みなさまこんにちは。東京創元社翻訳班Sです。猛暑が続いた8月も終わり、秋の気配を感じる9月となりました。9月11日、いよいよフェルディナント・フォン・シーラッハの最新邦訳作『神』が発売となります。
シーラッハは1964年ドイツ、ミュンヘン生まれの作家です。ナチ党全国青少年最高指導者バルドゥール・フォン・シーラッハの孫で、1994年からベルリンで刑事事件弁護士として活躍していました。作家としてのデビュー作である『犯罪』(2009)は本国でクライスト賞、日本で2012年本屋大賞「翻訳小説部門」第1位を受賞するなど大きな話題となりました。
その後、『罪悪』『刑罰』『カールの降誕祭(クリスマス)』といった短編集や、映画化もされ日本でも公開された法廷ミステリ『コリーニ事件』、舞台化された『禁忌』など数々の著作を刊行し、読書界の話題を席巻してきました。
2023年2月には弊社から『珈琲と煙草』をハードカバーの単行本で刊行しています。こちらは、小説だけでなくエッセイなども含む、新しい手法で書かれた鮮烈な作品です。孤独感を抱える人物の心理を端正な文章で綴った小説や、イエズス会の寄宿学校での出来事、父の死、ナチの高官でユダヤ人迫害に加担した祖父への言及などの自伝的エッセイ、ドイツで死刑が廃止される12日前に斬首刑となった男の犯罪実話など、興味深い文章がたくさんあります。初めてシーラッハの著作を読む方はもちろん、『犯罪』などの作品がお好きな方にもじっくり楽しんでいただける本になっています。
そんな現代ドイツ文学を代表する著者の仕事のもうひとつの側面に、戯曲の執筆があります。2015年に刊行された戯曲『テロ』は、有罪と無罪、ふたとおりの結末が用意されているという斬新な手法を取り入れた法廷劇で、なんと日本を含む世界各国で2600回以上上演されました。
テロリストにハイジャックされた旅客機を撃墜し、164人の命を奪い7万人を救った空軍少佐。彼は英雄か、罪人か? 少佐が有罪か無罪かを観客自身が選び、多数決によって劇の結末が変わるという戯曲で、観客は自らの決断について考えるきっかけを投げかけられました。
シーラッハの戯曲第二作が、本書『神』です。すでにドイツやヨーロッパでは20を超える劇場で上演され、話題となっています。
この作品のテーマは「安楽死」です。なお、ドイツではかつてナチスによって優生学思想を背景とする「安楽死(Euthanasie)」がおこなわれていたことの反省から、安楽死という用語に代わって「臨死介助(Sterbehilfe)」が用いられています。
作品内で舞台となっているのは、ドイツ倫理委員会主催の討論会です。議題は、78歳の元建築家、ゲルトナー氏の主張についてです。彼は、医師に薬剤を用いた自死の幇助を求めています。ゲルトナー氏は診察を受け、肉体的にも精神的にも健康な状態であると判断されています。ただ、愛する妻を亡くし、これ以上生きる意味はないと考えており、死を望んでいます。
「死にたい」という彼の意志を尊重し、致死薬を与えるべきか? この難しい問いを議論する討論会の司会である倫理委員会の委員長、医学、法学、神学の分野から参考人が招集されました。そしてゲルトナー氏自身や彼のホームドクターや弁護士も意見を述べ、活発な議論が展開されます。
しかし、最終的な結論をくだすのは――観客の「わたし」であり「あなた」なのです。
この作品では、第一幕が終わったあとで観客による投票がおこなわれます。『テロ』と異なり、有罪や無罪を決める法廷ものではないので、投票によって劇の結末が変わることはありません。しかし、戯曲を読んだ読者や実際に上演された演劇を観た観客は、否応無しに「死」というものについて考えることになります。
もし自分が不治の病にかかり、死にたいと思った時に、医師の力を借りて楽に死ぬことができるのか? もし家族が死を望んだときに、自分は受け入れられるのか? もう助からない患者の自死を幇助したとして、医師が殺人の罪に問われるのは正しいのか? 本書ではさまざまな問いが投げかけられ、異なる立場の人たちがそれぞれの意見を主張します。
彼らの意見に同意出来る場合もあれば、反発することもあるでしょう。けれど、わたしたちはいつか必ず「死」を迎えます。そのときに、自分の「死」はいったい誰のものなのか? 本書が問いかけていて、思考を促しているのはその点だと思います。
『神』は、あらゆる立場の人に「死」について考えてもらうきっかけになる、画期的な作品であると思います。戯曲ではありますが会話が主体なので読みやすく、中高生から問題なく読めるため、学生にもぜひ手に取ってもらいたい内容です。新型コロナウイルスの出現や度重なる災害、さまざまな病により、死というものは思っている以上にわれわれの身近な存在となっています。ぜひ、そのことについて考えるきっかけの一冊にしてもらえれば嬉しいです。
本書には戯曲を補足する形で、ドイツの原書に「付録」として収録されている3名の論考の翻訳と、日本版オリジナル原稿として、ジャーナリストの宮下洋一先生による「解説」を掲載しています。宮下先生は『安楽死を遂げるまで』で講談社ノンフィクション賞を受賞され、『安楽死を遂げた日本人』という著作もあります。『神』では作中でドイツやヨーロッパ、アメリカなどの安楽死をめぐる状況が説明されていますが、日本ではどのような状況にあるのか、世界各国で安楽死を迎えた人の取材を重ねられてきた宮下先生に詳しく解説していただきました。
フェルディナント・フォン・シーラッハ『神』は9月11日ごろ発売です。デザイナーの森田恭行(キガミッツ)さんによる、シンプルかつ目立つ、上品な金の箔押しのカバーが目印です。たいへんスタイリッシュで美しい本に仕上げていただきました。ぜひお手に取ってみてください!
(東京創元社S)