深緑野分 Nowaki FUKAMIDORI
魔女になりたい。魔法のかけ方はよく知らないけれど、たぶん毒草や毒キノコを鍋に入れ、ナイフで指を切って血を垂らし、それっぽい謎の言葉を言えばいいはずだ。そのへんの木に人形を釘で刺し、図書館で借りた占いの本を片手にタロットカードを並べる。しかし何も起きない。ふと振り返ると、曖昧な笑みを浮かべた親が背後に立っていて、私は耳まで赤くなりながらすべてを片付けるのだ。
こうした間抜けな魔女志願者は世界中にいて、社会に溶け込めずに孤独な思いをしている。しかし我々はある日、ついに運命的な本と出会う。魔女と称され、自らも魔女を自称した、大魔女シャーリイ・ジャクスンの作品との出会いだ。
本書『シャーリイ・ジャクスン・トリビュート 穏やかな死者たち』は、ある種の〝サバト〞、魔女集会とも言える。みな大魔女シャーリイ・ジャクスンを敬愛し――または我こそは次の魔女であると名乗りを上げるべく――集まってきた。
編者のエレン・ダトロウが作家たちに要請した条件は、序文にあるとおり、シャーリイ・ジャクスンの作品のエッセンスを取り入れ、彼女と同種の感受性を発揮し、恐怖を利用、理解し、働かせること、などだ。作家たちは腕をふるい、大魔女が遺したエッセンスを食材に、めいめいのレシピで物語を作った。エッセンスは濃厚なものも、ほんの少し香らせた程度のものもある。捧げられた十八の作品はいずれも素晴らしく創造的で、隠された悪意や怪異が奇妙で恐ろしい。改めてジャクスンの作風の幅広さと影響力を感じる。
ただ、読みながらふと思う。このトリビュート自体が魔術の儀式なのではないか、と。作家たちが抽出したシャーリイ・ジャクスンのエッセンスを辿っていくうちに、読者は彼らの考えた〝ジャクスンらしさ〞を目撃する。その〝らしさ〞を集めた先には、いったい何があるのだろうか?
ひょっとして――十八に分かれた体の一部を、ひとつのところに集めたら、その人物は復活するのではないか。しかし私たちは誰を呼ぼうとしているのか? すべてを読み終わって本を閉じると、部屋の暗がりに誰かが立っているかもしれない。そこにいるのは本物のシャーリイ・ジャクスンなのだろうか、それともよく似た別人の、招かれざる異形なのだろうか。
いずれにせよ、本書にはユニークな作品ばかりが集まっている。編者のエレン・ダトロウは名アンソロジーを数多く手がけた大ベテランだし、参加作家たちもまた、数多くのホラーや幻想小説の賞を受賞、あるいは候補になったなど実力派揃いだ。その結果、本書は二〇二二年にブラム・ストーカー賞アンソロジー部門を受賞し、加えて編者のエレン・ダトロウはシャーリイ・ジャクスン賞特別賞を受賞した。〝シャーリイ・ジャクスンらしさ〞とは何かという観点を併せつつ、紹介していこう。
〝らしさ〞その一は、〝家〞だ。
シャーリイ・ジャクスンはよく家を重要なモチーフに使う。幽霊屋敷に招かれた主人公がその家にどんどん魅了されていく恐怖小説『丘の屋敷』(渡辺庸子訳、創元推理文庫)が最も有名だが、『日時計』(渡辺庸子訳、文遊社)や『ずっとお城で暮らしてる』(市田泉訳、創元推理文庫)もまた、屋敷がなければ成立しない物語である。本書でも、エリザベス・ハンド「所有者直販物件」、ショーニン・マグワイア「深い森の中で――そこでは光が違う」、ポール・トレンブレイ「パーティー」、ケリー・リンク「スキンダーのヴェール」が、家を特徴的なモチーフとして使っている。特に「所有者直販物件」は家そのものに怪異があり、しかも恐怖があからさまではなく、絶妙にまとわりつく邪悪を感じるところが、ジャクスン作品と通底している。ここで一夜を過ごすのが老いつつある女友達三人組という設定もいい。
