『ダ・ヴィンチの翼』は十六世紀のイタリアを舞台に、治癒の力をもつ少年と故国をローマ教皇と神聖ローマ皇帝の軍から守ろうとするフィレンツェの密偵が、仲間と共に万能の天才ダ・ヴィンチが遺した手がかりを追って旅をする歴史ファンタジイです。細谷正充賞を受賞した前作『ヴェネツィアの陰の末裔』とは世界観は同じですが、独立した作品となっています。歴史好きにはたまらない、わくわくする物語、ぜひ本編もあわせてお読みください。
あとがき
ミケランジェロの密偵が故国フィレンツェを敵の侵攻から守るために、レオナルド・ダ・ヴィンチの残した兵器の設計図を探す——。そんな物語の中心となるアイデアが浮かんだのは、デビュー作となった前作『ヴェネツィアの陰の末裔』の刊行に向けて、改稿の作業をしているときでした。物語の舞台の一つであるフィレンツェについて調べていたとき、ふと目についた資料の一節がきっかけでした。
武力衝突の避けられない状況のなか、市民軍が召集され、市の要塞化が進められた。このときミケランジェロは軍事委員に任命され、要塞化工事の指揮にあたっている。
(『図説フィレンツェ:「花の都」二〇〇〇年の物語』中嶋浩郎著、中嶋しのぶ写真 河出書房新社)
教皇クレメンス七世と、神聖ローマ皇帝カール五世という当時のヨーロッパの二大勢力が手を組んで、フィレンツェに戦争を仕掛けてくる。そして、防衛戦のために奔走するミケランジェロ。そうした光景を脳裏に思い描いたとき、ミケランジェロとは犬猿の仲だった万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチの発明した兵器で強大な軍勢に対抗しようとする、という物語が浮かび上がってきたのです。
万能の天才がどのような兵器を構想し、その設計図をどこに隠したか、というアイデアも、レオナルド・ダ・ヴィンチの残した膨大な手記や、ジョルジョ・ヴァザーリといった同時代人の記録を読み込んでいく中で、ごく自然に、もうこれしかない、といった感じで浮かんできました。これは、本当に自分でも不思議な感覚でした。
もちろん、執筆がずっとそのように順調だったわけではありません。実は、当初の構想では『ヴェネツィアの陰の末裔』の純粋な続編とするつもりで、主人公も前作と同じベネデットとリザベッタという魔術師と護衛剣士のコンビにしていました。兵器の手がかりを求めてヴェネツィアに潜入したフィレンツェの密偵を捕まえて、そこから探索行が始まる、という筋書きです。
しかし、実際に書いてみると、これが、いまひとつしっくり来ません。そこで、書き上げた原稿を一度ボツにして、今度は本作にも登場する魔術師のヴィオレッタを主人公にして書き直してみたのですが、やはりしっくり来ません。結局、再び原稿をボツにして、三度目のバージョンでコルネーリオとフランチェスカという少年少女と、フィレンツェの密偵であるアルフォンソを登場させて、ようやくでき上がったのが本書です。
そのようにした理由は幾つかあるのですが、最も大きかったのは、魔力の持ち主には世界がどう見えるのか、ということを、きちんと描きたいという思いでした。主人公は魔力を持つ異能者である以上、普通の人とは感覚が違いますし、世界の見え方や感じ方も違うはずですが、前作ではそこまで丁寧に描くことができませんでした。そうした点では、すでに訓練を終えて諜報の世界にどっぷりと浸かってしまったヴェネツィアの魔術師よりも、成長途中の少年少女の視点から描いたほうが、世界の豊饒さや、その中における魔力を持つ自分と世界との関係を、瑞々しく読者に伝えることができるのではないかと考えたのが、大きな理由でした。そして、そのことは、コルネーリオたちが物語の中で下す決断にも大きく関わってきます。
とは言え、結果的に遠回りをしてしまったために、執筆には長い時間がかかりました。何度も書き直す中で、本当に自分が正しい目的地に向かって進んでいるのかどうか、なかなか確信が持てず、少し書き進んでは、考えて、修正する、ということの繰り返しで、本当に完成するのだろうかと、われながら心配になったことも、たびたびでした。
そうした中、支えになってくれたのは、前作をお読みくださった読者の方からいただいたお手紙でした。温かい励ましの言葉を読むたびに力が湧き、そのおかげで、何とか乗り切ることができました。
それから、もう一つ、前作で思いがけず細谷正充賞という栄誉ある賞をいただいたことも、励みになりました。細谷先生には、わたしのような無名の新人に目を留めてくださったことに感謝しつつ、ようやく二作目をお届けできることが、少しでも恩返しになればと思います。
この本を手に取っていただいた読者の皆様にも、この物語が、ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチといった偉大な巨人たちの生きたルネサンスの時代へと、しばし時を超えて思いを馳せるきっかけとなれば、作者として望外の喜びです。
二〇二三年夏 上田朔也
*本記事は2023年9月刊の『ダ・ヴィンチの翼』(創元推理文庫)著者あとがきの全文転載です。
■上田朔也(うえだ・さくや)
大阪府出身。京都大学文学部卒業。2020年『ヴェネツィアの陰の末裔』が第5回創元ファンタジイ新人賞佳作に選出される。