身につけ、それに躊躇(ためら)いを感じない少年として育ったことを認識していくのである。そんなダイの過去の物語は、上巻の終わりでクライマックスを迎える。ここに至ってダイの内面が決定的に形作られたことを読者は知る。こうして読者のなかでしっかりと造形されたダイは、下巻において、様々な勢力のなかで、冷静かつ大胆非情に暴れ回る。そう、本作はなんとも巧(たく)みに構成された小説なのだ――が、読んでいる最中(さいちゅう)は、そんな面に感心するのではなく、ひたすらに個々のエピソードとその連(つら)なりに、さらには登場人物たちの個性とそのぶつかり合いに惹(ひ)きつけられている。ああ愉(たの)しい。そんな読書を味わえる小説なのだ。それぞれの欲と計算が噓と暴力のなかで火花を散らしている世界を、ダイという全くの異物がどう腐らせていくのか、是非(ぜひ)御一読戴(いただ)きたい。
ミシェル・ビュッシは『このミステリーがすごい!』でベストテン入りした『彼女のいない飛行機』『黒い睡蓮(すいれん)』などで、とにかく読者を〝騙す〞作家として知られる。その新作が、二〇二〇年に書かれた『恐るべき太陽』(平岡敦(あつし)訳 集英社文庫 一六五〇円+税)だ。
南太平洋の仏領ポリネシア。その百を超える島々の一つ、ゴーギャンが愛した島として知られるヒバオア島で事件は起きた。その島で人気作家のピエール=イヴ・フランソワ(PYF)が開催する〈創作アトリエ〉に五人の作家志望の女性たちが集まったのだが、PYFは失踪し、そして作家志望の女性は一人また一人と死体となっていく……。本書は、複数のテキストが重なって構成されている。幹(みき)となるのが、PYFが作家志望者たちに与えた二つの課題「《海に流すわたしの瓶(びん)》と題した小説にすべてを書け、書き終えたら海に流すつもりで」「死ぬまでにわたしがしたいのは……の続きを考えよ」のために書かれたテキストであり、そこに作家志望者が連れてきた娘マイマの日記が絡まり、その後、別の作家志望者が連れてきた夫ヤンの視点での描写が絡まる。そんな本書の帯には、読者を強烈に挑発する〝鬼才ビュッシが放つ、クリスティーへの挑戦作〞という惹句(じゃっく)が記されている。そう、本書では、幾重(いくえ)にも重なったテキストのなかで、『そして誰もいなくなった』型の事件が展開されるのだ。島に五人の作家志望の女性がいて、パリの出版社が彼女たちに宛(あ)てた〈創作アトリエ〉への招待状があり、そして島には五つの異なる才能を表現した彫像がある――クリスティーの十人に対して、こちらは五人であり、島が全くの孤島ではないという相違(そうい)はあるものの、島に集まった人々が一人ずつ死んでいくという大枠は共通している。帯でクリスティーを引き合いに出すのも自然だ。とはいえ、そこは曲者(くせもの)ビュッシのこと、仕掛けは全く異なる。最後に明かされる著者ならではの仕掛けは、シンプルであり、そして抜群(ばつぐん)に効果的だ。よくぞ騙してくれた、と嬉しくなる。また本書では、島で進行する現在の事件に、登場人物同士の騙し合いという要素が影を落とし、さらにはパリで過去に起きた連続殺人事件までもが忍び寄ってくる。複雑な味わいの物語としても堪能(たんのう)できるのだ。《恐るべき太陽》という名の宿を中心に展開される南洋の怪事件と大胆な仕掛けに満足の一冊だ。
■村上貴史(むらかみ・たかし)
書評家。1964年東京都生まれ。慶應義塾大学卒。文庫解説ほか、雑誌インタビューや書評などを担当。〈ミステリマガジン〉に作家インタヴュー「迷宮解体新書」を連載中。著書に『ミステリアス・ジャム・セッション 人気作家30人インタヴュー』、共著に『ミステリ・ベスト201』『日本ミステリー辞典』他。編著に『名探偵ベスト101』『刑事という生き方 警察小説アンソロジー』『葛藤する刑事たち 警察小説アンソロジー』がある。