〝らしさ〞その二は、〝悪意ある人々〞。
こちらは〝家〞以上にシャーリイ・ジャクスンらしいモチーフだろう。様々な作品で描かれてきたが、特に「くじ」(『くじ』深町眞理子訳、ハヤカワ・ミステリ文庫所収)は〝普通の人々〞と〝悪意〞が濃密に凝縮された傑作で、一九四八年に〈ニューヨーカー〉誌に掲載されるや否や衝撃のあまり抗議が殺到したという。本書においては、カッサンドラ・コー「穏やかな死者たち」、ベンジャミン・パーシイ「鬼女」、ジョシュ・マラーマン「晩餐」などが、閉鎖的なコミュニティ内で生まれる悪意や奇妙な風習について描いている。とりわけ「晩餐」は出色の出来で、単純だが、知的好奇心を殺せない人間には残酷なルールを元に、世界の理不尽さと少女の抵抗を切れ味鋭く展開していく。
〝らしさ〞その三は、〝悪魔〞だ。
ジャクスンは〝魔女〞には愛情を示すが、〝悪魔〞には強く警戒している。その姿はいつも男性で、時に「ハリス氏」あるいは「ジム」「ジミー」などと名乗る。このことは短編集『くじ』の訳者による後書に詳しく、F・J・チャイルド『英蘇バラッド集』二四三番「魔性の恋人ジェームズ・ハリス」に由来するという。ジャクスンは女性の心理や行動を、良いものも悪いものも大変丁寧に描いていくが、男性に対してはどこか一線を引き、恐怖、理解不能、残酷で悪魔的な支配をする存在と捉えているところがあり、自身の夫へも猜疑心を持っていたと言われている。『くじ』の収録作の多くや、長編『処刑人』(市田泉訳、創元推理文庫)は、悪魔との対峙の物語だ。本書ではレアード・バロン「抜き足差し足」が非常に見事で、とても〝ジャクスンらしい〞悪魔が登場する。表面的には温かく物わかりが良く魅力的だが、本当の内面は恐ろしいほど冷たく、この世界の秘密をそっと耳打ちしてくる。他に、カレン・ヒューラー「冥銭」や、ジュヌヴィエーヴ・ヴァレンタイン「遅かれ早かれあなたの奥さんは……」も悪魔をめぐる話といえよう。リチャード・キャドリー「パリへの旅」に登場するジェイムソンは一見善人だが、主人公にとっては悪魔かもしれない。何しろ名前がジェイムソン(ジェイムズの息子)だし。
〝らしさ〞その四は、〝女同士の紐帯〞である。
ジャクスンはこれを重んじていたように思うが、しかしたいていの場合うまくいかない。傑作『ずっとお城で暮らしてる』で風変わりな少女メリキャットが守りたいものは姉のコンスタンスだが、どうも一方的だし、『処刑人』で魂の双子(サムワン)と信じた相手はそうでなかったし、『日時計』に登場する若夫人は娘に「おばあちゃんがそこらでころっと死んだらいいと思わない?」と切り出す始末。しかしそれでも、『なんでもない一日』(市田泉訳、創元推理文庫)所収「夏の日の午後」の幼い少女たちの会話がとても自然で懐かしいように、ジャクスン自身は「女の敵は女」という考え方ではなく、女同士の交流を好んで描写したように思える。もしジャクスンが一九六五年に没することなくもっと長生きしていたら、堂々とクィアな小説を書いていたかもしれない。その気配はトリビュート参加作家たちも共有しており、M・リッカート「弔いの鳥」ではこんな状況になってなお繫がるふたりを描き、カルメン・マリア・マチャード「百マイルと一マイル」やポール・トレンブレイ「パーティー」ははっきりとレズビアン、あるいはバイセクシャルである女性の視点で描かれる。マチャードは特に『彼女の体とその他の断片』(小澤英実・小澤身和子・岸本佐知子・松田青子訳、エトセトラブックス)でラムダ賞レズビアン文学部門を受賞するなど、クィアな作品を書いてきた。よりジャクスン的なのはベンジャミン・パーシィ「鬼女」とジェマ・ファイルズ「苦悩の梨」で、どちらも少女同士のサムワンを求めつつも関係は崩壊していく過程を描いている。また、ジョン・ランガン「生き物のようなもの」は、ジャクスンがいかにも「書きそう」な女系家族の物語だ。当たり前のように魔術を使う今風の魔女たちの姿を、もう少し見ていたい。
最後に、〝らしさ〞とは離れた作品についても触れたい。
ジョイス・キャロル・オーツは確かに〝魔女〞的な作家だが、方向性はジャクスンの対極に位置している。そのせいか今回の「ご自由にお持ちください」は、いっそジャクスンが「書かなそう」な物語である。
スティーヴン・グレアム・ジョーンズ「精錬所への道」は切ない青春奇談で、横溢する喪失感はジャクスンらしいが、どちらかというとスティーヴン・キングの方を強く彷彿とさせるのは、線路やノスタルジックなビデオテープ、SF要素のせいだろうか。
幻想小説の名手ジェフリー・フォード「柵の出入り口」は、まさか本当にあった話なのかと思わせるところが毎度おなじみで、とにかくユニークな作品である。しかしユニークではあるが、女性性や性自認、自分らしさを問うなど、かなり深いテーマを扱っている。
『プリティ・モンスターズ』(柴田元幸訳、早川書房)でも奇怪な話で魅了してくれたケリー・リンク「スキンダーのヴェール」は、掉尾を飾るにふさわしい楽しい一編だ。確かにジャクスン〝らしさ〞とは離れているのだが、なぜかジャクスンの気配を感じる。異形や見知らぬ人、ちょっと邪魔な人に対する不思議な共感や、気まずいながらも受け入れる姿勢が似通っているからだろうか。
大魔女シャーリイ・ジャクスンは小説に魔術をにじませ、はぐれ者を窮地に追いやろうとする厄介な人々を、恐怖によって追い詰めてくれた。しかしその裏側には、魔法や予兆や霊感に心を奪われながらも、社会になじもうともがき、居心地の悪さに気まずい笑みを浮かべ続けた、孤独な魔女志願者がいる。世間と〝ずれて〞いるゆえに迫害されてきた魔女たち、命や声を奪われてきた存在の先に、シャーリイ・ジャクスンの作品がある。
彼女が生誕してから百年以上が経って生まれた、トリビュート作品全十八編。ジャクスンを愛し、憧れ、影響を受けた作家たちが紡いだ作品から立ち上がってくる像は、どんな輪郭をしているだろうか。
惜しむらくは、本書の最後に彼女の新作が収められていないことだ。
いつか――十年後、百年後、もしかしたら明日にでも、この本を本棚から取ってぱらりとめくったら、知らない短編が入っているのではないか。最後に、ミミズがのたくったような筆跡で"Shirley Jackson"と署名が入っているのではないか。そんな日を夢見ている。
■深緑野分(ふかみどり・のわき)
1983年神奈川県生まれ。2010年、「オーブランの少女」が第七回ミステリーズ!新人賞佳作に入選する。13年、入選作を表題作とした短編集でデビューし、その年の『AXNミステリー闘うベストテン』第6位となる。15年刊の初長編『戦場のコックたち』は、三つの年末ミステリベストランキングでベスト3にランクインしたほか、第154回直木賞、2016年本屋大賞、第18回大藪春彦賞の候補となるなど高く評価されている。ほかの著作に『ベルリンは晴れているか』(ちくま文庫)、『この本を盗む者は』(角川文庫)、『カミサマはそういない』(集英社)、『スタッフロール』(文藝春秋)、『空想の海』(KADOKAWA)などがある。





